絶望の淵に落ちる最中、どこか懐かしい声を聞いた気がした。時間や期間でいえば懐かし いという表現は少しおかしいかもしれない。最後にそいつの声を聞いたのはせいぜい二、三日前のことだからだ。
 昇天、というよりも蒸発といった形で一瞬に焼失してしまった案内役のことを見て彼女はどう思ったのだろうか。時間を稼ぐという名目のもと逃げ続けた俺を 無様だと思うだろうか。
 天井という空虚だけが広がる世界の中、俺は翅を傷つけられた虫のように落下していく。羽ばたこうにも腕一本、指先一関節動かす気力もなかった。ただ、重 力に引かれながら落ちる。
 逃げきれていれば、守りきれてさえいればまだ立つ瀬があった。だが、それを守るために犠牲になった仲間も、動き続けの全身からあがる悲鳴すらも全て無駄 ではないか。まさにピエロだ。喜劇小屋で踊り狂い、何一つ評されぬことなく死ぬだけの芸のない道化。いっそ、俺自身があの妖精のように灰と化していればよ かった思い、すぐさま自分も同じ道を辿ることに気付く。
 自分はこんなにも情けなく、無力なのだ。それでも精一杯努力した。でもダメだった。だったら、みんな認めてくれるだろう。生まれて初めてお前はよくやっ たとほめてくれるかもしれない。それなら……もう、目を閉じてしまおう。まぶたの裏に現実はない。血のつながらない肉親や親友、短い間だったけど共に過ご した仲間の姿が映し出される。
 もしかしたら泣いていたかもしれない。それすらもわからなかった。いつまで経っても地面に叩きつけられることがないのは何かの皮肉なんだろうか。それと も、これがいわゆる走馬灯というものなんだろうか。わからないことばかりが疑問となって浮かび上がり、答えという形をなす前に消えていく。
 でも、それでいいとも思った。きっと答えなんて初めからないのだ。答えなんてないのなら何も考えない方がいい。
 何もかも諦めた時にその声が聞こえた。彼女は俺の鼓膜を破らんばかりに怒鳴った。言ってることや口調はそれはもう支離滅裂なものだったが、その酷な口振 りとは裏腹に彼女なりに慰めてくれようとしていることがよく伝わってきた。なんて不器用で素直じゃないんだろう。散々罵倒し、けなし尽くした後に死ぬな。 諦めるなっていうんだから。
 出来ることならその願いを聞いてやりたいが、魂が抜け落ちたみたいに動けない。いまさら足掻こうにも遅すぎた。かなりの高さから無防備な姿勢で落ちる。 蹴れるようなまともな障害物もなければ、いくら飛び跳ねても平気なソファーがある訳でもない。飛べるような羽は多分産まれた頃から持ってない。
「ああ、まだ死にたくない」
 必死で守ろうとしてた存在を失って、あんなに死んでもいいと思ってたのに、足掻きたくなってしまった。全身は軋んで痛いのに、動き出そうとしている。情 けなくてしかたないのに、生にしがみつこうとしている。
 まだ目の前に化け物はいるのだろうか。その捕捉スピードと攻撃までに俺の回避が間に合うのかどうか。ユアやコウはどの程度戦力になるかどうか。それ以外 にも同時にいくつかの計算を行う。別に理論だってなくていい、推測でもある程度の目安にはなる。ああ、忘れてた。しっかり受け身も取らなきゃな。にして も、ほんの数秒間にこれだけ浮き沈みできる俺の気分ってやつは世界のどんなものよりも早いんじゃないだろうか。いや、そうに違いない。頭が悪いどころかこ れはもう天才級だ。
 勝手に自分の頭脳を天才級に昇格し、落下の衝撃に備える。さすがに某グラップラー並の五接地転回法は使えないだろうが、大体そこまでの高さじゃない。自 分で飛んで棒高跳びみたいに反ったんだ、せいぜい打ち所が悪ければ死ぬくらいだろ。そして、俺のせいで失われてしまったフェアリーには悪いが、一緒に逝く ことはできない。身代わりになったフェアリーの分もしっかり生き延びてみせる。
 最初に触れたのは肩だ。ピリッとした感触が伝わるが、瞬時に腹筋を使い後頭部への衝撃を出来るだけ軽減する。打ちつけた瞬間飛びかけた意識を無理やりつ なぎ留め、前方の龍の行動を仰ぎ見る。まだ攻撃段階には移っていないが、それはもう俺が諦めたと思っての余裕だろうか。どちらにせよ俺には好都合だった。 既に炎弾が打ち出されていたのであれば、人間の反応速度じゃまず避けられないだろう。
 俺はそのまま転がるようにして全身を捻り、その回転のスピードを殺さぬまま地面を転がる。目まぐるしく天地が入れ替わって目が回りそうになったが、なん とか持ちこたえる。土まみれになったが気に留めることはない。このぐらいの土くらい平気で被る。生きて、あいつに会って怒鳴り返してやる。それで舌が回ら なくなって、卑怯にも泣きだしたらあわてて慰めてやる。
 回転しながら肘を入れて手を伸ばし、その勢いで起き上がる。不格好ではあるが、ヘアースタイルは乱れていないし体勢も持ち直した。体中の痛みもまだ無視 できる。弱音もまだ少ししか吐いてない。
 意外にも龍はまだ動き出していない。これだけ転がったにも関わらず、二つの顔どちらとも俺の方は向いておらず三つの爬虫類の細い瞳だけが俺のことを見据 えていた。さっきまではあんなにも執拗に攻撃したというのに、俺は眼中にないということなのだろうか。それはそれで頭に来るが、龍の関心は俺を通り過ぎた 後ろの方に向けられている気がした。しかし、振り返ることはできない。その隙に俺は間違いなく瞬殺されるからだ。
 目以外の感覚だけでことの状況を察知しなければならないというのがじれったい。せめてユアさえ無事なら二人で撹乱し、どちらかが多少なりとも状況を把握 出来たかも知れないというのに。とりあえず唯一頼りになった感覚は聴覚だった。じりじりと燃えるように何かを削っている音がする。何度か肌で感じた炎弾の それであることは確かだが、目の前の龍は押しつぶしそうな威圧感を放ってるだけだ。俺の目がおかしくなっていないのであれば火は吐いてない。
 ではいったい何をやっているんだ? それとも俺には分からない何かを待っているのだろうか。龍の思考なんて考えたこともなかったが、あれだけ強靭な存在であるのだから知能や感覚に優れた存在 なのかもしれない。だったら、俺の後ろのほうで何かが起こってると考えるのが妥当だろう。与えられた情報から考えるに……えーと……俺の背中が燃えてい る、のか? いや、熱くないしな。かちかち山じゃあるまいし、多分違う。となると……あー、だめだわからない。目の前の龍に神経使ってて集中できない。机 の前だともっと無理だが。
 龍と俺との睨みあい。龍は今の状況を膠着状態だなんて思ってはいないだろう。考えているとすれば休憩かもしくは観察か。何にしても俺に動かせない状況を 敵はいとも簡単に動かすことができる。不利有利の話ではなく狩る側と狩られる側が圧倒的な差で分たれている。
 人間側で今動けるのは俺だけだ。ユアも一応辛うじて意識を保ってはいるが、とても動けるような状態ではない。他はもう完全に意識を失っているか、人間と しての原形すらとどめていない。死臭に満ちたとまではいかないが、血と炎の匂いが濃い他はもう何もなく、聞こえてくる音も荒々しい龍の息吹と背後の焙るよ うな抉るような音だけだ。
 正直な話、現実離れした環境に神経がすり減ってきたような感覚がある。額やこめかみからは脂汗が浮き、胃を外から掴まれてるような感覚。考えたくもない ようなビジョンが浮かんでは消え、その度に背筋が冷えた。この状況が崩れる瞬間、それが俺の死ぬ瞬間でないことを祈ることしかできない。
 だが、それは大砲でも打ち出したような轟音と、スクール中のガラスを全校生徒がバットで叩き割ったとしか思えない音によってもたらされる。何かが粉々に なっていく音を聞いて満足したのか、俺が背を振り向く暇もなく龍が咆哮する。音の洪水が俺の耳朶を破壊しないように咄嗟に耳をふさぐが、それでも龍の咆哮 は俺の脳を震わせるのに十分だった。脳の奥が揺れ、鼻の中から粘っこい赤が出てきていたのに気づいたのは自分の手にそれが触れてからだった。
 実際、鼻血どころではなかった。激しくシェイクされた脳と耳鳴りのせいで視界が崩壊しつつあった。平衡感覚が失われた今、自分でも立っていられるのが不 思議なくらいだ。炎弾ばかりを警戒していたのがよくなかった。まさか、こんな回避不可能な攻撃を放ってくるとは完全に予想外……揺らぐ世界の中、視界が 真っ赤に染まった。毛細血管が破裂したのかと思った。しかし、その赤はどちらかというと大罪人を裁く地獄の業火の赤だった。
 滅茶苦茶な力任せの連携ではあるが人間など双頭の龍にとっては虫けら同然ということがよくわかる。文字通り俺はここで燃え尽きて、フェアリーの後ろを追 うことになる。これだけの火力なら一瞬で焼き尽くしてくれるだろうか。中途半端に生き残ってしまうと、大火傷で大変だ。でも、もしかするとバズーカを盾に すれば吹き飛ばされることはあっても、コウのように気絶くらいで済むかも知れない。
 だが、頭ではわかってる。バズーカを取り出している時間などないということを。せいぜい出来るのは両袖に仕込んだ二丁拳銃くらいだ。まだ少しフェアリー の燐分によってしびれが残っていたが、動かせないほどではない。両手を素早く振り拳銃を握る。格好をつけてクロスさせてみたが、剣は辛うじて受け止められ たとしても目の前の煉獄は到底止められそうもない。むしろ銃弾が熱で暴発する危険性の方が高かった。しかし、気休めにはなる。ついでにダメだったとして も、なかなかカッコいいポージングだとも思った。
 いよいよ間近に炎弾が迫る。時間の感覚がギュッと圧縮されて、猛火が産毛を焼く音まで聞こえるようだった。一ミリ近づくごとにそれがどれだけ絶望的な暴 力を秘めているかがわかる。これは死ななかったとしても両手は確実に失うだろう、上半身全部やばいかな、いやぶっちゃけもうこれはどう考えても死ぬだろう と評価が変わっていく。しかし、焚き火に手を突っ込んでいたような熱が俺を拒絶したかのように唐突に消える。まるで自分の手が自分のものではなくなったよ うな感触だった。
「なにカッコつけて死のうとしてんのよ」
 目の前の誰かが言った。俺よりずっと背が低いくせに上から目線。まだ原型を捉えることが難しい視界の中でもひときわ黒く、背中からは悪魔のような羽が生 えていた。そうか、俺は天使じゃなく悪魔に愛されてるのかと勝手に納得する。
「ああ、神様、仏様、悪魔様……」
 ガスっといい音がして顔面にパンチが入る。俺よりもふた回りは小さい手でも握った拳は強力だ。しかし、それでなぜか咆哮による揺れが若干収まった。目の 前の悪魔が左手をかざし、小さくしかし力のこもった声で一言「ヒール」と唱える。長らく味わっていなかったような感覚が全身を駆け巡り、細胞を活性化、い たるところについた傷はくすぐったいような感覚と共に取り去られ、足にたまった乳酸を他の何かに変わり、疲れが消えていった。
「誰が悪魔よ。女神の間違いでしょ。せっかく助けに来たのに」
「お前、あの結界を……壊したのか」
 膝をついた頃、視界がようやく元に戻る。鼻血を拭いてから、目の前に現れた少女、グミに問いかける。俺を殺そうとしていた炎弾の消失よりもそっちの方が 気になった。しかし、答えたのはグミではなく、その背中に生えた不気味な翼だった。
「お前とフェアリーの活躍で双頭の龍の攻撃が一発グミの真ん前に飛んできた。計画通りというやつだ」
「お前、レフェルか。フェアリーが死ぬことは計画に入って無かったよ」
 俺が翼の正体を言い当てた途端、ぐにゃぐにゃと片翼が球体に戻りもう片方の翼も鎖に戻りレフェルの柄の中に吸い込まれていく。すっかり元通りの姿になっ た瞬間、黒い鉄が俺の頭上から振り落とされた。一瞬視界がブラックアウトして、またヒールで治される。痛みは完全になくなっていたが、その代わりに怒りだ けが痛みの分だけ増幅して残った。
「何でいきなり殴るんだよ!」
 しかし、グミは怒鳴った俺を見て一瞬泣きそうな顔になり、すぐさま顔を真っ赤にして反論してきた。
「あんたが私のことほっといてレフェルなんかとお喋りしてるからよ。心配したんだから! あっ……」
 グミはそこまで一息に言い終えてから、本音が出たことに気付いて口元に手をやる。なるほど、よくわかった。俺はオホンと小さく咳払いをして、改まってグ ミのことを見る。俺の視線に気づいたグミはさっと目をそらそうとしたが、それを俺が両手で制して無理やりこちらを見させる。俺が立ち膝でちょうど同じくら いの位置で目が合い、グミはさっき激怒したとき以上に顔を赤くする。
「心配してくれてありがとな。このお礼は……」
「え、えっ? しゅ、シュウ!?」
 狼狽するグミを間近に見ながら、気障に笑ってみる。そしてそっと顔と顔を近づけていく。グミもすぐにその意味を理解したらしく、戸惑いながらも抵抗する ことはなかった。伏し目がちな視線の落ち着きのない動きが愛らしく、上気した肌は濡れたように色っぽかった。唇までほんの数センチ、その絶好のタイミング でレフェルが水を差す。
「お取り込み中のところ申し訳ないが、敵さんは待ってくれないようだ」
「レフェル、あとで殺す。でも、あの龍は今殺すわ」
 凄絶な殺人予告を続けて二回もしたグミから、一時離れて両手の銃を構える。最後まで出来なかったことが相当に不満なようだったが、こうやって焦らすのも 子供っぽいグミには効果的だということがわかっただけでも儲けものだ。ここで他の女の名前を出すのもどうかと思ったが、今にも双頭の龍に襲いかかりそうな グミを見てるとそれどころではなくなった。
「おい、グミ。怒りはごもっともだが、ユアとコウ、それから新しく仲間になったキールとサベージってやつがヤバイ。そっちの治療を優先してくれ」
 グミは自分の復讐相手を前にして相当葛藤があるのか顔をしかめたけど、すぐに事の優先順位を変える。
「まずはみんなの治療。その次に仇打ち、最後にレフェル殺す」
 確認するように読み上げるグミに対して、最後のは頼むから勘弁してくれというレフェルの声が聞こえてきた。
続く
第19章最終話 ぐみ10に戻る