おかしな感覚だった。例えていうなら夢を見ているような感じとでも言えばいいのだろうか。目の前の光景は今の状態になる前とほとんど同じか、それより少し視点を高くした感じ。大きな岩か何かの上に立った時や、されたことはないと思うけど肩車をされたらこのくらいの高さになると思う。
 夢の中で司会はめまぐるしく入れ替わり、ついさっきまで対峙していた双頭の龍と戦っている。今にも絶叫を上げそうだった痛みも今はない。わたしの体は龍の爪で貫かれ、重症だったはずなのに、どうしてだろう。ああ、もしかするとわたしは……死んでしまったのかもしれない。
 そう考えると、つらいとか悲しいとかそういう感情よりも先に安堵してしまった。生きていると苦しいことばかり、死んでしまった方がずっと楽だと思っていた。訳も分からず戦いに巻き込まれ、奴隷のように扱われ、傷を負い、仕方なく……殺した。それも、数え切れないほど、何度も。わたしの手は誰よりも血に染まっている。きっと今は地獄に落ちるまでのほんのわずかな猶予期間、もしくはタイムラグみたいなものなんだろう。
 私を乗せた何かは駆け、奔り、炎をかいくぐりながら龍へと立ち向かっていく。どうせ死んでしまうのなら、最後くらい安心して・・・・・・例えば愛する誰かを思い浮かべながら消えて逝きたいのに。
 そうだ。目を閉じてしまおう。そうすれば、こんなものを見なくて住む。わたしのことを愛してくれなかった世界にわたしから目を背けよう。それはとても簡単なこと。何もできなかったわたしに許された唯一の抵抗。
(……え?)
 まぶたが閉じない。閉じようとしても、わたしの意思はまったく無視されたまま、微動だにしない。強制的にわたしの敵との視界を直接映像として頭の中に流されているようだ。
(なんで、なんで死ぬこともできないの?)
 言葉を発しようとした口もぱくぱくとすら動かず、閉じたままだ。一体全体何が起こってるんだろう。これは私の体なのに、動くことのできない人形にでもなってしまったみたい。
 手も足も、ありとあらゆる部分に力が入らなかった。死んでしまったから? それともわたしの存在自体が夢だったとでも言うの?
 じゃあ、早くこの目を見えなくしてよ。そうじゃないとわたしが、わたしが龍を殺してしまう。それだけじゃない。わたしの大切な仲間にまで手をかけてしまう!
 唐突に気がついた、私は死んでなんかいない。むしろ、死なないために体中の血を滴らせながら戦っている。わたし自身がわたし以外の“なにか”の意志によって操られ、戦わされている。
 なんて不思議な感覚だろう。わたしは一体何になっているの? この時々見える白い毛むくじゃらの腕は、指先に生えた凶刃のような爪はわたしのものなの?
『闘いの邪魔をするな』
 目の前の映像と同じように頭の中に直接声がする。低く、獰猛な獣の唸り声のようだ。さっきまでは聞こえていなかった音が、匂いが、感覚がほんの少し戻ってくる。荒れた息遣いとむせ返る血の臭い。グミさんとシュウさんの悲鳴。
(いや……)
 喋ろうにも体の自由がさっきと変わらずにまったく聞かない。見たくない、聞きたくない、味わいたくない感触が五感に響いてくる。わたしの言うことを聞いてくれないわたしの腕がついに龍の残されたもう一つの首捕らえ、鷲掴みにする。人の胴体ほども在る太くたくましい首が、枯れ枝を握り潰すかのように容易く、頚動脈を締め上げ、頚骨をへし折る。龍のぎらついた目が、徐々に光を失っていく。あれほど苦戦し、大きな犠牲を出した龍の命をものの数秒で奪った。
 二つあった首の両方の機能を失った龍は、強靭な生命力で心臓だけはまだ動いているものの、ほっといても死にいく身体であることは間違いなかった。もはやここまで、そう思った刹那、わたしの腕は鋭い風切り音を上げ、龍の首を胴体から切り離し、宙に浮いた龍の首を狼のように発達した顎で見事にキャッチ。そして、何の感慨もなく頭から噛み砕いた。
(うっ……)
 強烈な血の味、骨を噛み砕く感触、ぷちっとしたなにかを噛み潰し、飲み込み、舌なめずりをする。多分さっきのは目玉だったのだろう。気が遠くなるような壮絶な感触、頭は吐き出したい気持ちでいっぱいなのに、身体は高揚感と勝利の快感、何よりその味に酔いしれていた。
(もう、やめて!)
 そう言っても身体が言うことを聞くくらいなら、あんなものを食べる前に止めている。龍の頭に満足したわたしは、更なる味覚を求めて寸胴な体躯のその中心、鱗で覆われているのもお構いなしに軽々と食い破り、真っ白な毛を鮮血に染めた腕をおもむろに突っ込み、人の頭と同じくらいの脈動するなにかを力任せに引きちぎる。痙攣していた龍の身体が、最後に一度だけ大きく震え、完全に停止した。
 そんなことにもわたしは意に介さず、未だに動きを止めない生きた心臓を大きく開いた口に放り込む。
 程よい弾力と共に爆発するように飛び出てくる血液の味。燃えるように暑く、濃い龍の血が口や喉だけではなく、胃や脳、全身の隅々まで染み渡った。強烈な嘔吐勘が広がるが、当のわたしは上質なワインでも味わうかのように恍惚に浸っていた。わたしは吐き出したいはずのそれをぐっと一気に嚥下し、最後に歯に詰まった龍の骨だか牙だかよくわからないものをぷっと吐き出す。
『卑しき龍の分際で、我に歯向かうとは笑わせる。しかし、不味いな……濃いばかりで血の糧にはなりそうもない』
 竜の残骸を前にそうこぼす、わたしには似つかないもう一人のわたし。凶暴な狼が欲しているものが、頭の中に直接伝わってくる。
『こんな龍ではなく、柔らかい人間の肉が食べたい』
*
 ユアの変貌はあっという間のことだった。一瞬で絶命するはずの重傷を負ったユアは数秒の間がくりとうなだれた後、突然息を吹き返したかのように自らがもたれかかっている龍の爪を掴んで、滴り落ちる血をも全て無視し、大きな穴の開いた身体を強引に引き抜いた。
 洪水のようにあふれ出る血液を両手ですくい、三日ぶりの水でも飲むような様子で、一気に流し込む。さしもの龍も完全に殺したと思っていた弱い人間が目の前で生きているという事実に固まっている。我やグミたちも当然のごとく、凍りついたかのように身動きを取れなかった。
 しかし、動けなかった理由はもっと他の部分にあると全員が悟る。ユアの取った奇異な行動ではなく、彼女を構成する一部分、目の変態に気づいたのは我だけだろう。自らの血を飲んでいたユアの目はあの強く優しいトパーズの瞳の中に、爬虫類のような細長く、冷酷な目を宿していた。そこから立ち上る凶悪な気配に、我らは身体の自由を奪われたのだ。
「うううああああああッ……!!」
 本人の声とはまったく違う声で吐き出されたそれは、苦悶とも怒りとも取れる叫びだった。ユアは唸りながら自分の纏っていたよろいを乱暴に脱ぎ捨てる。邪魔だといわんばかりに放り出された鎧はユアの身体同様大きな穴が開いていたが、ユアの血でできた池に浸るや否や、急激な勢いで穴が修復されていき、白い鎧に赤い染みと血の池を消し去っていた。何なのだ。この鎧は。吸血するといった迷信めいたことが、文字通り目の前で起こってしまっている。
 鎧のことも気に掛かるが、今はユアだ。鎧を脱ぎ捨て一糸纏わぬ姿になったと思ったが、そうではなかった。全身が大きく膨張し、腕、足、顔すべてに神々しいまでの白い体毛が発現していった。その姿はユアの中のもう一人の存在、狼と本人であるユアを足して、更に混ざり合うはずのない人間離れした凶器。言うならばモンスターを掛け合わせたような姿へと容姿を変えていった。白い体毛以外は、新大陸に存在する人狼、ウェアウルフに似ている。
「グミ、ユアの姿は……」
 モンスター図鑑を引けといおうと思ったが、乗っているはずがなかった。何しろ我が知らないのだ。あれほどの凶獣、その神々しくも悪魔的な姿を見て、忘れることなどできるはずがない。そして、第一グミのやつは図鑑どころか、我すらも地面に取り落とすほどにユアの姿に釘付けになっているのだった。
 名も知らぬ怪物。一つの身体の中に獣と人間を共存する少女はユアという名から、ただの怪物ライカンスロープになってしまったのだろうか。きゃつは全身の体毛を震わせ、鋭利な牙の並んだ口をコロシアムの真上に向けるとコロシアム全体が振動するほどの大きな方向を挙げた。事実、天井やさっき壊した結界などがびりびりと震え、崩れた壁や砂埃が降ってきている。
 そこからの行動は驚愕する暇もないほど、素早いものだった。本ダンのように四本の足で飛び出したかと思うと、一時的に距離を取って様子を見ていた龍への距離を一瞬にして詰め、強大な体躯に似合わない強烈な腕を繰り出していた。龍の判断するよりもはるかに早く、龍のわき腹に爪と手のひらが食い込み、路傍の小石のようになす術もなく吹き飛び、コロシアムの壁にめり込んだ。
 剣や銃弾ですらほとんどダメージを与えられないほどの強靭な鱗を紙のように切り裂き、肉までもえぐっていた。不意打ちを喰らい、よろめいた龍は壁に食い込んだまま、火炎の連弾をライカンスロープに見舞う。顔面にめがけて打ってきた炎を首を振る最小限の動作だけでかわし、二段目は左手で子蝿でも払うかのようにいなす。肩を狙った三弾目は右腕でがしと受け止め、風船でも割るかのように握りつぶした。何だこんなものかとでも言うような様子だ。
 四弾目からはもう、避けもしない。炎の弾幕わずかな隙間に潜り込むようにして最短距離を翔る。見開かれる龍の瞳孔。壮絶なる自らの最後を悟ってのものか,それすら考える時間もなくただの脊髄反射だけであったのか……龍は瞬時に首を破壊され、切断され、玩ばれ……食された。頭に続けて胴体を穿ち、心臓を掴み出す。それをも躊躇いなく生きたまま口に運ぶ。大量の血液で口の周辺と体毛を紅に染めていく。龍の機能は完全に破壊され、無残な骸だけが残った。あれほどの強敵であり、グミの両親の敵でも会った双頭の龍は一方的に蹂躙され、屠られた。それも、いとも簡単に。
「レ……レフェル、あれ……なんなの。ユアさんじゃ、ないよね?」
 グミの言葉は所どこで途切れ、震えていた。信じられないのも無理はない。元のユアとは似ても似つかない変わりようだ。我ですら、信じたくない。
 しかし、現実は紛れもなくユア本人なのだった。あのように姿を変えたのは我らの仲間であるユアなのだ。
「グミ、あれは……ユアだ」
「ウソ。……そんなはずない。だって」
 だってもなにもないではないか。認めたくない現実を目の当たりにして、真実から目を背けたいのは分かるが……そういいかけて、口をつぐまざるをえなくなった。龍の損壊に飽きたユアが標的に選んだ次の獲物は……?
「こっちに来るよ!?」
続く
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