#20.7 少女VSミイラ男
  白い壁に白い光が照らす病室。患者は一人。全身に大小様々な傷を負い、静かに寝息を立てる少年。
 私はこの男のことを知っている。数ヶ月前、たばこのポイ捨てを注意した男。霜月聖だ。言うまでもなく、聖は普段から全身包帯だらけではないし、病院暮らしでもない。私の過失で入院するほどの怪我を負ってしまったのだ。
 こんなことになるなら、一緒にいるんだった。押し寄せてくる後悔の波に歯噛みし、膝の上の両拳を強く握る。意味不明な脅迫文の相談などいつでもよかったというのに。
「聖……」
 声を掛けても返事はない。時折、あげるうめき声はテロリストにやられた傷が痛むのだろう。血の滲んだ包帯は赤く、痛々しい。
 どうして月読先生はこうなることを予見していながら、もっと早く教えてくれなかったのだろうか。私を危険に巻き込まないため?
 巻き込まれた方が良かった。たとえ、私自身何の役にも立たず、足手まといになったとしても、今こうして後悔の闇に身を沈めるくらいなら。
 強烈な罪の意識が私の身を苛み、胸を締め付ける。テロリストの襲来も、うさの暴走も食い止めることができたはずなのに。結局私は聖の無事を祈ることしかできなかった。
 私は……自分で思っていた以上に、無力だ。
「う……」
 眠りながらも、聖はたびたび苦鳴をあげる。私はついさっき看護士さんから借りてきたタオルを手に取り、聖の額を拭う。聖の顔はうさに殴られ、赤く腫れ上 がっていた。私はタオルを濡らして硬く絞り、患部を刺激しないように細心の注意を払って、優しく押し当てる。そのまましばらくすると、眠っているはずの聖 の口が動いた。
「如月……」
 確かにそう聞こえた。私の名前、聖はいつも私のことを名字で呼ぶ。私の名前を呼ばれた時、それが寝言だとわかってなお、きゅうと胸が鳴った。
「夢でも見てるのかな」
 自分を落ち着かせようと勝手にそう思い込む。夢の中の私はどうしているのだろう。いつものように聖のことを叱っているのだろうか。それとも……。
「ダメダメ、そんなことない」
 不埒な考えを頭を振ることで何とか抑える。誰に見られたわけでもないのに、顔が赤染まっていった。両手を顔に当てて覚まそうとしても、火照った顔はなか なか元に戻らない。仕方なく聖に使った濡れタオルを顔に当てると、ほのかに汗のにおいがした。収まりかけていた鼓動が早まっていくのを感じる。
「どうかしてる」
 こんなことでドキドキするなんて。相手は聖で、私がしっかり見てないといけない怪我人なのに。特別な感情とかじゃないのに。それなのに、この胸の高まりは何なのだろう。絶対におかしい。私も一緒に入院した方がいいかもしれない。
 他に誰もいない部屋で二人きり。初めてではない、それでもあの時と今では状況が全然違った。目も合わせられない。そんな後ろめたさがある。
 何度か深呼吸して、息を整えてからもう一度だけ横目で聖のことを見る。雨に濡れ、傷の治療に邪魔だということもあって、着替えさせられたガウン……それ が、胸元ではだけているのが目に入った。包帯の隙間から見える、引き締まった身体。そういえば、テロリストから逃げるときに抱きかかえられたっけ。不可抗 力とは言え、そのことを思い出して、また意識してしまう。
「風邪を引くと困るから」
 誰も聞いていないのに言い訳し、身体を見ないようにしてずれたガウンを元に戻す。不規則な息遣いに体が反応しないように、ゆっくりと着実に。
「あっ」
 熱い物に触れてしまった時みたいに反射的に手を引っこめる。ガウンの折り重なった部分を直す時に、うっかり身体に触ってしまった。一瞬だけ感じた聖の体 温。指の腹についた熱っぽい汗。慌ててタオルで拭いたけれど、指先に残る熱のようなものまでは消えなかった。手や腕以外で自分と同世代の異性に触れたのは 今のが初めてだったかも。そう思うと自分の体温まで上がっていくような気がして、なんだかどうしようもなく恥ずかしくなった。
「何やってるんだろう、私」
 些細なことで慌てたり、胸を高鳴らせてみたり。はたから見たら、完全に不審者だ。そんなことより、聖の汗を拭いてあげないと本当に風邪をひいてしまう。
わずかな逡巡。頭の中でどうすべきかわかっていても、手が出せない。今まで一度もなかった感情が邪魔をする。
「私がしっかりしなきゃ」
 かぶりを振り、覚悟を決める。今日はわたしが看病するって決めたんだから、その務めは果たさなければならない。
 私は腕まくりして、濡らしたタオルを取る。病室は適温に保たれているのに汗をかくということは、きっと身体が怪我と戦ってる証拠だ。辛い思いをして頑張ってる聖を助けるためにやるんだから、別にやましい気持ちはない。
 ガウンに手をかけ、手始めにボタンを外す。もう後戻りできない。空いた左手で右、左と順番に服を脱がしていく。少ししか見えていなかった聖の上半身が私の手によって露わになった。
「う……」
 私の身体とは似ても似つかない鍛え込まれた身体。包帯におおわれていても違いがわかるがっしりとした肉体。うっすらと香る汗の匂い。自分でやったにもか かわらず、目の前の現実に頭がくらくらした。この後、全身の寝汗を拭うことを考えると気が遠くなるほど難しいことのように思えてしまう。
 さっき覚悟を決めたばかりなのに、私の心は既に帰りたいと思うまでに揺らいでしまっていた。手にしたタオルが重く感じるのも気のせいではない。取り落と しそうになるそれを、わざわざ一度持ち直し、聖の胸元に当てる。そしてそのあと、ゆっくりとお腹のあたりまで移動させていく。
 この薄いタオル一枚を隔てて聖の身体があると思うと、気が気じゃなかった。
 私はできるだけ心を無にして、上から下へとその作業を続ける。時に包帯の部分を避け、聖の寝息の変化にびくびくしながら、汗を拭いとっていく。
もし今、聖が目を覚ましたりしたら、私はどう言い訳したらいいんだろう。
いつもだったら、自分よりも大人だろうとガラの悪い人種であろうとも言い任せる自信があるのに、今は……どうやっても言い訳できそうになかった。
「ふぅ……」
 やっとのことで上半身の汗を拭い終え、一息つく。一応見える部分は済んだけれど、寝ている関係で背中や、ガウンの袖に隠れている腕はどうしようもない。 脇のあたりは申し訳程度に拭いたけれど、包帯とかが運の構造上これ以上はちょっと無理そうだった。となると、次は……。
 目線が動き、いま吹き終わったばかりの上半身から下へ、まだ一度も見ていない、いや、見ないようにしていた部分に視線を落とす。ガウンの下の方、ボタンはまだ開けたままだから、ほんの少し布をずらせば見えてしまう一か所。
「うぅ」
 一歩後ずさり、両手で顔を隠す。顔は隠せても、指の隙間から見えてくるものは隠れてくれない。絶対に汗はかいてるだろうし、気持ち悪い感じになっていると思う。でも、これは……こればっかりは。
「無理だよぉ」
 そこまでやってしまったら、もう未知の領域を通り越して、禁断の領域に踏み込んでしまう。そんなのは多分、他意があろうとなかろうと不健全だし、まだ高校生だし、いけないことに違いない。
 頭では分かっていたつもりだった。それでも視線はさっきから固定されたまま動こうとしない。汗を拭いてあげたおかげか、聖の寝息もさっきよりは安定して きた気がする。葛藤はあったけれど、自分のせいだという罪悪感。自分しかできないという使命感。曲がったことはしないという自分の信念。……そして、ほん の少しだけ、怖いもの見たさの好奇心。
(見ないようにすれば、大丈夫……?)
 頭の中で聞こえてくる悪魔のささやき。いつもなら即座に否定できるような事でも、今は正常な判断ができないくらい混乱していた。
 空いた手が、自分ではだけさせたガウンの襟に伸びる。腹筋の下、見ちゃいけない部分を少しずつ、焦らすように見せていく。肌の色とは違う、聖の下着のゴ ムの部分が目に入り、手を止めた。良かった、下着は穿いてるみたい。罪の意識に泣き出しそうになるのをこらえて、一気にガウンをめくる。
 気がつくと固く目を閉じていた。本当に何をやってるんだろう、私は。思えば汗を吹こうなんて考えた時点でこうなることをいくらか予想していたのではないだろうか。
 恥ずかし過ぎて、顔や耳までもが桜色に染まっていくのがわかる。こんなことして、何がしたいのか、自称優等生が聞いてあきれるような痴態だ。しかも、この後、私がしようとしていたことを思うと気が気じゃない。
 どのくらいそのまま固まっていたのだろう。恐る恐る片目だけあけてみる。隠した指の隙間から見える、聖の……下半身。思わず小さく悲鳴を上げそうになる。こんなの、善意でも何でもない。ただの変態だ。
 さっき身体を拭いていたのとはもう完全に別の話になってしまっている。すぐ近く、目と鼻の先にあるのに届きそうな気がしない。慌てて目を閉じても、私の許容範囲をはるかに超えたそれは、まぶたの裏側にしかと焼き付いて離れなかった。
「う……」
「……!」
 今まで止んでいた聖の声が突然聞こえ、顔を覗き込む。目は閉じられたまま。起きてしまったわけではないことを知り、ほっと胸を撫で下ろす。ガウンを脱がせてしまったせいで空調の風があたり、傷を刺激したようだった。
「せ、聖?」
 さっきと同じで返事はない。けれども、このまま風にさらされ続ければ目を覚ますのも時間の問題だった。いくら病院内とはいえ、半裸では寒いに違いない。このままガウンを着せ直すか、それとも最初に考えて射た行動を実行に移すか。
 簡単な二択だった。邪魔するのはわたしの邪まな心。握りしめられ、水滴の滴るタオル。今なら、まだ何事もなかったようにできる。でも……聖の容態のことを考えたら。
 半ば答えは出ていた。私は火照る頬を押さえ、決断する。いつもの私なら100%選ぶことのない、難しい方に。
 薄目を開けて、聖の下着の位置を確認する。薄布の下、私は濡れたタオルで右手をくるむようにして、聖の下着の中に指先を滑り込ませる。一瞬、聖の声が聞 こえたような気がして、鼓動が激しくなった。幻聴だとわかっていても、やってることがことだけにどうしても気になってしまう。
 指の進みは這うように遅い。下着の中のものに触れてしまうことを考えるとこれ以上早くは動かせなかった。それでもこうやって指を伸ばしていけば、いつかは届いてしまう。
 目を閉じながら、見えないところに手を伸ばす感覚は、その先にあるモノのこともあって、とても恐ろしく感じた。
 あと数センチ、もしかしたら、もう触れてしまってるかもしれない。タオル越しでよくわからないけれど、その行為そのものが、私をおかしくしていた。
 口から心臓が飛び出しそうなくらい緊張しているのがわかる。亀の歩みのように遅い指の動き。指先が何か柔らかい物に触れた……そう思った瞬間に物音がして、ドアノブが回る動きがスローモーションのようにはっきりと見えた。
「あら、お邪魔だったかしら」
 ドアの正面。白衣の看護士さんが、点滴の乗ったトレイを片手に立っていた。当然のごとく、とんでもない姿で硬直する私。弁解しようにも口が乾いてしまって声を出せない。
 看護師さんは何食わぬ顔で点滴を交換し、固まったまま動けない私に微笑みかけた後、そっと耳打ちする。
「可愛い彼女さん、えらいわ。普通そこまでしないもの」
「これはちが……」
 大きな声でいいかけて、寝ている聖のことを思い出して、何とか抑える。看護士さんは、自分の仕事を終えたのを確認すると、パニック寸前の私に向けて、言った。
「いいのよ。内緒にしといたげる。でも、気をつけて」
 一度言葉を切り、はにかんだ笑みを見せる看護士さん。小悪魔のような笑みを見せて、口元に手を当てる。
「男の子って溜まるらしいから、ね?」
「……!?」
 意味がわからず、看護士さんが出て行った後のドアを見つめる。そして、最後の一言の意味を理解して、私は再度赤面した。

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