#20 わたしとおおかみ
 話の通じない相手。そんなのは俺の何気ない日常の中でも腐るほど目にすることが出来る。大抵は空気が読めないか、自己顕示欲の強い奴で、どちらも根本的な部分で頭の悪い相手であることが多い。
 中でも性質の悪いのは暴力をチラつかせれば誰でも言うことを聞くと思い込んでいるタイプ。根っからの王様気質で自分の思い通りにならないものを断固として認めない。そんな類の人間だ。
 彼らは集団で行動し、目障りなものを徹底した暴力で従わせる。腕っ節の強さで自らを誇示し、暴虐無人である事を格好良さのステータスだと思っている節がある。
 厄介な連中だ。彼らの忍耐力の無さと勘違いの度合いに関しては素直に平伏する。かく言う俺自身もそういった輩には何度も遭遇し、その都度無駄に因縁をつ けられてきた。恐らく、一番多かった理由と言うのが、「目つきが悪かった」とか「ガンをつけられた」だったと思う。いや、教師にも不良グループにも媚を売 らない俺の態度が原因か。
 ともかく、俺は彼らを相手にせず、無視した。そうすると彼らの行動はほぼ一パターンに絞られる。一方的な暴力に訴える、それに尽きる。
 売られた喧嘩を買ったつもりもないのに振るわれる拳。一人、もしくは複数からの暴行。俺はその全てを返り討ちにしてきた。何の感慨もなく、降りかかる火の粉を払うためだけに。
 その結果、俺の周囲には誰も寄り付かなくなった。特別親しかった友人がいたわけでもないが、いわば普通のクラスメイトでさえ特別な用がない限りは俺に声 をかけようとはしなくなり、教師ですらも腫れ物に触るのを恐れるように俺に対応する始末だ。時折、殴った相手が再戦を申し出たり、舎弟にしてくれなどと馬 鹿にひれ伏して言ってくるやつもいたが、相手にしなかった。
 学生生活のほとんどを俺は無言で過ごすことになったが、俺としては好都合だった。孤立することも俺にとっては平穏そのもので、気を使わなくて済む分嬉し かったくらいだ。俺の名前が一人歩きすることは気に入らなかったが、地区有数の問題児だと思われようが、別段問題ではない。
 そんなこんなで短い人生の中、俺が言葉を交わしてきたのはほとんど話の通じない気狂いばかりだった。別にそのことを不幸だとも思っていないし、不良扱いされる自分を誇ったこともない。唯一ツイてないと思ったのはあの時、如月に出会ってしまったことくらいだ。
「伏せろ」
 唯一といっていいほどに数少ない友人にかけた言葉。直後、人が変わってしまったかのような形相で俺に襲い掛かってくる卯月の右ストレートが俺の顔面に突 き刺さる。なすすべなく殴り飛ばされたオレは老朽化した小屋の内壁に激突し、腐りかかった板がメキメキと悲鳴を上げた。
 霞む視界の端にイルカに覆いかぶさるようにして伏せる楽弥が目に入る。どうやら警告はちゃんと届いていたようだ。意識が吹っ飛びそうになるのを、奥歯を噛み締めることで何とかこらえ、口が切れて出た血を袖で拭う。
 今までとはまったく異質の、話が通じない相手が、目前で肩を震わせていた。見知った相手から、何の予備動作もなく繰り出された右ストレート。正直な話、全く見えなかった。攻撃されると思った瞬間には視界が遠のき、下顎が爆発したような痛みがあっただけだ。
「うづき……うさ」
 殴られた衝撃で上手く言葉が紡げない。ここ数日毎日のように会っていた少女の名前を口にするものの、頭のどこかで目の前にいる少女が俺の知っている誰か であるとは信じられない自分がいた。それほどまでに卯月の様子は異常で、普段の気弱であどけない表情は欠片もない。
「うさちゃん、待って! これは……」
 違うんだ。勘違いなんだ、そんな気休めにもならない言葉は火に油を注ぐだけ。俺はいいかけた楽弥の口を塞ぎ、ゆっくりと立ち上がる。標的が楽弥に移ることだけは避けなければならない。自分の身も守れない俺が、楽弥のことまでかばいきる事は不可能に近かった。
「うさ。喋れるようになったんだな」
 崩れ落ちそうになる状態を気力で支え、ファイティングポーズをとる。臨戦態勢をとったものの、形だけだ。実際は立っているのも苦痛なほどに足腰に来ているし、傘野郎とのダメージも残っていた。ただの挑発、卯月の視界から友達を遠ざけるためのデコイ。
「ううううう……!」
 獣のように唸り、威嚇する卯月。雨に濡れた前髪で表情まではうかがい知れない。しかし、その全身にまとう怒気と自然体で握られた拳から明確な意思が伝わってきた、すなわち「殺してやる」と。
 二撃目はすぐに来た。跳躍すると同時に矢のように放たれる右。脊髄反射だけで受けた左腕がミシミシと嫌な音を立てて軋み、無意識のうちにガードが跳ね上 がる。狭い小屋の中では回避行動も取れず、とっさに右腕で顔面をかばう。だが、その瞬間には目にも留まらぬ左足が俺の腹を抉っていた。
「……くっ」
 よろめく足。攻撃をもろに受けた腹から胃に競りあがってくる熱い物を感じる。胃液に混じった昼食のパンの残り。内臓損傷を知らせる黒い血。気絶を促す生 存本能に逆らい、浮いた足を血の滴る右腕で掴み取る。そのまま言うことを聞かない左腕を酷使し、卯月の細い首に手を伸ばした。
「効いたぜ……卯月。話がしたい」
 交渉の申し出に対する返答は、あの体勢から放ったとは思えないほど重い左だった。頬骨が砕けたかのような痛みが襲い、続け様に放たれた頭突きが額を割 る。眉間から伝う血が顔の中心を枝分かれしながら、顎先まで赤く染めていく。危うく放しそうになった腕を最後の気力を振り絞り、握り締めた。
「うく、ぐぐぐ……」
 俺の左手が卯月の首を圧迫し、軌道を狭めていく。このまま意識を失ってくれれば、話が出来る状態まで持っていけるかもしれない。失血と体内に刻まれたダ メージに脳を侵食されながらも、頚骨を折らない程度に力を込める。つい先ほどの皐月のときのような感覚が思考を満たしそうになるのを必死でこらえた。
「全部話す。話がしたいだけ……」
 思考とは関係なく力を込め続ける左手。ああ、またこの感覚だ。以前から、いや気付いたときにはこうなっていた。人に備わっているはずの機能の一つが俺に は足りないらしい。俺は……敵が強者であれ、弱者であれ、手加減が出来ない。身体の奥底で容赦と言う言葉を知らない。知っていたとしても、俺には”殺意” を制御できない。
「ぐぐ……」
 喉を掻き毟るようにして苦しむ卯月。誰か止めてくれと悲鳴を上げそうになるが、俺の身体は自分のものではないかのように、左手を万力のように締め上げていく。まるで殺意にコントロールされたロボットのようだ。
 如月……いつも、間一髪で俺を止めてくれたあいつの名が心の片隅に浮かんで、すぐ消えた。俺の衝動を止めたのはあの小うるさい女ではなく、左手の指を焼くような強烈な痛みだった。
「ぐるるるる……!」
 左手の人差し指の一部が欠けていた。吹き出てくる血液よりも、燃えるような痛みも今はどうでも良い。ただ、卯月を殺さずに済んだことを心から喜んでいた。
 卯月は俺の人差し指の側面を噛み千切ることで俺の束縛から逃れた。その拍子に俺の気が緩んだのか左足の拘束も溶けて、今は見も心も獣になってしまったか のように地に伏せて俺のことを見据えている。低い大勢から覗いたうなじには俺の指の後がはっきりと浮かんでいる。
「げぼっ……」
 今になって思い出したかのように、喉の奥から血の塊のようなものがせり上がり、たまらず吐き出す。次の攻撃は受けきれないなと覚悟を決めざるをえないほ どの痛みが体内を駆け巡った。身体も傷だらけでとっくに限界を超えている。卯月のことを殺さずに済んだだけでも僥倖だろうと自分に言い聞かせる。
 確実に訪れる死を実感し、それに共感したように膝がくず折れる。土台、無理な話だったのだ。たとえ上手く卯月の怒りを静めることが出来たとしても、卯月 が目にした現実を変えることは出来ない。これだけ状況証拠が揃ってなお、いい訳だ。誤解だなどという方がどうかしている、死んだうさぎが生き返らないのと 同じで、卯月の悲しみはその犯人だと思われている俺を殺すことでしか晴れない。
「ごめ……んな……」
 口を着いて出た謝罪。誰に向けていったものかは自分でもわからない。俺のような人間のせいで手を汚してしまう卯月に対してか。無残に殺されたうさぎのた めか、二度とくだらない冗談を聞けなくなった楽弥に対してか……そのどれでもない気がしたが、どうでも良いとも思った。
 俺は静かに目を閉じ、とどめの一撃を待つ。どこに当たっても致命傷だが、出来れば楽に死ねると良いなと念じ、そのときを待つ。耳に入るは卯月の靴音。最 後を待つ俺に聞こえてきたのは卯月の拳が肉を叩き、骨を砕く音。だが、それは俺の身体から鳴ったものではなかった。
 反射的に目を開く。ただ、死を待つだけの間合いにいたのは、傷だらけで気を失っていたはずのイルカだった。全力でしとめに言ったはずの卯月の攻撃を受けてなお、細い身体を抱きすくめるようにして支える背中がそこにある。
「イルカ! なんで、お前が……」
 イルカは動揺する俺のことを一瞬だけ見やり、直後に血の混じった唾を吐き出す。暗い小屋にぬらりと光る黒い血。しかし、動けないほどに拷問されたはずのイルカの背に死の影は見えない。
 おもむろに口の中に指を入れるイルカ。赤黒い血がべったりと指先を濡らし、窓から差す月明かりに怪しく輝いている。イルカは何を思ったのか、血のついた 指をいま自分を殴ったであろう卯月の腕に沿わせた。ゆっくりと、紡ぐように滑らかに動く指先。何度も見たイルカのただ一つの言語表現。何を書いているの か、無駄のない指の動きを目で追うことで理解する。
『ぼくはいるか。きみは?』
 卯月の腕に書き出された簡単な文章。卯月にもわかるようにひらがなで優しく気遣われた文体。紅く充血した卯月の目から透明な液体が零れ落ち、感化されたかのように唇が動く。
「わたし、うさ。卯月うさ!」
 可愛らしい声で紡がれた卯月の名前。背中越しにもイルカが笑っているのがわかった。イルカは文字を書くのに濡らした指先をうさぎの死体の山へと向ける。イルカの口が僅かに動き、動くはずのないうさぎの山がほんの少しだけ動いた。
「うさぎ……?」
 うさぎの死体が盛り上がり、全身の毛を赤く染めた一匹のうさぎがよろよろと這い出てくる。十数匹いたうさぎの中でもひときわ小さく、よくいじめられていたうさぎだった。赤い体毛は返り血によるものらしく、他のうさぎにあったような穴は開いていないようだ。
 イルカは生きていたうさぎを見ると同時に、小さな卯月に折り重なるようにして気を失った。
 誰も動かなくなったその後、我に帰った卯月の泣き声をかき消すように救急車のサイレンが鳴り響き、点滅した赤が小屋の中を明るく照らし出した。
*
 まさかイルカを運ぶために如月に呼ばせた救急車に自分が乗る羽目になるとは思わなかった。一台の救急車にそれぞれ担架に乗せられた俺とイルカ。てきぱきとした救急救命士の処置に安堵しつつ、重いまぶたを閉じる。
 行き先は一番近い月島病院だろうなと思いつつ、同時に如月の無理な物言いに困惑した119番を思って苦笑する。そういえば、如月のやつがどこに言ったの か楽弥に確認しようと思ったが、ついさっき打たれた麻酔のせいか、体中の感覚が薄れていて話そうにも話せなかった。
 運びこまれる最中に聞いた救命士の弁によると、イルカよりも俺のほうが重傷のようだ。全身至る所に巻かれた包帯からして見ても、断然俺のほうが多い。口も聞けず身動きもできないような状態で起きているのも無意味だなと思い、俺は意識を麻酔の副作用に委ねた。
*
 目が覚めると俺は病室のベッドで寝かされていた。清潔なシーツに病院らしい消毒液の匂い。全身に巻かれた包帯がわずらわしく感じたが、動かそうとした左 腕に痛みを感じ、動くのを諦める。よく見ると左腕には点滴の針が刺さっていた。しかも、運び込まれたのは夜のはずなのに、カーテンの隙間から光が差し込ん でいる。
 部屋に備え付けられた時計の針は昼の三時を指していた。どうやら丸一日近く眠ってしまっていたようだ。麻酔のせいか、過労のせいかはわからなかったが、絶対安静の状態であったのだけは間違いない。
「ん?」
 胸の辺りに違和感を覚え、点滴につながれていないほうの手を伸ばす。絹のように細くて長い、しなやかな感触。僅かに感じる自分以外の体温。ショートボブに切り揃えた黒髪。
「如月……?」
 すやすやと寝息を立てている如月の頭が俺の胸の上にあった。手にはタオルが握られており、服装は昨日最後にあったときと同じ制服のままだ。きっと、寝ず の看病をしてくれていたのだろう。聞きたいことは山ほどあったが、ちょっとやそっとじゃ目覚めないくらいに如月はぐっすりと眠っていた。
「起こさないでおくか」
 内側がずたずたに切れた口で静かに言い、目を閉じる。右手は如月の頭の上に置いたまま、気の利かない看護師や悪友が来ないことを切に祈り、如月の体温を感じながら、もう一度まぶたを閉じる。



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