この世界のあらゆる災害をまとめて圧縮し、それを我が身に宿した究極の不幸。
 もしもそれに出会ったとしたら、運が悪かったとて諦めるしかない。人生は最後までわからないとかなんとか言っている人間もいるが、結局のところどうしよ うもならない状況というものは存在するのだ。それに出会ってしまった時点でほぼ確実に死が決定する。100%絶対と言いきらなかったのは絶対という言葉が 嘘臭くて聞いてられない言葉だからだ。それにちゃんと例外だって存在する。
 それと出会った不運な集団の中の、偶然幸運だった一人。それでも宝くじに当たるような希少さだがそんな人間が何人かいて、自分を襲った不幸を自伝として 書き残している。
 話の細かい内容までは覚えちゃいないが、要するに怖かっただとか恐ろしかっただとかをその著者なりの言葉に言い替えて、その前後の幸せな生活や後悔など が書きつづられている。誰一人としてそれに立ち向かったという記述はなく、生き残った人間は命からがら逃げた人間か本当に幸運で生き延びただけだった。
 もっとも、その最後の一人すらも残らずに文字通り滅んでしまった集落だって少なくないだろう。やつにとっては村や町なんてものは破壊の対象でしかなく、 人間が自らの暇つぶしのために用意してくれた玩具でしかないんだから。人間なんて群がるハエぐらいにしか思ってないに違いない。
 しかし、聞けば聞くほどめちゃくちゃな生物だ。生物と区分するのが馬鹿らしくなるほど人間の力ではどうすることもできない存在なんだから。まさに物語の ラスボスとしてはふさわしい実力を秘めた化け物だろう。だが、俺が世界に選ばれた勇者だとしたらそんな化け物とはお目にかかる前にさっさととんずらする。 世界中の無責任な人間のために捨てる命なんて持ってないからだ。
 だが、今この状況で逃げ出すかどうかと質問されれば答えは一つしかない。というよりもこの洒落た舞台に逃げるという選択など始めからないのだから、質問 に意味などないのだ。もし、誰かがこんな質問をするとしたら、それに答えて欲しいのではないのだろう。欲しいのは明確な意思、決死の覚悟だ。
 だったら、俺はその質問にこう答えてやろう。
「逃げたって逃げられないってんなら、ぶっ殺してでも逃げきってやるよ」
 かくして俺の視界は一瞬で赤く染まる。やれるものならやってみろとばかりに、双頭の龍は大きく口を広げ火炎を吐き出してきた。俺は頭で考えるよりも先 に、フェアリーを抱えたまま右後方に跳躍する。炎弾は完全に避けきったつもりだったが、並の炎とは比べ物にならない熱が周囲の空気ごと俺のコートを焦がし ていた。
 龍は俺が攻撃を避けたのを知ってか知らずか、連続して他の仲間達にも火炎を吐きかける。その無差別攻撃は前衛にいた俺達を焼くことはなかったが、非戦闘 員の誰かが断末魔の叫びを上げる間もなく真っ黒な黒炭にされてしまったようだった。
  敵が現れてすぐに訪れた必死の攻防戦。龍が攻撃する順番には何ら意志を感じない。生理現象のくしゃみやしゃっくりのようにただ出るから出してるという ような 感じだ。大体初めに味方である魔物たちから抹殺したのだから、差別などするはずがなかった。そう、死を易々とばら撒くあいつは誰にだって平等なのだ。
「くっ……」
 思わず苦鳴を漏らし、大粒の汗を落とす。ついさっきまでは何とも感じなかったコロシアム全体の気温が猛烈に上がっていた。嫌でも鼻腔に入ってくる何かの 焼ける臭い。やつの攻撃によって今までの戦闘ではほとんど何ともなかったコロシアムが砂で作った城のように壊され、燃やされていく。
 手のつけようのない化け物の出現に手足の感覚は半ば奪われ、絶望の色が色濃く出ていていたが、それと同時に別の方向で希望が生まれていた。そう、さっき の自問自答でもあった逃亡の手立てだ。
 逃げるのに必死で細かく分析してる暇はないが、炎弾のコロシアムの固い地面をアイスクリームで使う特有の器具でも使ったかのように丸く抉るその威力は、 あの強力な結界にも有効なはずだ。一撃で破ることはできないとしても、無事で済むはずがない。何発か同じ場所に当てることができれば、あわよくばあの檻を 壊すことができるかもしれない。
 そう、言うならば目の前にいる凶獣は俺の右手に握られた拳銃のようなものだった。馬鹿に持たせれば危なくてしかたないこいつも、それなりの知識があるや つに使わせれば強固な錠を砕くための鍵にもなる。念のために言っとくがさっき言った馬鹿ってのは俺のことじゃない。
「シュウさん!」
 回避行動に専念してる俺の名を呼んだのはユアの声だった。お荷物もなく、元々俺よりも数倍は身体の力の優れているユアのことだから心配はしてなかった が、さっきの猛攻の中でも火傷一つ負っていないようだった。
 ユアは話している時間がもったいないとばかりに、目の前に迫った炎弾を一足飛びでかわし、着地したと同時に俺たちのちょうど真後ろ、ユア曰くグミのいる ところを指差していた。俺の視力では誰が何をしているかまではわからな……いや、待て。心なしか結界が何秒か毎に揺れているような気がする。そのユアが指 さしたところを中心に。
「グミさんが叩いてるんだ!」
 ユアのようにはいかず辛うじて炎の雨を潜っているコウが叫ぶ。
 なるほど顔までは確認できないが、硬い結界を揺るがすほどの重い一撃。グミならばあり得るのではないだろうかと思える。何しろあの二人のコンビネーショ ン攻撃には何度も昏倒させられているのだからその威力は折り紙つきだ。
 ついさっき監獄の中で話した内と外からの同時攻撃が思わぬところで実現した。グミが外からノックしてくれているというのなら、後は俺たちがあの化け物の 攻撃を固く閉ざされたドアノブにぶつけるように誘導するだけでいい。
 絶望の中で希望が連鎖していくような、奇妙な感覚が胸の中を占めたその直後のことだった。ついさっきまで兵隊の掃射のような炎弾を放ち続けていた双頭の 龍が砲撃を止め、ようやくしゃっくりが止まったとばかりに小さく顎をしゃくった。凶悪な外見に添わないユーモラスな行動に、一瞬気を取られたのが致命的な 隙となった。
「……がッ!」
 気がつくと、長剣を握ったコウが宙を舞っていた。コウは戦甲を無残に砕かれながら、嵐に吹き上げられた草葉のように重力を無視して吹き飛ばされ、鈍い音 をたてて壁に激突した。龍は魔物側の少し離れた所にいたために物理攻撃はないと思っていたのが仇となったようだ。高速で軸足を踏み込んだ龍は踏み込みの勢 いを殺すことなく、流れるようにして大木のようでありながら鞭のように鋭くしなる尾をコウへと打ち出していたのだと勝手に推測する。全く見えなかったから あくまで推測でしかないが、今の敵の体勢からしてもそれが一番的確な答えな気がした。
「…………」
 コウの安否を気遣うよりも先に、嫌な汗が流れ落ちる。暑さのせいなんかじゃない、もしあの攻撃を受けたとしたら俺はどうなってしまうのだろうかと思い、 心臓が大きく鼓動した。わかり切ったことだ。コウは曲がりなりにも防具をまとい、かつ戦士としての強固な身体もあったからこそあの程度で済んだ。俺なんか があの攻撃を受ければ、一撃で上半身が吹き飛んでもおかしくない。
 何かやってはいけないこと、触れてはいけないものに触れてしまったような戦慄が背筋を駆け抜ける。鮮明な死のイメージ。見るも無残に姿を変えた人間だっ たものの姿はボロのコートをまとったガンナーではなく、砕けた鎧をブランケットのようにまといながら浅く早い呼吸を繰り返す戦士の姿だった。
「クソッ……コウ!」
 気づくのが遅すぎる。あの龍は大した知能を持たないが、破壊にかけてはスペシャリストで完璧主義者だ。壊せるものは物だろうと生きものだろうと完膚なき までに滅する。今の攻撃はコウを完全に破壊するための布石でしかない。俺が龍ならばあの距離でも完璧に燃やしつくせる炎弾を選択するだろう。自らの爪や牙 を使うのも悪くはないが、まずは一人。ほかの人間に煩わされることなく確実な一を焼失させる。
 させるわけにはいかなかった。龍の炎弾にはドレイクのように決まったモーションのようなものはない。あるとすればほんの少し口をあける程度で、確認して からだと辛うじて避けるのが精一杯というところだ。
 俺はふぇありーを片手で抱きかかえ、普段の何倍も爆発力のあるボムを生成し、フリスビーを飛ばすように龍とコウの中間へと投げる。運よく間に合っていれ ば、爆発が多少は炎弾の攻撃力を軽減し、コウの命が助かるかもしれない。しかし、コンマ一秒でも遅れていれば爆発は龍の鱗をほんの少しだけすすで黒くする 程度に終わってしまうだろう。
 果たして上手くいくのか、神に願う間もなく無情にも相当の龍は二発の炎弾を正確にコウに向けて吐き出していた。俺と龍のスピード勝負、ほんのわずかな差 ではあるが龍の方が勝っていた。勝負に負けた俺は簡単に想像できる黒こげの焼死体から目を逸らす。
「簡単に諦めんな!!」
 一瞬の暗闇の中で聞こえてきたのはキールの声だった。その声に驚き眼を開けると、強力に精製された魔力と鋭い回転を持つ一本の矢が、二発の炎弾のちょう ど中心を貫く形で疾っていた。キールの強い意志でコーティングされた矢は一発目の業炎に焼かれるよりも先にその内を通過し、二発目の炎弾の中心で留まるよ うにして燃え尽きる。
 完全に止めることは不可能だったが、それでもわずかの時間を稼ぐことはできた。俺のボムを間に合わせるためにはほんの少し足りない。しかし、諦めていな かったのはキールだけではなかった。
「させない……ッ!!」
 襲い来る二発の炎弾の前に立ちはだかるユア。その細い肢体に飛来するそれは、キールの矢によって若干威力を削がれたとはいえ、それでも人間を消し済みに することなど造作もない。しかも、ユアがいる位置はというと俺がボムを放ったのとほぼ同じで、万が一ユアが時間を稼げたとしても俺のボムの爆発に巻き込ま れるという、二重の意味で死の領域だった。
 俺が何か叫ぼうとするのもつかの間、ユアが両手で楯のようにかざした刀に炎の拳が両手で繰り出される。鋼鉄製の刀は一瞬で真っ赤に熱され、ユアの顔が熱 さで歪む。そして、その直後俺のボムが炸裂しユアを中心にしてすさまじい熱と煙が起こった。
「ゆ……ア……?」
 何のために名前を呼んだのか、それすらもわからずに声に出していた。無事であるはずがなかった。龍の炎弾に対抗できるように作り上げた爆弾だ。あの熱、 あの爆発で皮膚はただれ、衝撃で腕や脚は間接から吹き飛ぶ。少女に飽きられ、あらぬ方向に手足を曲げられ捨てられた人形が頭に浮かんだ。
「しゅう……さん」
 薄い煙の中、ユアらしき影が浮かぶ。消え入りそうな声だったが、それは間違いなくユアのものだった。
「わたしは……大丈夫です。いきて……さえい……れば、きっとグミさんが」
 そこまで言ったユアは体の芯を失ったかのように崩れ落ちる。煙でよくは見えないが、重症ではあるがどうやら五体満足のようだった。安堵のあまり気が緩み そうになるが、実際は安心などまったくない状況であることはわかっていた。
 この短い期間に強くて頼れるユアやコウがあまりにも簡単に死の危険にさらされている。俺だって例外じゃない。おそらく俺たちにグミの情報を流してくれた やつも焼け焦げて死んでいるかもしれない。死闘を終えたサベージや他の人間たちの亡骸も頼んでもいないのに火葬にされちまったかもしれない。
 満身創痍の仲間達の中、ちゃんと動けるのは俺とキールだけだ。しかも俺はお荷物まで抱えちまってる。両手も満足に使えない。
 ……出来ることなら逃げ出してしまいたかった。仲間もふぇありーも置いて、時間切れまで逃げ回っていたかった。そうすれば試合時間が終わって一時的では あるけど安全な場所に行くことができる。実際、残り4分も逃げ続けていられるかというのは別にしてもだ。
 だが、気を失う前にユアが残した言葉が耳に残っていた。生きてさえいれば、きっとグミが……治してくれる。そして、ここから先は勝手に俺が付け加える。 そうさ、この試練さえもきっと乗り越えられる。
 さっきのボムを今度は相当の龍の方へ放る。投げたとほぼ同時に拳銃を抜き、ボムを撃つ。強力な爆発がドラゴンを焙り、続けて打ち出された二発の彗星が何 枚かの鱗を削ぎ、ほんのわずかではあるが皮膚を傷つけ、ダメージを与える。
 双頭の龍からしてみれば、大したダメージもない。蚊の抵抗みたいなもんだっただろう。だが、俺にとってはそれで充分だった。こんなほとんど意味のない攻 撃でさえも、龍にとっても十分な敵意だった。
 二度目に投げたボムのせいで視界が悪い。しかし、双頭の龍がどこにいるかというのは目をつぶってでもわかった。俺一人に向けられた、純粋な殺意。存在感 に飲み込まれ、自らのこめかみを打ち抜きたいという衝動にかられながらも、双頭の龍を睨みつづけることを止めなかった。
「来いよ。お前の敵は俺だ。サシで白黒ハッキリさせてやるよ」
 俺の啖呵を理解できたかどうかはわからない。だが、ひとつだけはっきり理解できたことがある。
 重機でも動かすような鳴き声で龍が嗤っている。お前なんかでは相手にならないと、軽んじている。
 それを感じた俺も大声で笑ってやった。そして、向かい合った両者は何の合図もなく、己の力を存分に解放した。視界の外でコロシアム全体が大きく鼓動する ような音が、小刻みに聞こえてきていた。
続く
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