あまりの怒りに視界が真っ赤に染まったように感じた。
 仲間達の死闘を壁一枚隔てただけの場所から見守っている間はずっとハラハラドキドキしているだけだったのに。仲間や人たちが傷つくのを見て、すぐにでも 治してあげたいけど近寄ることすらできない。目の前にいるのに何一つ出来ないという無力さにいっそ泣き出してしまいたかったのに。
 そんな気持ちが一瞬で吹き飛んでしまった。じわりと濡れた紙が火にあぶられて乾くというよりは、水そのものが発火したような熱で感情があふれてきた。 真っ黒でおどろおどろしい死にも似た憎悪。
「あああああああ!!!」
 言葉にならない叫び声を上げながら、手にしたレフェルを力任せにたたきつける。その衝撃で一見何も見えない空間が震えた。つい数時間前に試したのと同 じ、全く歯が立たないといった感触。弾かれたレフェルを放してしまわないように全力で支え、次の一発までの力をためることに集中する。
 二撃目。レフェルが何か言いだそうとしていたが、聞くよりも先に両腕の筋肉をしならせるようにして打撃を放つ。さっきよりも強く、私から何もかもを奪っ た、あの燃えるような鱗を瞳に宿しながら撃つ。
「おおおおぉおおおお!!」
 一度目よりもずっと力を込めた一撃も難なく弾かれる。だが、さっきは見えなかったレフェルの鉄球が触れた面から伝わった振動が波のように結界の上を走っ ているように見えた。
 まだだ。まだ、力を込められる。今までの力に憎しみと怒りを付加し、汗で滑る手も改めて握りなおした。
三撃目、さっきと手ごたえは前と変らずだが、ほんの少しは結界を削っているような感覚がある。四撃目、五撃目と繰り返すもののやはり壁はびくともしない。 けれど、途中で止めようとは微塵も思わなかった。無駄だと頭の片隅で理解しながらも、怒りをぶつける先を探して殴打し続ける。
 次の一撃でダメならその次の一撃にさらに力を込めればいい。それでもだめならレフェルの力を借りよう。それでも無理なら自分に強化呪文をかける。それで もまだ足りないのならば……。
「グミ、やめろ! まだ、そのときじゃない!!」
 もう、何度殴ったか忘れたけど次の一撃を放つ寸前に手にしたレフェルが大声で叫ぶ。憤怒と共に送り出そうとした手をどうにか引き止め、収まりのきかな かった力は結界の代わりに観客席の座席を砕いた。その音と私のあまりの変貌振りに驚いた観客が小さく悲鳴を上げるが、そんな細かいことはもはやどうでもよ かった。
 急に全力で暴れるという無茶な行動をした私は肩で息を切りながらも、空いた左手を透明な結界に押し当て、目の前の薄皮一枚先にいる龍を睨む。完全に取り 乱していた私がなんとか平静を取り戻せたのは、私の理性どうこうというものより、酷使した手からの鋭い痛みのおかげだった。掌が切れていくらか血も流れた みたいなので、幾分頭から血も抜けたのかもしれない。
 私は右手の傷を左手のヒールで塞ぎながら、何も言わずにレフェルの言葉に耳を傾ける。レフェルが言いだしたことがどうでもいいことや気に食わない提案で あれば、すぐにでも壁を砕くことに専念しよう。
「結論から言おう。グミの力だけではこの結界を壊すことなど到底不可能だ。ブーストを使い、スマッシュで殴ったとしても結果は変わらない。この結界はそう いうものだからだ」
「だから……なんだっていうのよ」
 自分でも思ってもいないような声が出る。怒りは人の内側だけでなく、声や人相すらも変えてしまう。しかしレフェルはそんな私のことを理解した上で、次の 言葉へと移った。
「今まで黙ってた作戦を明らかにしよう。この勝負で勝つための絶対条件は、グミが結界の向こう側に行き、力技で望むような結果にするというシンプルな作戦 だ。グミと我の力だけでは足りないというのならば、コロシアムの中のやつを利用すればいい」
 なんだ、と言いかけてやめる。時間になれば勝手に私が動くと言っていたのはそういうことだったんだ。もしかしたらレフェルだけはアンノーンの正体を事前 に知っていたのかもしれない。もしくはそれに近い予知のようなものだ。まぁ、どちらでも構わない。私が聞きたいのはそれをするために何をすればいいかとい うことだけだ。
 手の中のメイスは言った。
「グミ、今のお前に出来ることは力任せに殴ることじゃない。落ち着いて、冷静に戦況を見守ることだ。中で戦ってるシュウとユア、その仲間を信じろ。誰一人 あきらめちゃいない。お前がやるべきことは、タイミングを図り、信頼できる仲間が作り出したただ一度のチャンスを無駄にしないことだ」
「ユアさん、コウくん、……シュウ」
 レフェルの言ってることは理屈ではよくわかった。でも、つまり私たちの側から出来ることはほとんどないということを意味していた。試合開始からの五分が 異常に長く感じたのを覚えている。けれど、あいつが……憎き復讐の相手が向こうに現れてからの一分はそれこそ一時間、一日にも感じるほどだった。まして や、冷静さを失っていた私は仲間達を信じることも忘れ、怒りに狂っていた。しかも私の愚かさへの罰なのか、いつの間にかコウ君とユアさんは既に重傷を負わ されていた。人間側でまともに戦えるのはもうシュウと弓使いの少年しか残っていない。
 思わず目をそらしたくなった。怒りでなんとか思い出さずに済んでいた嫌な記憶が全部まとめて蘇ってきていた。吐き気を催すほどの恐怖と悲しみに、膝を 折って口元を押さえる。すべてがあの時と同じだった。
 村の英雄だったお父さんは龍に立ち向かい、殺された。そして、今は……シュウがその龍と向き合っている。まるでデジャブだ……シュウは鱗に銃弾が弾かれ ると知れば、きっと鱗で覆いようのない目や口内を狙うだろう。しかし、その龍は剣で目玉ごと脳を抉られても死ななかった。きっと銃弾なんかじゃ敵わない。
 爪で貫かれ、燃やされる様子が目に浮かぶようだった。私は息苦しさからゲホゲホと大きく咳き込み、その拍子に出た涙をレフェルを持った方の袖で拭いた。
 どんなにひどい有様でも目を見開いて、見届けなければならなかった。絶対にシュウはチャンスを作ってくれる。その数少ないチャンスを生かせないでどうす る。それこそ信頼も何もない、シュウの精一杯を無駄なことにしてしまうことになる。
「シュウ、死なないで……!」
 願望とも祈りともとれる言葉を紡ぐ。固く握った手はひと時も離すことはない。その手を少しでも緩めたらシュウとの繋がりもすべて絶えてしまう気がしたか らだ。
 それは何よりも耐えがたい苦痛だった。自分の気持ちにはとっくに気づいていた。認めたくなくても、口に出さなくても真実だった。
 私は……シュウのことが好きだ。今までの冒険で何度も助けられた恩とかじゃなく、嘘偽りのない本心だと心から言える。バカなことばっかりするシュウも、 少し情けないシュウも、時々かっこよく見えるシュウも全部ひっくるめて好きになっていた。
 だから、そんな彼を失いたくない。絶対、この壁を壊して助けに行く。まだ、この気持ちを伝えてないのに勝手に死ぬなんて許さないんだから。
*
 実際にこうやって対峙してみると遠目からは推し量ることのできない強大さがわかる。勝ち目などはなから無い。ネズミと恐竜で殺しあえと言っているような もんだ。実際目の前の龍は伝説の生き物と称されるにふさわしいだけの化け物っぷりを見せつけながら、じわじわと俺を追い詰めてきている。こりゃ、ネズミ VS恐竜なんてレベルじゃないな。言い替えてミジンコVS恐竜。初回上映の入場者数はダントツの最下位を記録するだろう。そんなもの見るまでもなく、結果 がわかり切っているからだ。
 高速で飛来する炎弾を紙一重でかわしながら、右手の拳銃で射撃する。射撃からわずかに遅れて聞こえてくる鋼を削る音は、俺の攻撃が全く無効だということ をいやがおうにも理解させる。ミジンコの牙は恐竜の皮膚を突き破ることなどあるはずがない。
 連続で撃ちだされた炎弾の隙間をくぐるようにして避ける。逃げ続けでそろそろ足も重くなってきた。実際の時間としてはそんなに経っていないのだろうが、 片手で抱えたふぇありーが重い足かせになっていた。いっそキールに預けて囮に徹しようとも思ったが、キールから今以上機動力を奪うことになれば、即炎弾の 餌食になるだろう。かといってあまり目立つ攻撃をされれば、それが双頭の龍の逆鱗に触れ俺以外に攻撃の対象が移るかもしれない。すでに気絶してるコウや意 識はあるが、自力では立つこともできなそうなユアが狙われたとなれば終わりだった。
 くそっ、キールも弓矢で援護してくれてるが蜂の一刺しどころかハリセン一発の威力もない。俺の銃弾と同じく弾かれてそれで終わりだ。あまり目立たれても 困るが、これじゃ攻撃するもできずにただじわじわと消耗していくだけなのが目に見えている。
 音もなくにじり寄ってくるあきらめの感情を必死で頭の中から追い出す。考えることをやめたら、文字通り終わりだ。生き残るために最善の手を尽くさなきゃ ならない。
「ぐっ……!」
 転がって避けた炎弾がわずかに左腕を舐めた。あまりの激痛に失神しそうになるが、歯を食いしばって耐える。今気絶するわけにはいかない。そしてふぇあ りーを落っことすわけにもいかない。どうやら今の炎でふぇありーの翅が燃えたりはしなかったようだが、わずかに身をたじろがせる様子が腕に伝わってきた。
 この強力な炎弾を利用できないかと考えたが、到底無理な話だと向かい合って初めてわかった。全力でやっても避けるのが精一杯なのに、なんとか龍を誘導し てグミの場所を攻撃させるなど笑えない冗談としか言いようがない。もしやってみたところで、跳躍したところに正確無比な照準で撃ち抜かれるだけだ。
 それに龍はそんな俺の思い通りに動いてくれるほど良心的じゃない。炎弾があたらないのを見ると、その巨体には似合わないフットワークであっという間に間 合いを詰めてきた。近くならば炎弾も避けられないという魂胆なのかと思いきや、鋭い爪による引っ掻きを繰り出してくるのだった。たかが引っ掻きといえども それは猫のそれとは違い、爪は一本一本が小刀のように鋭く長い。引っ掻くというよりも切り裂く、もしくは引き裂くという方がしっくりくる。
 俺はその攻撃を重い体に鞭打ち、多めに距離を取ってかわす。左のジャブから右のストレートというように、俺の影が右腕の爪に不均等に六分割された。しか し、龍の攻撃はそれだけでは収まらず、体制の崩れた俺を狙い打つようにして炎弾を吐き出してきた。今度はバックステップしても当たるように丁寧に二発だ。
 鼻先を焦がすような痛みを覚えながらも、頭で考えるより先に高く跳躍して二段構えの攻撃を避けた。だが、その瞬間にしまったと叫ぶことも忘れ、ただただ 目を見開いた。
 俺は攻撃を避けたのではなく、避けさせられたのだった。そう、それは逃げ場のない空中に浮いた的になるための布石。さっきの要領で多めに距離をとったの が完全に裏目に出ていた。爪での攻撃を受けた時点で、俺への王手詰みは決まっていたのだ。
 ハメられた! 胸の中で悪態をついている間にも、二つの太い首に支えられた頭が互いに協力して、小さな一つの火の玉を作り出す。生まれたばかり火の玉は見る間に成長し小 型の太陽程になる。今までの炎弾が銃弾だとすれば、その火の玉は大砲というに恥じないそれだった。
 双頭の都合四つあるはずの目玉で俺の位置を正確に把握し、上昇の最大到達点や落下速度を計算する。命中率は聞きたくもないが今までのそれとは比じゃない だろう。一縷の望みを抱いて俺は右手の拳銃に残った残弾をすべて叩き込むが二発は容易に弾かれ、一発は目に命中したがそこには古傷と何もない空洞が広がっ ているだけだった。元より失われた目を撃ち抜いたところで、照準は狂わない。
 完全に死を覚悟した、その瞬間。眠りに落ちたかのように腕の感覚がすっと失われ、その代わりに額を強く何かに蹴られた。ずっと左手に抱いていたはずの温 もりが消えていた。
 目の前にきらきらとした燐粉が舞う。ああ、そうか。俺はフェアリーの燐粉にやられて、麻痺しちまったわけか。ピリピリとした感覚が焼けた腕の痛みに上塗 りされて、痛みが消えていく。実際に火傷消えたわけじゃないが、麻酔程度にはなるはずだ。しかし、そんなことをいまさらしてもらったところで何の役にも立 ちゃしない。どうせ俺は死ぬんだから。
 麻痺したせいか体勢が崩れていた。こりゃ無様に落ちるなと思った。実際は落ちる前に消炭になるんだけど。
 しかし、死ぬっていうのに走馬灯なんてもんは一向に見えてこない。見えるのは翅を羽ばたかせるふぇありーと突然のことに照準の修正が間に合ってない双頭 の龍のバカ面だけだった。続けて俺の視線より少し先から、舌っ足らずな幼い少女のような声が聞こえてくる。
「助けてくれて、ありがとう。ふぇありーはみんなのところに行くよ」
「なにを……」
 そこまで言って、今自分の置かれている状況を悟った。落ちて行く時間が無限のように思えた。ふぇありーは俺の身代わりになろうとしている。はっと正気に 戻って腕を伸ばそうとするが痺れて動かない。ユアに頼まれたふぇありーを守るためにここまで苦労してきたのに、俺は今そのふぇありーによって命を救われよ うとしているのか。
 スローモーションの様にふぇありーの口が一字一句を紡いでいく。世界は無音だったが、何を言っているのかは手に取るようにわかった。
「みんなだいすき」
「…………!!」
 それ意味することを理解した瞬間に何か声にならないなにかを叫んでいた。名前だったのかもしれないし、言葉だったのかもしれない。熱いものが込み上げて 来ていて、なにがなんだかわからなかった。重力に引かれ、両目から涙が帯のように宙に残されていく。そして、その涙を焦がすようにしてふぇありーの体が、 翅が、最後の笑顔が……一瞬にして形を失った。
続く
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