この世で最も恐ろしいことはなんだろう。それは自分を瞬殺出来る存在と敵対したときか、それとも誰からも相手にされなくなることだろうか。前者は外的に生を脅かし、後者は生への執着を奪う。けれども、最終的にその二つが行き着くところは同じだ。
 彼やわたしを含むすべての生は死ぬことを恐れている。きわめて原始的で本能的であるにもかかわらず、どんな強者ですら恐れる避けられぬ命運。だからそれを避けるためなら何でもする。敵を陥れることや仲間を裏切ることでさえ、生への執着と比べれば安い。
 あらゆるものは自分の命と比べて見れば軽い。釣り合うものなど存在しない。自分のいない世界には価値がない。
 ……果たして、本当にそうなのか。命にかえてでも守るべきものはあるんじゃないか。誰かの盾になり、生を失ったとしても、わたし自身が物言わぬ肉塊に変わったとしても。
 龍はシュウさんへ攻撃した直後、攻撃を止めた。理由はすぐにわかった。奴は自ら落とさせた左頭部のミンチを脇目も振らず口に運んでいた。それは飢えた猛獣のように凄惨に、徹底的に。骨の一欠け、血の一滴すらも残さずに。もう一人の自分の頭をむさぼっていた。
 目を覆いたくなる光景ではあったが、そのすぐ隣にメインディッシュかのように倒れながら指を立てているシュウさんが目に入る。
 ピンチであると同時に今しかないチャンスと思い、シュウさんに駆け寄った頃には、もはや手遅れといっても過言ではない状態だった。全身は怪我をしていない場所はないといってもいいくらいに滅茶苦茶で触れることすら出来ない。すぐにでもグミさんの全力ヒールを至近距離で使わなければ、助からないだろう。
 本能的にシュウさんと龍の間に割って入った。彼は生きているのも不思議な状態なのに右手の中指を立てて、挑発していた。死に瀕してまでシュウさんらしい行動だった。死を悟った人間はここまで強くなれるものなんだろうか。
「逃げ……」
 血と共に吐き出される言葉。最後までわたしたちのために時間を作ろうとしてくれたのだろう。けれど、わたしの取った行動は彼の意思には反したものだった。
「グミさん、早く治療を。ここはわたしが」
 言うまでもなく、グミさんは治療のために奔走していた。あの状態を見て、逃げたくない訳がない。普通なら真逆の方向に走り出して当然なのに、グミさんは近距離で集中的なヒールをかけるためにシュウさんに自らの危険を顧みることなく駆け寄る。
 グミさんにとって、シュウさんと何かを天秤に掛けると言う事は考えられないに違いなかった。もちろん、わたしもグミさんと同じだ。しかし、わたしにとってのシュウさんとグミさんにとってのシュウさんの重さを天秤に掛けることは恐ろしくて想像したくない。わたしにとってはグミさんもシュウさんもかけがえのない存在なんだから。
 血にまみれ妖しく光る刀を堅く握り、その上からクリスタルを自らの手に向かって使う。汗や血で滑ってしまわないように固定するためだ。わたしは、シュウさんが全快するまで真の化け物と化した龍の攻撃を受けきる。つい数分前にシュウさんがわたしにそうしてくれたと同じように。
 龍はあらかた自分の左頭部を食べ終えると、自分の爪を器用に使い、牙に挟まった自分の残骸を取っては飲み込んでいく。自分で自分を食べるなんてことは考えるだけで身の毛がよだつ。何の生産性もない、狂うだけの凶行。自らのリミッターを破壊した龍の挙動はすべてどこかが狂気染みていた。
「……っ!」
 反射で対応出来る最大速度で両腕でしっかりと支えた刀を防御用に上げる。頭をガードするために右上へと持ち上げた刀から血が滴り、鎧を濡らしたが龍の攻撃はなかった。
 一瞬にして濃度の上がった殺気に対して動いたものの、その殺気が向けられたのはわたしではなく自分の左首だった。残像だけが目に映った瞬間、それは鋭利な剣で切り裂かれたのかのように根元から綺麗に切断されていた。龍は肩に乗ったゴミを落とすかのようにそれをやってのけたが、痛みは感じていないようだ。噴出す血潮を厄介そうに頭を振り、おもむろに傷口に火炎を吹き付ける。むせ返るような肉の焼ける臭いと鉄の臭いが充満し、強引過ぎる止血が完了する。
 龍の顔は醜くゆがみ、まるで笑ってるかのようだった。今までひとつしかなかったおもちゃを二人で使っていたのを、一人で好きに出来るようになった子供のそれだ。滅亡の龍は初めて自分一人の体を手に入れた。しかし、それを手に入れたのは理知的に行動するリミッターの役割を果たす人格ではなく、本能のまま行動する壊れた化け物の方だ。
(あたいは姉さんを殺して体を奪ったりはしないよ。あたいと姉さんは二人で一人なんだから)
「似てるなんて思ってないわ。むしろ対極にいるの」
 おおかみには思念だけで会話が出来るにもかかわらず、あえて口に出す。自分を奮い立たせるための強がり。
「わたしはあなたみたいな化け物じゃない。わたしはあなたを討つ」
 切っ先を龍の顔面へと向ける。見紛うことなき宣戦布告に対して、龍は驚くべき行動を取った。鋭く長い爪が自分の腕を傷つけることもいとわず、シュウと同じ挑発をやってのけた。
(出来損ないの同胞が。やれるものならやってみろ……だって。ちょっとノイズが混じるけど、そんな感じのことを言ってる。チッ、一緒にするなゲス野郎)
 おおかみがうなり声から読んだそれは大方間違っていないだろう。なぜならわたしも龍の顔を見てそう思ったからだ。左頭部の脳を取り入れたことでわずかではあるが知恵を得たのかもしれない。その知恵はわたしたちを貶し、殺し、殲滅するためだけに用いられる。
「治療、終わったよ。しばらくは動けないと思うけど、なんとか……」
「走って!!」
 グミさんの言葉をかき消すようにして絶叫する。直後襲い来る斬撃は三つの軌跡を描き、二つは何とか弾けたものの一発がわたしの脇腹を抉る。強固なはずの鎧では防ぎきれない衝撃に内臓と骨がきしむ。治療が終わったと同時でよかった。これでわたしは守りながらではなく、攻勢に出ることが出来る。
 グミさんとシュウさんの気配が離れたことを認識すると同時に、高い位置から繰り出される斬撃をくぐりぬけて、懐に潜り込む。もう一本の首を切り落としてしまえば、体は沈黙する。
「殺っ……」
 残った首に目がけて固定した刀を突き上げる寸前に、無理やり行動を中断して転がる。チリチリと髪の焦げる臭い。大型のモンスターの唯一の弱点とも言える懐に飛び込んだというのに、そこに待ち構えていたのは大きく広げた口からほとばしる熱源だった。圧縮され、錬度の増したそれは弓使いの速射のそれと同等のスピードで地面に突き刺さり、激しく地面を爆砕した。転がる直前までいたそこは滅茶苦茶に破壊され尽くされていた。
 反応速度がさっきよりも数段上がっている。潜り込んだと同時にあんな爆弾を用意しているだなんて、かわせたのが奇跡だと思った。先読み、もしくは懐に潜りこませるために罠を張ったのだろう。あんな至近距離では自らもダメージを受けるから炎は出せないと思っていたが、全くの読み違いだった。
 爆炎によって飛び散った粉塵を切り裂くかのように、正確な爪がわたしの影を刺していく。見えているはずはなく、野生の勘というか本能で行っているのだろう。転がった反動でないとか態勢を立て直せたが、次の一撃をかわせる保証はない。
 こんなとき、わたしにもシュウさんのような遠距離攻撃があればいいのに。無い物ねだりをしたって無駄だとわかっていてもそう思ってしまう。弾幕やけん制があるだけでも相手の行動範囲や選択肢を狭めることが出来る。さっき使えるようになったクリスタルで刃を作って飛ばすことくらいは出来るけど、そんなんじゃダメージを与えるどころかこちらの居場所を教えることにしかならない。
 おおかみに変化する余裕はない。変化さえ出来れば、氷の弾丸で反撃できるかもしれないけど、第一きっかけとなるものがないし、その隙を刺されたら終わりだ。
 大まかな位置を予想して打ち出される炎弾を爆風に巻き込まれないように大きめの動きで回避する。いくら攻撃しても傷つけられず、隙をさらすだけ不利になる。いっそこれなら時間内逃げ切ったほうがいくらか無事かもしれないが、それではグミさんの復讐は果たせない。そもそもわたしが止めを刺してしまったとしたら、そのことをグミさんはどう思うんだろうか。
 考えれば考えるほど泥沼にはまっていく気がする。きっと、それはわたし一人で戦っているからだと想像はついていたが、傷ついたシュウさんやそれを介抱しているグミさんに助けを求めることは出来ない。わたしが二人のために活路を開かなきゃ。
「あ……」
 決意した瞬間、目の前が赤く染まった。先読み気味にばら撒かれた炎弾がわたしの着地点を正確に捉えていた。とっさに両腕で身体をかばうが、さっきより小さいが速い弾はわたしの機動力を奪うため、足へと向けられていた。土が焦土と化す音。爆炎によって目が焼けないようにまぶたを閉じるが、火傷や四肢が吹き飛ばされるような痛みはなかった。
「大丈夫か」
 聞こえたのはレフェルさんの声。守ってくれたのはグミさんの盾だった。立て続けにばら撒かれる小さな炎弾をグミさんのマジックシールドが最小限の力で軌道をそらしてくれていた。
「遅くなってごめん。私、少しだけ強くなったから、ユアさんの役に立てると思う」
 グミさんの表情は疲労と魔力の浪費からかとても険しいものだったけど、弱音を吐かない強さが目に宿っていた。シュウさんは安全なところまで運んでくれたのだろう。わたしだけだった戦いにグミさんとレフェルさんが加われば、何か活路が開けるかもしれない。
「グミさん、わたしに肉体強化の魔法をお願いします。近距離戦も敵に劣ってる今のままでは勝てないです」
「ユアさんが、そういうなら……でもシールドを一度解かないと、出来ないと思う」
 わたしからの願いにグミさんは反対はしなかったけど、龍の攻撃が障害になる。当たればひとたまりもない攻撃の雨の中、一度シールドを解くということはわたし一人ならまだしも、グミさんと一緒ではほぼ不可能だった。ただし、それはわたしが代わりに盾になることで不可能じゃなくなる。グミさんがいればわたしの傷は癒せる。
「せーのでシールドを解きましょう。わたしが代わりの盾になります。大丈夫、死ぬ気じゃありませんから」
 刀を構えてグミさんの前に盾として立ちはだかる。あんな弾丸を受ければ指先や肘の関節あたりなんかはかすっただけで持っていかれてしまう可能性がある。すべて刀の腹で受け流す。これがもっとも安全なやり方だった。
「シールドを解いてからブースト、そこからもう一度シールドを展開するとなると十秒はかかるよ。ユアさん、約束」
「はい。それではグミさんのタイミングで合図してください」
 わたしはグミさんの目を見て、心の中で指切りをする。この約束を守ることは出来ないかもしれない。両手から滴る汗を結晶化して、しっかりと固定した。
「今だ。せーの!」
 グミさんはレフェルさんと一緒に弾幕が若干薄まった瞬間にタイミングを合わせてシールドを解く。今まではシールドに受け流されていた炎とその熱が神経を焦がすようにして、現れる。
 初弾、胸元へとほぼ直線の奇跡で飛来するそれを最小限の動きで斬るようにして捌く。
 次弾、顔面に向けて飛んできたそれを頭を振ることで避ける。長髪が一部焦げ、そのスピードで幾分か持ってかれる。
「ブースト!」
 三、四弾。右肩付近と左脇腹付近を掠めるように飛んでくるものが同時に二つ。肩付近は状態を横にずらして避け、脇腹付近はグミさんに当たることを危惧して刀の腹で受け流す。
 五、六、七、詠唱が終わりブーストによる肉体強化が全身を伝う。切っ先を撫でるように使い、一番近い順に炎弾の軌道を上手くそらす。刀の鋼が蒸発する音がした。
 八、九……弾丸が遅く見える。多分、これもブーストが動体視力に作用したおかげだろう。グミさんのシールドが整えばすぐにでも炎の隙間を縫って、敵の前まで行けるだろう。そういえば、煙も薄まってきた。今なら懐に潜ったとしても、龍が火を吐き出す前に喉を抉ることができる。
 でも、それにしても炎弾が遅すぎる気がする。それに五感も鋭くなっているはずなのに熱さをあまり感じなくなってきた。髪の焦げる臭いも薄まり、グミさんの声も聞こえなくなって、目に映るものは……。
「はや……龍が、そんな」
 炎をはじいた瞬間だった。煙に紛れ移動していた龍に気づかなかったのが致命的だった。ここまで考えて行動していたのだとしたら、わたしたちには初めから勝ち目なんてなかったことになる。炎弾に続くようにして飛んできていた龍の爪が、厚い鎧の胸部を貫いて……。
「ごぼっ……」
 ひざが勝手に折れ、龍の爪に支えられてなんとか上半身を立たせられている状態。胸が以上に熱くて、身体の先端が以上に冷たかった。寒い、寒い、こんなのはあのとき以来だ。
「あ、ああ、ユアさん。胸に穴が開いて………私のせいで?」
 そんなことないと言いたかったけど、代わりにあふれ出たのは大量の血だった。龍の爪が抜かれ、わたしは前のめりに倒れる。耳に届いたのはグミさんの絶叫。
「わたしは……約束……守れなかった……みたい」
 血に横たわりながら、ぽっかりと穴の開いた胸の中で言う。よかった、心は胸にあるんじゃないんだ。
(姉さん、姉さん! 嫌だ、死なないで! あたいも死んでしまうのか!? 死ぬとどうなるんだ? あああああ、ああああああああ、いやあああああああ)
 おおかみがなにか言っている。多分、わたしの意志を代弁してくれてるのかもしれない。終わった。終わりなんだ、これは。目を閉じなきゃ。きっと、天国でみんなに会える。いじわるだった仲間たちもきっと仲間に迎えてくれる。死んだお母さんにも……。どくんと何かが心臓で跳ねた。
[ちがたりない。ちがたりない。なんだ、これは]
 血が足りない? ああ、そういえば、こんなに出血してるのに血溜まりが出来ない。どうしてだろう。
[のろわれたよろいふぜいが。なまいきだ。おまえのちをすべてよこせ]
 誰の声なの? おおかみみたいで、おおかみじゃない声。ねえ、あなたはだあれ。
[おれはおまえだよ。ゆあがおれのなまえ] 
 わたしはわたし、おおかみはおおかみなのに、この人は初めて会う。いや、初めてじゃない。
[あのときもあのときもおまえはしにそうだったな。ちがなくなるとゆあはしぬ。だから、あのときは]
 わたしはあのとき、わたしをころそうとした仲間を根絶やしにした。
 わたしはあのとき、見ず知らずのわたしに優しくしてくれた仲間を、一人残らず……喰った。
[あいつらはおまえをばけものとよんだじゃないか。ばけものからまもってやったのはおれとゆあなのに]
「あああああっ、うえええええええ。おおおぐええああ」
 身体が言うことを聞かなくなった。失われたはずの血を、鎧から奪い返す。無意識に封印していたすべてが、開放される。死んでいくだけだった身体に、血が戻ってくる。熱くて、汚らわしい何かがわたしの中で脈動している。
[こんどのてきはきちがいのりゅうか。おもしろくもなんともないが、なのるぐらいはしてやろう]
 血で満たされたわたしの口から、血と一緒にしわがれた声が勝手に吐き出される。
「ぐぼっ、あがなはライカン……スロープ。獣を統べる王だ」
続く
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