もし神様に祈って願いが叶うというならば、私は何時間、いや何日でも祈り続ける。
「神様、お願いです。ふぇありーさんを助けてください」
 わたしの手を離れた刀が弧を描いて飛んでいく様を、ただ見ることしか出来ないなんて。
 白い手にかかって引きちぎられそうなか弱い存在を、自らの手で殺めることになるなんて。
 神を、世界すらも否定したくなる絶望感。鈍重な斬首刀は強大な暴力を振り撒きながら、スローモーションで飛んでいく。いくら手を伸ばしても届かない。奇 跡なんて起こらない。
 今、目前で起こりうる現象に気づいている人間はどれくらいいるのだろうか。シュウさんは? コウさんは? キールくんは? サベージさんは?
 ……きっと気づいていない。コウさんは隣でカズアイと揉み合っているし、わたし自身反射的に投げた刃だ。他の人が気づけるとすれば、ふぇありーさんが血 の池に転がってからだろう。尊厳のカケラも感じられない、無残な死体となった姿でだ。
 仲間がダメなら、敵のミスに期待するしかない。二体のレイスが同時にふぇありーさんを開放する、もしくは仕損じる確率はどのくらいだろう。計算なんてま るでわからないわたしにだって、それが天文学的な確率でしかないことはわかった。
 だったら、観客の人はどうだろうか。わたし達よりもずっと広い視野で見ているのだから、わたしの暴走にいち早く気づいているかもしれない。その中にはグ ミさんやレフェルさんもいるかもしれない。
 視界の隅、わたし達とは一線を画した世界が目に入る。熱狂的な観客達のほとんどはこちらで起こっている自体気づいておらず、気づいている数人たちはそれ を好奇の目で眺めていた。安全な世界で、暴力の様を眺める気分とはどういう感じなんだろう。
 わたしがふぇありーさんを殺してしまうことを見て、興奮したりするんだろうか。それともなんでもいいから血がみたいんだろうか。もしかしたら、そんなこ とは何も考えずに、ただの計算で十から一引くという考えの人が一番多いのかもしれない。
 彼らにとって、今戦っているわたし達は無関係。故に誰が怪我しても、死んでもかまわない。興味があるのはお金だけ。そう、あのペリオンの屋敷で見た、底 知れない人の闇だ。どんな化け物よりも恐ろしい欲望の塊。初めてその闇を見たときに、わたしは声も出せないほど怖くなった。
 それこそ、他ならぬ人間こそが魔物なのではないかと思うほどに。
 縦に回転を続ける刀はまだふぇありーさんを切り裂かない。今となっては流れが遅い時間を恨んでさえいた。狂ったように遅い時を刻み続ける時間の中、高速 で動き回れることが出来れば、止めることが出来るかもしれないのに。止められなくても、ふぇありーさんの盾になることが出来るのに。
 わたしは結局何も出来ない。襲い来る現実から目を逸らし、奇跡を信じる。何もしてないのと同じだ。何をすべきか分かっているのに、何も行動しないのは もっと性質が悪い。
 こんなとき、グミさんなら何というだろう。レフェルさんはどんな知恵を授けてくれるだろう。犯した過ちを責めるだろうか、それともわたしのことなんて嫌 いになってしまうだろうか。
 どちらにしても、わたしがこれから犯してしまう罪は、償うことが出来ないほどの重荷になるだろう。他の人から見れば、たかが魔物一匹というかもしれな い。でも、わたしにとっては心の一部を切り裂かれるような痛みを伴うことは想像に難くない。
 そんなとき、逸らした目線の向こうに見慣れた何かが目に入った。多種多様な格好をした観客の中、黒くて小さな魔女が一人。一番前の席で透明な壁を叩いて いる。泣いているのだろうか……ここからはそこまで確認することは出来ない。ただひとつわかるのは魔法もレフェルさんもあの壁を通り抜けることが出来ない から、壁を叩いているんだっていうことだけだった。
 グミさんが生きていた。この事実をどんな顔でシュウさんに伝えたらいいんだろう。同胞の血にぬれた刀を引きずって、グミさんは無事ですなんて言いようが ない。
 諦めと絶望に満ちた世界の中、もうひとつ朗報が訪れる。普段は恐ろしい印象しかない音……銃声が二発背後で鳴った。普通の銃弾が空気を灼きながら飛来す るのに比べて、今わたしの耳元をすり抜けた弾丸は風のように素早い。止まったような時間の中でさえも、さえずる青い鳥のように悠々と空を泳いでいた。
 黒くて無骨な拳銃の声は大きくて怖いはずなのに、今だけはファンファーレのように聞こえた。シュウさんが誰よりもいち早く反応して咄嗟に放った彗星は、 わたしの剣の先と柄をそれぞれポイントしていた。あの角度からして上手く命中すれば、刀は軌道を変えて右側のレイスに直撃する。そうなれば必然的に片方の 手が放されることになり、一瞬ではあるけどふぇありーさんが解放される。
 回転している刀を一瞬で正確に狙い打つなんてシュウさんにしかできない。不可能だと思って、何も行動しなかったら不可能なままだと銃弾で語っていた。神 様は何も答えてくれなかったけど、もしかしたらシュウさんがいたってことが神様だったのかもしれない。
 そう思ったのもつかの間、いよいよ銃弾が刀に迫るというところで銃弾はわずかに早過ぎ、二発ともギリギリで刀のすぐ傍を抜けていった。運命の残酷さに絶 望しそうになった。当たらなかった彗星がレイスの両腕を貫通するまでは。
 腕を銃弾が突き抜けていったことに気づいたのか、そうでないのかは分からない。でも、そのおかげで反射的にレイスたちの手がわずかにぶれていた。ゆっく りと、けれど着実に下がっていくふぇありーさんの位置。もう少し、あと少しで軌道から逸れる。
 しかし、刀も動きを止めることはない。完全に下がりきる前に、鎌首をもたげた蛇のように刀の一番鋭い部分を存分にふぇありーさんに見せ付けていた。顔を 割られるのか、無傷で済むのか……刀の切っ先はふぇありーさんの触覚の間を紙一重でくぐっていき、その小さな身体に沿うように、まるで高跳びの選手のよう に寸前で回避していった。
 ふぇありーさんは無事だ! そう確信した瞬間、目を背けていた現実が急に思い出したかのように、もとの速度まで急加速していく。実際はほんの一瞬のことだったのに、数時間が過ぎたの ように感じられた。
 ふぇありーさんを掠め、飛んでいった剣はわたし達を邪魔したストーンボールの身体を勝ち割って地面に突き刺さる。少し遅れてストーンボールの身体から火 花が散り、小さな花火のように破裂した。手を撃たれたレイスと爆発に気をとられた他のモンスターたちの中に一瞬の隙が出来る。嫌らしい動きをするカズアイ はコウさんと交戦中だ。
 今しかない、そう判断したわたしは武器も持たずに二体のレイスの間に横たわっているふぇありーさんへと滑るように跳躍する。さっきは届くわけないと思っ てたこの手が、仲間達の気持ちで延長される。
「ふぇありーさんッ!!」
 気絶していることなんて忘れて、その名を叫ぶ。わたしは転がりながらもその小さな身体を抱きしめていた。決死の救出劇に驚いたモンスターたちだったけれ ど、すぐに死地に転がり込んできたカモを八つ裂きにしようとその腕を振るう。わたしの手に刀はない。斬首刀はもう少し後ろ、一メートルほど先に石のかけら と共に転がっている。
 味方からの援護射撃もわたしやふぇありーさんの身を案じて、弾幕を張るまでには至らない。単発の攻撃は二体のレイスに見事にあしらわれ、シーツの中の闇 に消えていく。シュウさんの彗星やコウさんの斬撃はアイアンピグに捌かれた。残ったアイアンピグの猛烈な体当たりがわたしと抱えたふぇありーさんに迫って いた。
「やらせない」
 わたしはおもむろに空いた右手をアイアンピグの前に突き出す。さっきの現実に怯えるわたしとは違う。わたしが腕を突き出したところで、ふぇありーさんは 無事だ。ならば、何の問題もない。腕一本を犠牲にして、逃げ戻ればいい。ふぇありーさんを安全なところまで連れて行ったら、隙を見て刀を拾い、左手で立ち 向かえばいいんだ。
 さっきの砲弾のような体当たりに加え、錐揉み回転をあわせたアイアンピグの身体が手のひらに吸い込まれるようにして突っ込んでくる。わたしの斬撃をもろ ともしない硬い身体を直接手で受けるとなると、一撃で腕が使い物ならなくなることは目に見えていた。衝突する、そのコンマ数秒前に胸の奥から何かが囁いて きた。
(……せ)
 それは囁きというにはあまりに短い言葉で、しかもよく聞こえなかった。ただ、わかったのはそれがおおかみのものではないということ。そして、わたしの腕 に起こった現実だけだ。
 完全に折れたと思われた腕はアイアンピグをいとも簡単に受け止めていた。折れるどころかキャッチボールでもするような感覚でアイアンピグが手のひらの中 をしゅるしゅると回転していて、ついにはその回転が止まった。超近距離で鉄仮面の隙間から偶然アイアンピグと目が合う。完全な恐怖がそこにはあった。
 しかし腕はそれで収まらない。初めはただ抑えるだけで止まっていた腕が、指先が爪がアイアンピグの強靭な鎧を……あろうことか握りつぶしていた。それは 子供が飽きた粘土を握りつぶすかのように柔らかく、残酷に形を変えさせる。鎧と顔面とめちゃくちゃに変形されたアイアンピグを更には地面に叩きつけ、アル ミ缶のように蛇腹上に折りたたむ。密閉された鎧の中、行き場を失った中のものが仮面の隙間から噴出し、血なのかなんなのかわからない液体がわずかに頬へ飛 び散った。
 元の原形をまるで留めていないアイアンピグが霞に返るのを尻目に、わたしは逃げ出すようにして刀を手に取る。ふぇありーさんを抱えた左手は使えないの で、右手で。自分の腕が自分のものではないかのように動き、さっきは歯が立たなかった敵を素手で殺して見せた。鉄と肉を握りつぶす感覚がまだ手に残ってい る。
 しかし、今は自分の腕のことなど構っている暇はない。わたしは恐怖を意志でねじ伏せ、味方の元に戻る。シュウさんの大丈夫かという声が聞こえたけど、な んとか首を縦に振ることで答えた。ふぇありーさんをサベージさんの元に預け、顔についた液体をぬぐう。いや、ぬぐおうとした。
「ユア、お前……大丈夫か? レイスの影でよく見えなかったけど、なんかすごい音がさ」
 再度大丈夫かと聞かれた時、それはわたしの頭のことかと思った。ぬぐおうとした頬に物体はもうなく、それはわたしの舌に残る味として残っていた。無意識 のうちにわたしの中の何かがそれを舐めていた。誰がどう考えても異常だ。
 わたしは口の中に入ってしまったものを吐き出し、げほげほと咽返りながらも嘘と真実を並べて言葉にする。
「少し動きすぎただけです。それと、観客席にグミさんを見ました」
 シュウさんの顔がぱっと輝いたように見える。どこかおかしくなってしまったわたしの身体のことは何も言わない。恐ろしくて口にすることが出来ない。それ をした瞬間、わたしという存在そのものが別の何かになってしまうような気がして。
 だから、ふぇありーさんを救出した今、わたしは自分のことは後回しにして二人のことを優先することにした。
「きっと、わたし達をここから出す方法を考えてくれているはずです。今のうちに他の魔物を少しでも」
「ああ、生きてるか。そうか、生きてるか!」
 何度もその真実だけをかみ締めるシュウさん。わたしも同じ立場だったら、ああいう風に喜んでくれるのだろうか。少しだけ、グミさんがうらやましい。そし て、自分の思い通りに動かない身体が恐ろしかった。
 さっきは腕だけだったけど、これがもし手足だけじゃなく、身体や頭も支配するようになってしまったら、わたしはきっと化け物になってしまう。もし、そう なったら……わたしはみんなとは一緒にいられない。周りと違うから、きっとすべて壊してしまうから……今度はそうなる前に。
「シュウさん、話があります。もし、わたしがわたしで無くなってしまう様なことがあったら……わたしを」
「な、サベージ大丈夫か!?」
 最後まで言い終わる前に、サベージさんの身に異変が起きたらしい。急いで振り向いてみると、預けていたふぇありーさんを守るようにして抱えた腕に無数の 針が刺さっていた。痛々しく血が滴る腕に刺さった針はモンスターのものではなかった。
「てめえ……何のつもりだ」
 両腕から血を流しつつも、サベージさんの目は鋭く目前の敵をにらみつける。向いた先は敵の領地ではない。わたし達の真後ろ、わたし達に協力的な姿勢を示 さなかったアサシンが仁王立ちしていた。その両手には指に挟み込むようにして持たれた針が収まっている。
 アサシンは目以外のすべてを覆った顔でサベージさんを見据えながら、口を動かさずに言った。
「思いのほか、あんたらが強すぎた。計画に支障が出る前に、俺がお前らを始末する」
続く
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