「こちらがコロシアムのルールブック、こちらがミネラルウォーターになります」
 グラスに今開けたばかりのミネラルウォーターを注ぐ。透明な水がグラスの底を舐めるようにゆっくりと中を満たしていく。ペットボトルの中身半分を注いだ ところでクラウンは手を止め、グラスを私の前に差し出した。
「ありがと」
 私は一言だけ礼をいい、ほんの一瞬だけグラスの水をのぞき見る。均一にならされた水には私の顔が映り、私がグラスに触れた振動ですぐさま掻き消えた。無 意識にやったわけじゃない。自分の顔を見るのが嫌だったから、意識的にかき消したんだ。
 僅か数秒映っただけだけど、不安と緊張、疑心やその他自分でもわからないようなストレスが表情を壊していた。例えるなら瞳に何かを現しつつも何の感情も 抱かない人形の目。クラウンの隠された半分の顔もこんな目なんじゃないかと想像する。
 透明なグラスに透明な水。それぞれは疑う余地がないほど澄んでいるのに、どちらか一方に毒が入っていても私は呆気なく死んでしまうだろう。それこそ優し い言葉に込められた見えない嘘の様に。 
 私は手に取ったグラスの水を少しだけ口に含むと、舌の上で転がすようにして味わう。苦味のないまろやかな味が口内に広がり、冷たい感触が渇いた喉を潤し た。
 水にもグラスにも毒は入ってない。あらかじめレフェルが視認し、判別していたからわかっていたことだけど、飲む物ひとつに対してもこれほど過剰に対応し なければならないのは、ものすごいストレスに違いなかった。
「ワインはお気に召さないとのことなので、ミネラルウォーターを用意させていただきました。ルールブックは最新のものを。最初はそれほどでもなかったので すが、何度も改訂を経ているうちに分厚くなってしまい、コロシアムの常連からはバイブルと揶揄されるほどです」
 もうひとつの強烈なストレスの原因、クラウンが微笑む。黒くて長い髪は綺麗に整えられていて、清潔感が漂う好青年なはずなのに、なんなんだろう……思わ ず一歩後ずさりしそうになるような圧迫感は。
 顔の半分を覆っている仮面の固まった笑顔こそが本当の顔で、反対に今微笑んでいる赤目の青年こそが仮面なんじゃないだろうか。そう思ってしまうほどの不 気味さを秘めていた。
 耐え切れなくなってクラウンと目を逸らした私は、結構な重量のあるルールブックを目の前に持ってきて、レフェルにも見えるようにえんじ色の生地に金字で 厳かに飾られた表紙を開く。刷られたばかりということを示すインクの匂いと紙独特の匂いが薄っすらと広がり、コロシアムと大きく印字されたページが目に 入ってきた。更にページをめくるとコロシアムに関する歴史や、挨拶やらが何ページか載っていて、ようやく目的のページである目次が見つかった。
「それではお二人の邪魔にならないよう、別件の仕事を片付けてきます。そちらに載っていない最新の対戦者、モンスターの情報、裏ルールやジンクス、何らか の法則性などが知りたければ、直接コロシアムのカウンターまでどうぞ。それでは失礼させて頂きます」
 それだけ言い残すとクラウンは恭しく礼をし、余計な物音を立てずにすっといなくなった。私は特に何も言わず見送り、内心ほっとする。
 しかし、いなくなった直後にレフェルが口早にめくって欲しいページを指示してきた。ページをめくる手がないから仕方ないことなんだけど、それくらい早く 見たいページがあるらしい。
「7章の【観戦中における禁止事項】を開いてくれ。235ページだ」
「え、えっと……ちょっと待ってね」
 てっきり最初からじっくり読むつもりなんだとばかり思ってたから、いきなりそんな後ろのほうから読むなんて意外だった。私は慣れない手つきでページをめ くり、あと少しと思っては、肝心のページを飛ばしてめくり直すを何度か繰り返し、やっとのことで235ページへと辿りつく。
 私がもたもたしてたからレフェルも相当苛立ってるだろうなと一人でてんぱってたけど、案外レフェルはそうでもなかったらしく、ずらりと蟻の隊列のように 並んだ文字を片っ端から読み始めていた。
「次のページ」
 脅威の速読術で読み進めるレフェルに唖然としながらも、言われたとおりページをめくる。あまりにも早いレフェルのスピードの中で私が読めるのはという と、最初の数行と各項ごとのタイトルくらいだった。
 中でも目を引いたのはルールでもなんでもなく、章の始めから数ページ続くながいながーいマナーについての話だった。要約すると「ゴミはくずかごへ」なん ていうコロシアムもなにも関係ない、ごく当たり前のルールですらも難しい言い回しや聞いたこともないような難しい単語を使って、何倍にも量を膨らませて書 いてある。
 レフェルが言うまま規則的にページをめくる私が他になんとか理解できたルールらしいルールはというと、観戦席でのお客に対する暴行禁止とカジノ局員との あらゆるものの受け渡し禁止くらいだった。後のはほとんどマナーとかモラルとかについての話がほとんどで、レフェルが確認したいと思ってたルールの穴なん てものはまるでわからずじまいだった。
 レフェルの無言と共に、ページをめくる手が止まる。いつの間にか開いたページは30ページを僅かに上回り、267ページで止まっていた。章完とその締め くくりについて書かれているページだった。
「ご苦労だった。我が見逃していなかったのでなければ、現時点で勝率は50%を超えただろう」
 レフェルはため息交じりにそういうと、表情なんて出せるはずもないメイスの体で絶対の自信を表情豊かに体現する。クラウンなんかよりずっと感情が伝わっ てくるのが不思議だけど、それもひとえにレフェルだからできる業なんじゃないかと考えた。
 本なんか滅多に読まない私は、やっと肩の力を抜いて細かい動作に疲れた両腕をストレッチする。もう少し続けてたら腕とか指とか吊ってたかも知れない。
「ふぁー疲れたー。それで探してたページってなんだったの?」
「内緒だ。それに知ったところでグミが今出来る事は何もないからな」
 内緒って私は敵じゃないどころか仲間なんだから、協力者に対してその即答はないでしょ。普段やらないし、これからもやることなんてないと思ってた事務労 働をさせたうえにこの仕打ち!
 心に降り積もったストレスも相まって、普段から切れやすくて困ってる堪忍袋の緒が、綿糸一本切るようなちっちゃい音でぶち切れる。
「内緒ってどういうことよ! 今何も出来なくたって、心の準備とかイメージトレーニングとか瞑想とかいろいろ出来るじゃない!」
 しかしここでもレフェルは冷静だった。いつもだったら私が怒り心頭なのを見て身の危険を感じ、黙るか謝るか縮こまるかするはずなのに、平気な顔で返して くる。
「それを何もしないというのだ。それに我は意地悪とかグミを過小評価して内緒にしてるわけじゃない。これまでの重圧に晒された知能戦でお前は疲れてる。ス トレスもガンガン溜まってる。違うか?」
「うっ……」
 当たってる。レフェルしか知ってる人がいなくて、唯一心許せる相手に八つ当たりしてるんだ。
 レフェルの完全に的を得た一言に私は二の句を告げず、黙り込むしかなかった。悔しいとかむかつくとか以前に、誰かがいないと何も出来ない自分が惨めだっ た。
「これからの作戦を説明するとグミの性格上、気負いすぎて本番に実力を出せないかもしれない。我はお前の実力を信頼してる。だから、グミも我を信じてくれ ないだろうか?」
 レフェルの真摯な目。メイスなんだから表情もへったくれもないはずなんだけど、私にはそう見えた。言い方はいつも通りで偉そうだけど、何か熱いモノが伝 わってきた気がする。
 さっきまでの沸騰しそうなほどの怒りは冷えた鉄のようにあっという間に冷めてしまった。
「わかったわよ。レフェルのこと信じる。その代わり、私に出来ることは何でも言ってね。何も出来ないで待ってるなんて嫌だから」
「なら、我とその本を抱えてコロシアムの案内まで行ってくれ。当事者にもいろいろ聞きたいことがある」
 またも即答。さっきの信頼とか友情とかそういったものはどこに行ったのか聞き返したい、むしろレフェルが粉々に壊れるくらいそこら中に叩き付けたい衝動 が湧き上がってきたけど、ここはぐっとこらえてミネラルウォーターの入った容器を掴んで、そのまま一気に中身を飲み干す。レフェルをぼこぼこにしても立派 な調度品が粉々になるだけだし、レフェルは私のことを信頼して、勝つために出来ることをすべてやってくれているんだ。一人じゃ動けないレフェルの代わり に、私が足にならなきゃ!
 私は飲み終えたペットボトルをくしゃっと握りつぶし、テーブルの上に叩きつけるようにして置く。
 レフェルも内心またキレるんじゃないかとビクビクしてたみたいだったけど、迷わず私が本とレフェルを掴んだことで安心したみたいだ。さっきと同じ口調で 扉を開けた後も、上の案内を見ろだとか、通行人にぶつからないようにしろとか口うるさく言って来る。
 ルーレットの件で少しは慣れたといっても、カジノの騒々しさや全体のかもし出す雰囲気はまだまだ私の不安をかりたててくる。でも、両腕の中でうるさく指 示してくる鈍器のおかげで、一人でもずんずん進むことが出来た。師匠、こんな頼れる仲間をありがとう。すべて終わって、村に帰ったらそんな風にお礼をした い。心からそう思った。
 見たこともない賭け事や、トランプを使ったカードゲーム、機械を使った勝負……ありとあらゆるゲームスペースを通り過ぎ、清掃の行き届いた絨毯の上を迷 うことなく歩く。上から吊り下げられた案内板と腕の中のレフェルに助けられながら。
「ここだ。そこの男と話がしたい」
 レフェルがつぶやいたその男を見上げる。木製の重厚なカウンターの中で、使い古されてるけどよく手入れされてる椅子に腰掛けたおじいさんがいた。髪やお ひげは白くなりつつも綺麗に整えられていて、灰色のスーツがとっても似合うおじさまと言ったほうが正しいかもしれない。
 おじいさんは年のせいか目を細めて私の顔を見る。遠目からではよく見えないのか、座っていてもかなり上背のある高い身長で、私の顔のすぐ近くまで にゅーっと体が伸びたように近づいてくる。それこそ鼻息がかかるくらいまでの距離まで。
 私はほとんどキスしそうな距離になってから驚いて一歩飛びのき、無意識のうちに失礼のないようにぺこりとお辞儀をする。
「あ、あの、私、グミって言います。その、ちょっと仲間が話を聞きたいっていうから……あ」
 言ってから気づく。今の私はどう見ても一人だ。レフェルをいきなり見破る人間なんてそんなにいるはずないし、よくよく考えてみれば今までいきなり見破ら れたのはクラウンだけだ。
 一応仲間っていう風に誤魔化したけど、レフェルがこの鈍器だって知ったらこのおじいさん、どんな顔をするだろう。ましてや喋ったりなんてしたら、驚いて 卒倒したりしちゃうかもしれない。
 でも、おじいさんの反応は訝しがるでも、聞き違いかと耳に手をやるでもなく、見てるこっちが呆気にとられるような突然の大笑いだった。
「ふぉっふぉふぉ、グミちゃんといったかな。こんな可愛らしい子がこんな場所にいるはずないからの。爺もついに老眼鏡が必要かと思っとったと頃じゃった が、見間違いではなかったようじゃな」
 どうやら目が悪かったわけじゃないみたいだ。目だけじゃなくて耳も悪くないみたいだし、どっちかっていうと私の存在がここでは場違いだったっていうのが 本当みたい。
 私はほめて貰ったことのお礼をいい、出来れば後回しにしたいけど、後回しにはできないレフェルについての話に持っていく。
「あ、ありがとうございます。それでその、話を聞きたいって言ってた仲間のことなんですけど」
 おじいさんは既に白んだ眉毛よりもずっと細い目を更に細めて、私を見る。そして、ゆっくりと口を開いた。
「お譲ちゃんの胸元とはいい身分だの、そこの御仁。男と話すことなぞ何もないが、孫娘のようなめんこい子の願いじゃ、聞いてやらんわけにはいかんのう」
「えっ! あの、レフェルがわかるんですか!?」
 あまりの驚きに思わず大きな声が出てしまう。見破られまいと思っていたレフェルの存在を短期間に二回も見破られるなんて! しかも喋ってもいないのに男だってことまでばれてる。このおじいさん、何者なの……?
 そのびっくりおじいさんはまたもふぉっふぉと不思議な笑い方をすると、私と喋ることが心底うれしそうに言った。
「そのメイスから青二才の臭いがするでの。生意気そうじゃが頭はキレる。当たりかな?」
 丸っきり当たってる。さっきから、レフェルといいこのおじいさんといい、エスパー?
 レフェルはなんでかわからないけど、おじいさんの一言にカチンときたらしく、苛立ちをあらわにしながら早口で言った。
「青二才で悪かったな。我の歳など知らんが、そんなことはどうでもいい。聞きたいことがある」
「お断りじゃ。若い者は礼儀を知らぬ者が多い。こんな娘っ子でも出来るのにのう」
 おじいさんは私に微笑みかけながら、いとも簡単にレフェルをあしらう。私ならどんな口論でも負けると思うのに、このおじいさんと来たら一瞬で負かしてし まった。
 レフェルも私と同じく、このおじいさんに思うところがあるのか、一瞬意図的に沈黙を作っていたが、観念して言った。
「……失礼した。我が名はレフェル。ただの鈍器だ。いくつかの質問に答えて欲しいのだが」
「ただの鈍器が名乗るとは生意気じゃのー。それに加えてそんな美少女にいっつも抱きかかえられとるとはムカツクのー」
「…………」
 名乗れと言うから仕方なく名乗ったというのに、名乗った途端これとはさすがにレフェルも想像してなかったらしく、黙り込んでしまう。どうやら私とはまた 違ったレフェルの天敵のようだ。
 仕方ない、ここは私が一肌脱いであげよう。私はレフェルと本を胸元に抱いたまま、上目使いでおいいさんの顔をじっと見つめる。
「おじいちゃん、お願い……話、聞いてあげて欲しいの」
 思いっきり演技入ってたと思うけど、それでもおじいさんには効果抜群だったようだ。一撃で折れて話を聞いてくれるらしい。もしかしたら、初めからこれが 目的だったのかもだけど。
「そそそ、そこまで言われたら仕方ないのう。どれレフェルとやら。わしの名はゴードンという。グミちゃんに免じて話を聞いてやろう」
 レフェルはすぐ近くの私でも聞き逃すくらいの小さな声で何か言った。
「このロリコンが……」
「ふぉっふぉ。ぬしもな」
続く
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