番兵への耳打ち、シュウさんの叫び、空を切る槍の音、ご主人様の高笑い……何がなんだか わからない。
どうしていつもこうなっちゃうの?わたしは何も悪いことはしていないはずなのに。
それともわたしは存在することすら許されていないの…?
わたしはなかば混乱したまま、両手で主人の襟をつかみ問いただす。
「……!! ご主人様! どうしてあんなことを…言われたとおりに、炎の羽毛をとってきたというのに……。これでは約束が違います!!」
「約束? 何のことだ。さっさとその薄汚い手を離せ」
「…!」
わたしは主人を持ち上げたまま、絶句する。ご主人様…いや、この男は初めから約束を守る気などさらさら無かったのだ。
初めに狼の姿を見られてからというもの、この男がどういう人間かはよくわかってたつもりだし、こいつが自分の利益のためなら他人の命だろうが嘘だろうが何 でもやるってことは屋根裏でもよく聞いていた。
でも、自分を対等に見てくれる人が再び現れて…またも見え透いた嘘を信じてしまった…。なんて学習能力が無いんだろう…。しかも、自分が騙されて傷つくだ けじゃない…わたしのせいでグミさんもシュウくんも酷い目にあってるに違いない…もしかして……あの二人に限ってそんなことはないと思うけど。
わたしは深い自己嫌悪に陥っていたけど、脇腹に感じた冷たい感触によって考えることを中断された。
錆びた鉄の臭い…でも普通の人とは少し違う感じの臭い。それは私自身から発されていたもので、痛みはほとんどないが、斬られた付近の服が赤く染まってい た。
「離せといってるのが聞こえないのか!! それ以上俺のことを無視し続けるようなら、お前の穢れた心臓を串刺しにするぞ!」
どうやら主人がどこかに忍ばせてあった護身用のナイフで、わたしのことを斬りつけたみたいだった。わたしに与えられた唯一の武器…果物ナイフとは訳が違 う、美しい宝飾の施されたナイフ。武器というよりも装飾品といえるほどの芸術品だった。
少し血が流れたからだろうか、わたしの体からは力が抜けて、またも主人に大きな尻餅をつかせる。主人はさっきはあれほど怒ったくせに、今度はわたしの目を 見てひどく怯え、這うようにして屋敷の中に入った。
わたしは呆然と立ち尽くしたまま、とめどなく流れ出る「血」を見ていた。
(ねぇ…おおかみ。わたしにはグミさんやシュウくんとは違う血が流れているのかな?)
(血は皆同じ味だよ。どれも同じ鉄の味さ。)
(……そう。じゃあわたしも同じだよね)
(きっとそうだよ、姉さん。)
そのとき、屋敷のドア越しに名前を呼ばれた。
「ユア、話があるから屋敷の中に入って来い。今すぐだ」
なにかの機械によって拡大された聞きなれた命令口調…いつもよりも声が震えているような気がする。
わたしは、言われたとおりにドアを開け、屋敷の中に入っていった。いつもと同じ廊下…いつもここで女の人に叩かれるか怒られるかするところ。でも、今は誰 もいなくてがらんとしていた。拡大された主人の声が、広い廊下に響く。
「妙なことは考えるなよ。もし俺に歯向かってみろ…お前の秘密をペリオンの戦士ギルドにばら撒くからな」
…。わたしが少しでも反抗するとちらつかせる脅し文句。
でもそれは脅しでしかないことを知らないわけじゃない。主人は戦士ギルドから…というよりもペリオンのほぼ全員に嫌われている。
わたしはゆっくりと歩を進める。一歩、また一歩と進むごとに廊下に赤いしずくが落ちた。わたしは気にせず主人の声が聞こえる方に歩いた。
「そこから動くな。そのまま、話をする」
ようやくたどり着いた広い広い居間は、凄まじい緊張感に満ちていた。
大きなメガホンを持って、脂汗をだらだらと流す主人と、それを取り囲むようにして配置された3人の兵士。
確か主人がエージェントと呼んでいる…戦士ギルドから優秀な戦士をスカウトし、高いお金を払って雇っているらしい人たちだった。幾戦もの修羅場を潜り抜け てきた戦士のはずなのに、わたしの顔を見て恐怖を隠しきれずにいるようだった。わたしはただの傷ついた”人間”なのに……まるで、化け物でも見るような視 線だった。
わたしは主人に声が届く位置までゆっくりと歩こうとするが、主人の叫び声に足を止めた。
「そ…そこから一歩も動くなといっただろうが!!! そ…それ以上こちらに寄ってみろ…エージェントにお前を…」
わたしをどうするの? きっと答えはわたしを殺すとか、戦士ギルドに云々とか、一週間ご飯抜きとかだと思うけど。
そのことは口に出さずに、わたしは素直にその場に立ち止まった。
「よし…それでいい。じゃあ俺がこれから言うことをよく聞け。俺とお前の契約の話だ」
主人だけでなくエージェントたちまでもが、胸をなでおろす音が聞こえた気がした。どうやら主人は契約の話をしてくれるらしい。わたしは契約なんて言葉は知 らないけど…
*
「グミ! 大丈夫か!?」
大丈夫なわけがなかった。グミの肩には一本の長い槍が突き刺さっている。出血は今の所それほどでもないが、槍を引き抜けば、大量出血は免れない。だが、グ ミは苦痛に顔をゆがませながらも、意外に落ち着いていた。
「…大丈夫。ちょっと痛いだけだから…引き抜くよ」
「…我がついていながら、こんなことに……ポーラやシュウに顔向けできないな」
「……んっ!!!」
グミはためらうことなく、右手で槍を抜いた。勢い良く引き抜かれた三つの矛先からは大量の血飛沫も飛び散る。我は感じることのない…それこそ気が狂うほど の激痛がグミの中を駆け巡っていることだろう。だが、グミは歯を食いしばって耐えていた。グミは血が噴出す左肩を押さえながら、十八番であるヒールを唱え る。
「…ヒール!!!」
普段の数倍も大きい、淡い緑光がグミの肩に生じ、出血を止め…傷口を塞いでいく。効果が今までのヒールとは全然違った。火事場のなんとやらというものであ ろうか…まぁ何にせよ、これでグミが死ぬことはなくなっただろう。あの番兵をどうにかできれば。
「グミ、あの番兵がまだこっちに来るぞ! ん…!」
急に我の視界が逆転する。気がつくと、我はグミの両手にしっかりと握り締められていた。いつの間にか本体も龍の口から取り外されている。グミは独り言のよ うに小さく我に言った。
「レフェル…この間教えてもらった技でやっつけるよ。相手は武器がないから、今がチャンス…だよね」
「グミ…強くなったな」
「せっかくあんないい人たちに出会えたんだもん。こんなところで死んじゃうのなんて嫌だよ。もう、何も失いたくない!」
「それはシュウのことか…?」
「……」
グミは何も答えなかったが、否定するわけでもなかった。我の本体は遠心力を加えられ、いかなるものをも粉砕する破壊球となり、真っ直ぐとこちらに向かって 走ってくる鎧に向かって繰り出された。二つの直線が一点において激しくぶつかり合う。番兵に避けるすべなど、あるはずはなく…鋼の鎧はビスケットのように ぐしゃっとひしゃげた。
「やったか!」
思わず我は喋る。だが、我が本体は哀れに潰れた騎士の亡骸の上ではなく、原型のなくなったガントレットと胸を覆う鎧によってしっかりと掴まれていた。戦士 というものは予想以上に頑丈に出来ているらしい。
「喋るモーニングスターとは奇怪だが…あとはあの小娘をぶち殺せば、金は俺のもんだ。一瞬で殺してやりたかったが…あいにく俺には武器がない。たっぷり楽 しんでから、死……」
「スパイク!!!」
グミの叫びと共に、我から飛び出したいくつもの鋭いトゲが、鎧ごと番兵の全身を貫く。間違いなく致命傷だった。
我は、自らの血に染まり死を待つしかない一人の男に、言う。
「奇怪で悪かったな。だが、お前ほどの小物が死に際に我の声を聞けだけでもよしと思え」
番兵は血の泡を吐きながらも何かを言おうとしていたが、言葉にはならない。口の動きだけで判断するに、
「お前は…何者だ?」
と言っていたように思える。それに対して返す言葉など何もないと言うのに…我はただのレフェル。それ以前の過去など何も覚えていないのだから。
続く