#07 少女VS友達
 逃げ帰る俺たちに二度、雨が降った。天気予報などまるで見ていなかった俺は傘など持っているはずもなく、ずぶ濡れになる。そのまま野放しにしようと思った如月は何故か俺についてきた。
 ついさっきまで縛られていたことは既に分からないほどに身綺麗にしていた少女は、安全なところで携帯電話を取り出して、一瞬だけ顔を伏せ、電源を切った。小刻みな震えが止み、パタンという音とともにスカートのポケットにしまう。彼女の持ち物である鞄はどこかにいってしまっていたので、彼女の持ち物は携帯電話と奪ったスタンガンだけだった。
 俺は彼女のものである、パスケースを手渡す。彼女はそれを受け取ると、学生証と定期証だけ抜いて、律儀にコンビニのゴミ箱に放り込んだ。続けて携帯電話すら投げ捨てようとしたところで流石に止める。
「何を…」
「……うう」
 何を思ったのか、急に俺にしがみ付いてきた。人通りの多い場所、確実に抱きつかれているように思われたに違いない。俺が戸惑っていると、少女はおいおいと泣き出したのだ。
 今頃になって積み重なった恐怖が爆発したのかも知れない。しかし、こんなところで泣かれると迷惑するのは俺だった。
「もう、テロリストは逮捕されてるところだ。泣いてないで家に帰れ」
 出来るだけ優しく言ったつもりだったのに、大きな声で泣き出した。このままではテロリスト相手とはいえ、あれだけの暴力事件を起こした俺だ。出来ることなら目立つのはまずい。慌ててその場から逃げだそうとするが、少女は泣きやむどころか俺のシャツをつかんで離さなかった。
「なんだよ……さっさと家に」
「帰りたくない」
「何故?」
「……お父さんに顔向けできない」
 警視総監の娘。不甲斐なさからの涙だったのか。しかし、犬猫じゃあるまいし、この携帯とスタンガンしか持たない女をどうしろというのだ。
「一晩だけかくまって欲しい。考えたいんだ」
 滅茶苦茶だ。俺は一人暮らしではないし、楽弥も曲がりなりにも親元だ。俺は自分の携帯を取り出し、親に電話して聞いてみるふりをしながら楽弥にかける。
「何か、助けた女が匿って欲しいとか言ってるんだが……」
「一日目でお持ち帰りですか!」
 おどけた声で茶化す楽弥。俺は即座に否定し、助言を求める。楽弥の解答はシンプルだった。
「末長くお幸せに!」
 問答無用で電話を切られた。祝いの言葉どころか、突き放す一言だ。テロリストとの対決とは違い、どういった行動をとって良いのか分からない。そんな中、 示し合わせたかのように雨が降って来た。湿度が増し、傷口に染みる。それほどの怪我ではないが、適度な治療は必要だろう。
「痛むのか?」
「別にたいしたことじゃない」
 いつの間にか泣きやんでいた如月が心配そうに見やる。降りしきる雨が、つややかな黒髪に、白いシャツに染みていく。わずかではあるが、シャツが透けて健康そうな肌が見えてくる。雨の勢いは既に傘が必要なくらい降り続けており、真黒な雲からはこのまま雨が止むような事はないと物語っている。
「一晩だけだからな」
「ありがとう」
 如月はコクンと一度だけ頭を下げ、何故か俺の手を握った。案内しろということなのか分からないが、雨の中走り始めてから俺に置いて行かれないようにするためだと分かった。

*
 俺の家に着くころには二人とも完全に濡れ鼠だった。途中電車に乗った時に手をつないでいた時の気まずさは思い出したくないが、お互いの通学路内で定期が利いたから良かったものの、学区外だったとしたらもっと長い間雨に濡れていたことになる。今もできるだけ見ないようにはしているが、身体の線がはっきり見えるほど濡れていた。
「さむい……」
 彼女は一言だけそう口にすると、ほんの少しだけ腕を抱く。あれだけ濡れれば体温だって下がる。うちの両親がこんな姿の女を見たらどういう反応をするだろうか。タオルくらいは貸してくれるかもしれないが、部屋に案内などは確実にしないだろう。するとしたらまずは電話、場合によっては家まで送るなどと言いだすに違いない。しかし、そのどちらも彼女の望みとはかけ離れたものだ。
「しかたない」
 そう呟いて手を取る。一晩だけだと自分に言い聞かせ、家の鍵を取り出す。今日は二人とも仕事だから問題なく入れるはずだ。
「本当に一晩だけだからな」
 再びコクンと小さく頷く如月。ドアを開くと案の定、無人だった。靴もそろえずに風呂場へと向かい、バスタオルを放り投げる。如月も何も言わずにそれを受け取り、頭や顔を拭った。
 さて問題はここからだ。一晩泊めるとは言ったが、当然親の許可は取ってない。となると俺の部屋に上げるしかないわけだが、それにもいくつかの問題があった。第一に俺の部屋にはベッドが一つしかないこと。着替えがないこと。そして食事の問題だ。最悪、今から買いに行かなければならない。トイレだけは運良くニ階にもあるので鉢合わせない限り安全だが。
 山積みの問題を前にため息が出そうになる。楽弥め、気軽に面倒なものを押しつけてくれたな。疲れて如月に目を落とすと律儀に自分の靴だけでなく俺の分まで玄関に向けて並べ直していた。
「靴も直さないとはだらしがないぞ」
 こいつといるとため息が増える。頭を抱えながらも言った。
「お前の靴は持って入るんだよ。親にバレるだろうが」
 キョトンとした表情をする如月。そして、ワナワナと震え始める。一瞬にしてこれからの自分の状況を把握したようだ。
「親の許可なく泊まるということは……」
「俺の部屋に泊まるということになるな」
 文字通り拾ってきた猫のように。俺からしてみれば猫の方が数段マシだが。しかし、如月の考えていることは俺とは別の問題のようだ。
「お、おまえは……健全な男子か……?」
 どういう意味だ。持病もなければ特定疾患もない。肉体的に見ればどう考えても正常だ。
「健全かどうかは分からないが健康状態は良好だ」
 胸を張って答える。そもそも不健康であるなら、あんな無茶などせずに静養している。しかし、その答えは彼女にとっては別の意図があるように聞こえたようだった。
「私のこと、襲うつもりか?」
「は?」
 そう言った如月の体は気のせいか震えていた。寒さではなく、もっと別のことを恐れている様子だ。濡れた衣服、艶やかな黒髪、脅えるような視線。なるほど、そうか。普通の健全な男子なら、発情してもおかしくない。
「始めからそんなつもりはない。それでも嫌なら、家に帰れよ。傘くらいは貸してやる」
 上目づかいで俺を見やる如月。信頼に足る人物かどうか、見定めているようだ。小考の後、如月の方から口を開く。
「お前、名は?」
「霜月聖」
 先に名乗るのが常識だろうと思いながらも、今まで名も知らないやつに説教を垂れ、しかも泊めろという無茶まで要求していた彼女の異常さを改めて実感する。
「下半身のしもに、性別のせいか?」
「冷たい霜に、聖戦の聖だ」
 性なんて名前を付ける親が何処にいる。恐らく、彼女なりの不安の裏返しがそういう連想につながったのだろうと勝手に判断する。
 コントみたいなやりとり。少女は一度顔を伏せてから、俺の目を真っ直ぐに見つめ、言った。
「私の名前は如月あすかだ。ひらがなであすか。助けてくれた聖を信用する」
「そうしてくれ」
 普通じゃない自己紹介を終え、二階が俺の部屋だと教える。別に見られて困るものもない。トイレの場所や親に見つかると困るという点から勝手に部屋から出ないよう注意し、慣れた動作で部屋のドアを開けた。
「男の人の部屋って、もっと散らかってるのかと思っていた」
 俺の部屋を見た如月の第一声がそれだった。部屋にはベッド、本棚、収納が一つずつ。整理されているというよりは生活感がないという感じだ。単に俺が睡眠以外に何もしていないというのが理由だが。
「あんまり大きな声でしゃべるなよ」
「わかった」
 如月の声は幼く見える見た目の割にかなり大きく、よく通る。玄関くらいまでなら余裕で聞こえそうだ。俺の注意に対する返事も十分に大きく、本当に理解しているのかどうかも疑わしい。
 まぁ、いい。どうせ今晩だけだ。何とでも隠し通せるだろう。
「適当に座れよ。俺は椅子で寝る」
「すまない。いつか礼を……なッ!?」
 突然顔を覆う如月。小さな手のひらからはみ出して見える頬は熱でもあるかのように赤い。不自然だなとは思いながらも着替えるためにYシャツのボタンを全部外し、洗濯かごに投げ入れる。続けて学生服のズボンにも手をかけると如月が喚きだした。
「着替えるなら、先に一声かけろ!」
「濡れたんだから、着替えるに決まってるだろ。目でも閉じてろよ」
 そうとだけ言うと、トマトみたいに顔を赤くした如月を尻目に下着まで換える。部屋着用のジャージに着替え終わった後、フリーサイズのフリースと小さくなったパンツ、制服用のハンガーをベッドの上に置く。ベッドの上では顔を隠して固まったままの如月がいた。
「いつまでそうしてるつもりだよ。ほら、風邪引きたくなかったら着替えろ。貸してやる」
「う……そうだな。恩に着る」
 いつぞやとは違って、妙に素直だな。しかし、なかなか如月は着替えようとせず、代わりに俺のことをじろじろと見ている。頬も染めたままだ。なんだ、まだ何か言い足りないのか。
「聖、着替えるぞ」
「ああ、早く着替えろよ」
 面倒くさそうに言い、机の引き出しからタバコを取り出す。如月の顔がさっきの羞恥心からの赤ではなく、別の赤に変わっていた。
「見られてたら着替えられない!」
 別に見てないが。くわえたタバコに火をつけることを諦め、ライターを机の上に置く。
「ほら、目をつぶったぞ。興味ないからさっさとしてくれ」
「信用できない! 部屋の外で待ってろ!」
 さっきは信用するって言ったくせに、何てお姫さまだ。俺はしぶしぶ了承し、部屋の外に出る。何故、部屋の所有者が追い出されなきゃならんのだ。理不尽過ぎる。
 ドアを背に、口先で火の付いてないタバコをもてあそぶ。今置かれているこの状況はなんなのだろうか。手持無沙汰に携帯を取り出し、登録されたメモリを眺める。顔も思い出せないやつらばっかりだ。
 あ行から順にデータを消去していく。残すのは楽弥と両親だけだから他を全部消せばいい分、楽な作業だ。連絡も来なければ、こちらから連絡することもない希薄なつながりなんてあるだけ無駄だろう。いっそ疎ましい両親のメモリも消してしまおうか。そう思った刹那、後ろから声をかけられた。
「お前、随分と友達少ないな」
 昨日今日会ったとは思えないほど辛辣な言葉を投げかけたのは、明らかにサイズの合わない服に着られてる如月だった。友達という表現自体に何の感慨もないので、否定することもしない。
「今、消したんだ。別に友達でも何でもないやつらだったから」
 そう言ってから、如月が携帯を捨てようとしていたことを思い出す。あの時は気づかなかったが、今になって如月がどうしてあんなことをしようとしたのか、漠然と理解した。
「余計なお世話だ。お前だって友達いないだろ」
 売り言葉に買い言葉だが、おそらく間違ってはいない。フリース姿になった如月は何も言わずに自分の携帯を取り出して、俺に見せる。画面をスクロールする必要もない。一番上に「父」と一行あるだけだった。
「友達のいないお前のために、私が友達になってやってもいいぞ」
「遠慮しとく。俺の日常を脅かされかねないからな」
 途端に悲しそうな顔をする如月、その表情を見て満足した俺は携帯を操作し、赤外線通信の画面を表示させ、如月に手渡す。
「仕方ないから、俺がお前の友達になってやる。海より深い、俺の慈悲でな」
「霜月。お前に友達がいない理由が分かったぞ。性格が悪いからだ」
「如月。お前もな」
 お互い憎まれ口を叩きながらも、アドレスを交換する。俺にとっての四番目。如月にとっての二番目のメモリが埋まる。ほんのわずかな指先だけの動き。たったそれだけのことなのに、二人の間が妙に近くなった気がした。
*
 夜は何事もなく、静かに明けた。如月の寝言で俺が眠れなかったことを除いては。

目次 #7.3 #8