#23 わたしとどうぶつえん
 うさぎ小屋事件が起こった翌週の日曜日。俺と事件の関係者四人はかねてからの予定通り、最近できたばかりの動物園へと足を運んでいた。今は開園待ちの列のちょうど真ん中あたりで時間を潰している。
「すごい列だな……動物園にこんな需要があるのか」
 人気の動物園と言うことで少し早めに来てみたのだが、俺たちがついた頃には既に長蛇の列ができていた。客層は家族連れから、カップルらしい男女、よくわ からないが大きなカメラを持った男など様々だ。まだ動物の影すらも見えないのに、誰もが期待に胸を躍らせている。
 俺たち五人の中にも、興奮を隠しきれない人がいた。何を隠そう動物園初体験のうさである。まだ見ぬ動物たちに思いをはせ、目をキラキラ輝かせているその様子に高校生らしさはなく、そのあまりに幼い容姿も合わせて小学生にしか見えない。
「う、うさちゃん……私服まで、萌えっ!」
 別の意味で興奮している奴もいるが、今更誰か言う必要もないだろう。ちなみにうさの私服は淡いピンクの半袖Tシャツに折り目の入ったミニスカート。その 下にレギンスといった軽装だ。Tシャツの真ん中には月をバックに杵を構えた勇ましいうさぎのシルエットがプリントされている。うさぎの付いたものを着る。 それがうさのこだわりのようだった。
 俺の服装はと言えば、家の隅に転がっていた大きめのシャツにジーパンという適当な格好。イルカも似たようなものだ。楽弥はまぁ……斬新過ぎて反応に困る。そこかしこに使途不明なジッパーが付いていると言っておけば十分だろう。
「聖。これによるとホワイトタイガーの赤ちゃんが生まれたらしい。この列もそのせいだと思う」
 パンフレットを眺めながら言ったのは如月。そのいでたちはまさかの制服。誰も知らないような校則をここまで遵守しているのは如月くらいではないだろうか。ホワイトタイガー並みに珍しい。
「ホワイトタイガーね。そんな珍しいものなのか」
 俺は興味なさそうにつぶやき、黒山の人だかりを見てうんざりする。どいつもこいつも現金な物だ。生まれた瞬間から見世物にされるトラはどんなふうに思う かなどとは考えもしない。檻に閉じ込められて、毎日数え切れないほどの人間に監視される一生なんて、たとえ一生の安全と食を保障されていたとしてもごめん だ。
『列が動き出したぞ』
 イルカの見せたスケッチブック通り、列の最前列で動きがあった。今にも爆発しそうなほど膨らんだ期待感がざわめきに形を変え、人々を賑わせる。遠目にパ ニック寸前の観衆を高速で捌いていく受付の姿が見えた。その動きに一切の無駄はなく、定型文の歓迎と注意を告げた後、機械的にチケットを切っていく。
 一時間はかかるんじゃないかと思っていた入園までの列は、受付の手際の良さで十五分もしないうちに俺たちの番が回ってきた。人混みに巻き込まれないよう に俺はうさの手を引いて、それぞれ受付にチケットを渡す。他の客とまったく違わない語り文句を読み上げた受付の男は、チケットを受け取ってから一瞬手を止 め、言った。
「これは大人用のチケットだよ? 妹さんは子供用じゃないのかい?」
 チケットを渡したうさが不思議そうに受付の顔を見る。一度返されたチケットを凝視し、つないだままだった俺の手を強く握った。
「うさ、どうぶつえんにはいれないの?」
 泣きそうになるうさの顔を見た受付の男が、慌てて大人と子供では入園料が違うことを説明するが、混乱状態のうさの耳には届かない。見かねた俺はうさが高校生であることを説明しようとするが、それよりも先に如月が口を挟んで来ていた。
「この子は聖の妹じゃないし、れっきとした高校生だ。見た目は確かに小さくてかわいいけど……どちらにしても料金は払っているのだから問題ないだろう?」
「そ、それは失礼……」
 受付の男は別に何も悪いことをしてないのに、如月の語調にひるみ、深く頭を下げる。何もそこまでしなくても思ったが、入れるとわかって表情を緩ませたうさを見て、出かかった言葉を飲み込んだ。
「そういうことです。妹じゃなくて、友達ですから」
 俺は一応受付の男の誤解を解いてから、二人分のチケットを渡し、うさと一緒に門をくぐる。かすかな獣臭とところどころでわきあがる歓声。様々な形をした檻やアトラクション、動物をマスコットにした店などが視界いっぱいに広がった。
「わぁー!」
普段お目にかかることのない動物たちがたくさんいるのを目の当たりにしたうさが嬉しそうな声を上げ、笑顔で俺の顔を見た。俺に兄弟はいないが、こんな妹ならいてもいいかもしれない。そんなことを思った直後に、背後で事件が起こった。
「また、如月か」
 きっかけは受付の男が言った一言。入園手続きに今度は如月が引っ掛かったらしい。
「私のどこが中学生だ! 誰がどう見ても高校生じゃないか。制服だって着てるだろう。ほらこれ、学生証!」
 さっきと変らぬ有無を言わせぬ口調で起こる如月。受付の男には何の悪気もないのだろうが、完全に如月の逆鱗に触れてしまっていた。無理もない。俺だった初めは制服を着ていてなお、中学生だと思った。
「あすかちゃん、どうしたの?」
 大分高い位置にある俺の顔を見上げ、心配そうに見るうさの頭に手を置き、軽くかぶりを振る。そして、小さくごめんと言った。
「動物との交流はちょっとお預けみたいだ」
「えーっ!?」
 すぐ近くに見える色とりどりの動物を前にして、お預けをくらったうさが露骨に嫌そうな顔をする。そりゃ、俺だって嫌だが、うさのように頬を膨らませて 怒ったりはできなかった。ついでに言うとあの説教の仲裁に入るのも嫌だ。嵐が過ぎ去るまで待つしかない。あの受付の男は災難だったが、いまだ入園できてい ない楽弥とイルカに任せて見守るほかなかった。
*
「なんて無礼な男だ。私のどこが中学生に見える」
 不機嫌さを隠そうともしない如月が俺たちと合流してすぐに言った言葉だ。面倒事に巻き込まれ辟易した楽弥とイルカ、そしてそれ以上に迷惑な目にあった後列の人たちを気にしている様子は一切ない。
 如月の説教は予想に反して十五分も続いた。弱り切った受付の男は何度も頭を下げ、最後にはチケットも入場料もいらないから、勘弁してくれとまで言ってい たが、結局は如月が満足するまで説教は続けられた。言うまでもなく、他の受け付けは限界をはるかに超えパニック状態に陥り、そのあまりの多忙ぶりに、次第 に入園前の定型文が簡略化されていく始末だった。
「なんか、あすかちゃん。今日はいつになく機嫌悪いよ」
 楽屋の耳打ちで如月を見ると、確かに如月からは負のオーラが滲みだしているような気がする。言われてみればだが、今日はいつもより怒りの沸点が低いよう にも思う。あんなに怒っていたのを見たのも久しぶりだし、朝っぱらから何か気に食わないことでもあったのだろうか。
 楽弥に代わり、今度はイルカが俺の肩をたたき、如月に見えないようにスケッチブックの隅に小さく書いた文字を見せる。
『彼女、カルシウム不足じゃないか? もしかしたら、大豆不足かも』
「三食欠かさず摂ってる! 牛乳だって……うっ」
 胸元に両手をあてうつむく如月。どうやら見えていたらしい。イルカがバツの悪そうな顔で俺を見るが俺にはどうしようもない。俺に飛び火しないように祈るばかりだ。
「せい、はやくどうぶつみにいこうよ。あすかちゃんも」
 目的の動物たちを目前に焦らされたうさが俺の手を引く。それを見た如月は一瞬だけ表情を硬くしたが、渋々頷いて言った。
「……動物を見に行くぞ。そこの二人、ぐずぐずするな」
「へいへい」
 楽弥とイルカイルカが二人揃って肩をすくめる。このまま説教タイムに発展することを懸念していたが、心底楽しそうにツインテールを揺らすうさを見て、如月も毒気を抜かれたようだ。
 如月の怒りがいくらか収まった頃を見計らい、俺たちは園内を散策し始めた。初めは俺に引かれるままだったうさも、今では俺を引っ張って目につく動物すべてを見ては、話しかけたりしていた。
 もちろん、動物たちは返事をしたりしないが、うさが話しかけると寝ていた動物が起きだしたり、こちらのすぐ近くまで寄って来たりするから不思議だった。 鳥と話す少年の話を聞いたことがあるが、本来人間は動物と話すことができたのかもしれないなとらしくなくファンタジーなことを考えたりする。
「ねえ、みて。しろくま!」
 うさが指差した先には大きな水槽があり、潜水した白熊が度アップで分厚い硝子に鼻を押しあてていた。この動物園の目玉の一つ、縦長のアクアリウムだった。巨体を水中で軽やかに操る白熊の姿は優雅そのもので、こんな狭い水槽にいるのがもったいないと思うほどだ。
 最初はうさ目当てで来ていた楽弥もその迫力に周りの子供たちがどん引きするほどの大声で騒いでいる。如月も楽しんでいるようだったが、口は真一文字に閉じられたままだ。
「如月、体調でも悪いのか?」
「悪くない」
 むっつりとした表情で即答される。じゃあ、なんでそんなに虫の居所が悪そうなのかと聞こうとしたところで、突如人波が動き、慌ててうさの手をつかんだ。 一人にしておいては即、迷子になるのが目に見えているからの配慮だったのだが、それを見た如月の眉がピクリと動いたのが見えた。が、気のせいかもと思い、 あまり気にとめることもなく、人波にもまれながら何とかアクアリウムを抜け出す。
 ひと段落ついたところで、少し疲れた俺とうさの前にイルカがスケッチブックを広げた。
『うさ、せんせいにいわれたことをわすれていないか?』
「あっ」
 すごく気づいた顔をしてなぜか肩かけのポシェットに触るうさ。聞かされていなかったが、うさには動物を鑑賞する以外にも用事があったらしい。
「先生に言われたことって?」
 イルカに聞き返すも返事はない。答えの代わりにイルカはうさを見た。うさに聞けという意味だろう。しかし、うさに聞こうにもさっきの楽しげな表情とは うって変わって沈鬱な顔をしているのを見て、思いとどまる。大事そうに抱えているポシェットが関係あるような気がしたが、そこには触れずにうさの手を握り 返した。
「……ふれあいひろばって、どこ?」
 誰の目も見ないようにして喋るうさ。行かなきゃならない。けれどもできることなら行きたくない。ほんの少しの沈黙の後の言葉。言葉とは裏腹な気持ちがうさの顔に書いてあった。
「ここの道を真っすぐだが」
 パンフレットの地図を見て言う如月を恨めしそうに見るうさだったが、苦悩の末、如月に小さく礼を言い、自らの足で歩きだす。それからは他の動物には目もくれず、ふれあい広場への道をまっすぐと進んだ。
 動物園はそれなりに広い。うさは何度か悲しそうな顔をして立ち止まったが、そのたびにポシェットを触り、また歩き出す。五分もたたないうちに目的地の看板が見えてきた。
 ふれあい広場についた直後、後ろの方にいたイルカがスケッチブックに何か書きながら、近くの飼育員の方へと歩き出し、そのままスケッチブックを見せる。それを見た飼育員は二つ返事でわかったといい、イルカではなく俺のもとへと歩いて来た。
「冬海高校の子たちだね。話は聞いているよ」
 優しげに歩み寄って着た初老の男性を見たうさが、一歩後ずさりし、俺の後ろのに隠れようとする。飼育員のおじさんは不思議そうにそれを見たが、特に何も言うことなくうさの目を見ていた。
「ちょ、おっさん。うさちゃんになにを!」
「楽弥、黙ってろ」
 突然現れた男に楽弥が敵意丸出しで食ってかかるのを、如月が一言で制止する。作業着のおじさんは楽弥の暴言を気にすることもなく、うさと同じ視線まで腰をかがめて、微笑んだ。
「君みたいな可愛い子に育てて貰ってるなら、その方がいいのかもしれないね。無理しなくていいんだよ」
 優しげに顔の皺を作る飼育員のおじさん。それを見て勇気づけられたのか、人見知りの極みともいえるうさが俺の後ろから消え、ずっと握りしめていた俺の手をそっと離した。
「このこ、たいせつにしてください」
 うさはそう言うと、ボタンひとつで止められていたポシェットのふたを開ける。現れたのは白いうさぎ。どこかで見た光景。狭いところに押し込められていたうさぎがぴょんと跳ね、飼育員のおじさんが危なげなくそれをキャッチした。
「うさぎ……」
 白いうさぎの赤い瞳がうさを見る。見開かれたうさの瞳にはうっすらと涙の膜が張っていた。しかし、うさはそれを両手でごしごしとぬぐい、飼育員の腕の中にいるうさぎを一度だけ撫でて言う。
「みんなといっしょになかよくするんだよ。いじめられても、まけちゃだめ」
 うさは自分に言い聞かせるかのようにうさぎに語りかけ、一歩足を引いた。別れを告げるうさの両目には大粒の涙がたまっていたが、その眼はまっすぐに新しい飼い主の方へと向いている。
「大丈夫かい?」
「へいき。わたしには、みんながいるから」
 飼育員は鳴かずにうさぎを見送ろうとしているうさに恭しく礼をし、イルカに学校へ折り返し連絡することを伝え、足早に去って行く。その姿を見つめるうさの体は小さくても、一匹だけ生き残ったうさぎの幸せを願う母の姿だと思った。
「うさ。頑張ったな」
 立ち尽くしたうさの前に屈み、頭を撫でてやる。その一言で限界までたまっていた感情のダムが崩壊したらしく、うさは俺の肩にかをうずめた。感情のままに涙を流すうさをなだめるように小さな背中に手をやる。そのとき、ふいに如月と目が合った。
「今日だけだからな」
 腕を組んでそっぽを向く如月。よく見るとその隣に一字一句同じことの書いてあるスケッチブックを持ったイルカと楽弥が立っていた。
*
 うさぎを動物園に保護してもらった後、泣き疲れて眠ってしまったうさをイルカが背負い、俺たちは動物園を後にした。まだ昼まで少し名残惜しいような気もするが、主役がおねむでは回るのも大変なので仕方ない。
 イルカはうさを家まで送ると先に帰り、俺たちは三人で昼食にしようと話していたときに、楽弥の携帯が鳴った。楽弥は今まで見たこともないような神妙な顔をし、二、三受け答えして電話を切る。
「ごめん、急用ができた。ランチは二人で行ってきなよ」
 楽弥はそう言い残すと、俺たちとは正反対の方向へ駈け出して行ってしまった。
 かくして、五人いたグループは一挙に俺と如月の二人きりになってしまったのだが、そこで如月が待ち構えていたかのように口を開く。
「聖はうさみたいな子が好きなのか?」
 いつになく真剣な表情で俺を見る如月。その内心は表情からはうかがい知れない。
「妹だったら可愛いなと思ったくらいだ。好きとか嫌いとかは……」
 如月の真剣な面持ちに言葉が止まる。如月はしばらく難しそうな顔をしていたが、答えに窮する俺を見て、いたずらに笑った。
「そうか。なら、良かった」
 なにが良かったのか分からないが、いつの間にか如月から先のような不機嫌さが消えていた。それどころかいつもより上機嫌に見えるくらいだ。
「そういえば、結局ホワイトタイガー見れなかったな」
 話題を変えようと今思い出したことを口にする。
「ホワイトタイガーなんかより、今こうしている方がいい」
 少し前を歩きながら言う如月。どういう意味だと聞き返すと意外な答えが返ってきた。
「聖と一緒にいられる方が好きってこと」
「如月。それは俺のことが好きってことか?」
 言って閉まってから、禁句を言ってしまったかもしれないことに気づき、慌てて取り消そうとするが、俺の正面で俺のことを見つめる如月を見て、二の句を告 げなくなる。即座に否定されるか、説教されるか、最悪平手を食らうかと思っていたのだが、如月の反応はそのどれでもなかった。
「取り消さなくていいぞ。それと……私のことはあすかでいい」
「あすか?」
「うん」
 満足そうに笑う如月。いや、名前で呼ぶんだったな。あすかは返事だけすると桜色に頬を染めて、何も言わず俺の左手をぐいと掴んだ。
「お昼にしよう。私はお腹がすいた」
「あ、あぁ……」
 あすかに引っ張られながら、目的地も決めずに歩き出す。少し気恥ずかしかったが、悪い気はしなかった。それどころかこんな平穏がずっと続けばいいとさえ思っていた。
 如月あすか。この変な女は俺を一体どこに連れていくのだろうか。「一緒にいられる方が好き」。如月が口にしたその言葉ばかりが阿多を満たしていた。



 いつまでも、今を、一緒に。
 二人の歩む道のりに日常などないということを、俺はまだ知らない。

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