初めは懐かしい昂ぶり。我の脳にあたる部分にある記憶とは違う、もっと経験的な懐かし さ。以前からずっと、我はこちら側の存在だったのではないかと信じたくなるほどの既視感を感じた。いや、きっとその通りだったのだろう。その証拠に、ここ に来てからははこれまで考えもしなかった計算、策略、ありとあらゆる賭博に対する知識が渦巻いている。
 もしかしたら、失った記憶を取り戻すことが出来るかもしれない。暗く狭い箱に入れられる前の記憶、それとも現在の体になる前の記憶をも思い出せるかもし れない。
 しかし、記憶を取り戻すということは、我にとってどういう益があるのだろうか。もし、それが自ら記憶を封じたくなるほどの凄惨な記憶だったとしたら。箱 から出されたときが我の存在の始まりで、そもそもそれ以前の記憶は存在しないとしたら。
 ……仮定の話ばかりで嫌になるな。ありもしない仮定の中での更なる仮定に何の意味があるというのだ。現に我はカジノのこと以外何も思い出せてはいない。 いくら思い出そうとも、脳裏に浮かぶのは底知れない闇だけだ。
 今は勝つことだけを考えよう。この頼りない主人を勝たせるために、我が手を貸さなくてはならない。
「ゲームをお楽しみでしょうか。ドリンクをお持ちしました」
 貼り付けた薄い笑みを浮かべながら現れた男は、鮮やかなグリーンの注がれたグラスをグミの前に差し出し、アルコールは入ってませんよと小さく付け加え る。半分が不気味な笑顔の仮面で覆われた顔は元々そうであったかのように左右対称に均一な笑みを浮かべている。黒い長髪に細く鋭い目つきは知的で誰にも不 快感を与えないように計算されつくしている。
 グミは一瞬きょとんとしていたが、すぐに油断していたことを悟られないように、黙ってグラスを受け取った。しかし、口はつけない。毒を盛るなんてことは まず考えられないが、グミなりに警戒してるのだろう。
 それを見たクラウンも特に気分を害したような顔はせず、始終笑顔のまま、元通りグミの後ろの定位置に戻る。それ以降特に口出ししてこないのは心遣いのつ もりなのかもしれないが、余計に不気味で何を考えているかわからなかった。
 この男、ディーラーのような仕事を自ら進んでやっているが、実際はこのカジノの最高責任者であり管理者のクラウンだった。それがわざわざこんな少女に飲 み物を持ってくる事情は不明だが、グミは何らかの理由で恐ろしく好かれているようだった。
 しかし、我は感じていた。この男は要注意、もっというなら危険だと。理屈ではなく直感で。何を考えているかわからないということは、行動が読み難いとい うことだ。ギャンブルでいうポーカーフェイス。表情の変わらない相手からはその手札を読むことは非常に難しい。
 今は直接の敵ではないとしても、このカジノの管理者ということを考えると、そう楽観してはいられない。我らは既に人質を取られ、敵の領地で敵のゲームを やらされているのだ。それが圧倒的な不利を示しているということは、どれだけ鈍感だろうとわかるものだった。
 言わずともグミだってそのことを自覚している。例えこのカジノが敵地だということを差し引いても、これほど立て続けに負ければわからざるを得ない。単純 な運の問題といってはそれまでだが、それでも疑惑がディーラーにかかるのは当然だった。
 参加者が見守る中、これまでとまったく同じ動作でディーラーが白球を放る。変わらぬ表情、わずかな無駄もない完成された動きはある種の芸術を思わせた。 もし、このディーラーが、
「私は好きなところにボールを落とせます」
といえば、我だけでなく全ての人が信じるだろう。まさに機械のような精密な動作、百発百中とまでは言わないが、好きなところに落とせるかどうかはともか く、好きなところに落とさないことは間違いなく出来るだろう。そう断言させるほどの実力をこのディーラーは持っている。
 そこまで言わしめる彼とグミが勝負をしたとして、どっちが勝てるかといえば、それはもう言うのも馬鹿らしいというか、失礼だった。たとえこれがじゃんけ んでもグミが勝てるかどうかには相当疑問がある。
「レフェル……」
 グミもまったく同じ気持ちのようだ。手にした10のチップは震え、赤にも黒にも行きたくないと主張しているようだった。我の名を呼ぶ声もどこか弱弱し い。しかし、それに対する我の返答は決して優しいものではなかった。
「協力するとは言ったが、どこに置けと指示するつもりはないぞ。最終的にはグミ自身の判断になる」
「えっ……そうなの!? なんだ……」
 隠すこともなくがっくりと肩を落とすグミ。藁にもすがる、もとい我にもすがるといった感じだったのだろう。グミは既に勝負をすること自体に恐怖している ようだった。
「だが、アドバイスはする。今回の勝負は賭けなくていい。我の話をよく聞いてくれ」
 グミはうんうんと何度も頷き、チップを自分のケースに大事そうに戻した。よほど賭けるのが嫌だったらしい。シュウのように何も考えず大勝負ばかりするよ りはマシだが、やはりあまりいい状況とはいえない。
 話を戻そう。我がグミに話そうと思っていたことは二つ、これも順を追って話したほうがわかりやすいだろう。まずはルーレットだけでなく、このカジノ全体 についての話だ。
「グミ、最初このカジノに入ったときどう思った?」
「え? なんか賑やかで、みんな楽しそうだなって思ったけど……それが、どうかしたの?」
 グミは何を当たり前のことを聞いてくるんだろうと不思議そうに我を見る。誰だってそう思うと考えたからだろう。
「我も最初は似たような感想だった。でも今ははっきり言える。このカジノはおかしい」
「……?」
 グミも自分の想像力の及ぶ限り、必死で考えているのだろう。しかし、グミが考えてる”おかしい”と我の考えている”おかしい”とはおそらく、根本的なと ころで異なる。何しろグミはカジノ未経験者だ。ものを異常だと判断するためには、正常な状態を知らなくてはならない。
 そして、これこそが我の感じた二つ目のもの。違和感だった。
「質問を変えよう。カジノを運営してる人はどうして、何のためにやってると思う?」
 我の質問にグミは首をかしげ、目をつむる。あたりのざわめき、運命の車輪、落ち目が消えたことで残念がっているほかの参加者。そんなものは全てグミの視 線から消え、ただ思考の渦の中に落ちていく。渦巻く思考を駆ける白球はグミ。回転する盤面が導き出す答えはなんだろうか。
「ゲームが楽しいからじゃなくて、やっぱりお金だと思う。私みたいなのがいっぱい来たら、簡単にお金儲けできるもん」
 多少自虐が入ってはいるが、グミの考えは概ね当たりといえるだろう。そう、カジノやギャンブル、その全ては儲かるから行われているのだ。
「正解。グミの言ったとおり、ギャンブルに弱い素人ばかりがカジノに来てくれれば、それはもう大儲けだろう。しかし、実はそんなことをしなくても儲かるよ うな仕組みが出来ている」
「ええっ!? それどういうことよ!」
 グミは掴みかかりそうな勢いで、クラウンを睨む。しかし、クラウンは面食らうどころか何事もなかったかのような、元の笑顔のままで口を開いた。
「ええ、そちらの御仁の言うとおりです。俗に言う控除率というものですね。全てのゲームはほんの少しだけディーラーに有利に出来ています。例えばルーレッ トの盤面をご覧ください。0と00という数字があるでしょう?」
 グミは一応盤面にその数字があることを確認し、すぐにクラウンのほうに向き直る。
「えっと、確かあそこは親の総取りになるっていってたよね……」
 大げさに頷くクラウン。小さく拍手するような素振りをしてから、話を続ける。
「ご名答。先ほど始めたばかりだというのに、ご理解が早い。つまりはこういうことです。1〜36の数字と、0、00の合計38個の数字のうち、2つは親の 総取りということで無条件でこちらの勝ちとなります。ほんの1/19……わずか5,3%ですが、こちらの運営費に当てさせていただいています。納得されま したでしょうか?」
「え、うん……ありがと」
 グミはどうみても納得してないようだったが、早口で数字を並べ立てられたことでそれ以上の追求はしなかった。第一しても無駄なので、それに関して我は何 も言わない。
「まぁ、クラウンの言ったとおりだ。ほぼ全てのゲームは控除率というものがあり、一度や二度の勝負では差ほど関係なくとも、長期的に何度も繰り返すことで 間違いなく利益を出すことができる。ルーレットのような確率的なものだけでなく、ゲーム自体の参加費で控除するものもある」
「うん、要するにいっぱいいろんな勝負をすれば、勝ったり負けたりしても、その控除率ってので最終的に儲かるってことなんでしょ? でもなんか、やっぱり納得いかない……」
「利益を出すのがあらゆる経済組織の目的だから仕方ないだろう。それにこのカジノを運営すること自体に金がかかる。さっきは運営費とまとめていたが、人件 費や食材などの仕入れ、器具の調達や入れ替え、電気やその他諸々上げていけばキリがない。それをまかなうために控除率というものが存在するんだ。逆に考え てみろ、もし控除率がなかったらカジノそのものを維持できなくなる」
 そこまで聞いてようやくグミは納得したようだった。利益を出す云々の前に管理者や従業員が生活できなくなれば、そのカジノはその時点で必要なくなる。借 金の返済や従業員の給料などを考えて利益が出ないというのなら別だが、運営すればするほど赤字が出るだけなら潰したほうがいいのだ。
「うーん、その控除率って言うのはわかったけど、それで利益が出るならそれでいいじゃない。レフェルが何を言いたいのかわかんない」
 グミの言ってることも確かに間違ってはいない。しかし、それは欲のない人間の考え方だった。必要最低限の利益、クラウンのいう運営費だけ稼げて、生活で きればいい……などと考える人間は少ない。運営費など当たり前、勝負でも勝つ。こうすれば大勝出来る。億万長者もにわかに現実味を帯びてくる。
「全ての人がグミのようならいいのだが、カジノに関する者のほとんどは金の亡者だと考えたほうがいい。全員が勝ちたいんだ。誰を踏み台にしようと、何人が 破滅しようとも、自分さえ勝てばいい。そういう世界だ」
 愕然とした表情をするグミ。今までそんなことを想像したこともなかったのだろう。誰かを蹴落としてでも、生き残る。自分以外はどうでもいい。それが世界 の理だということを。
 果たして我自身もそんな世界の中、金のために動いていたのだろうか。
 何故、何のために。記憶がないのだから答えなど出せるはずはない。
 ただ、今は何のためにここにいるのか、その答えは胸を張って言える。仲間を助け出すためだ。
「話を続けよう。世の中にはそういう人間もいる。ユアの元主人もそういう人種だ。だが、そんなのとは次元の違う強欲な人間がいる。その一人がカジノの運営 者だ」
 一瞬グミはクラウンを見るが、すぐに視線を我に戻す。強欲な人間の一人だと言われた当人はどこ吹く風だ。
「それで、どう悪代官なの?」
「悪代官ではないが……そうだな、カジノは金儲けをするためにあらゆる努力を惜しまない。しかし、重要なのはその逆だ。勝つこと以上に、負けることを未然 に防ぐ。負けなければ自然とカジノ側が勝つようになっているからだ」
「負けることを防ぐって、そんなの無理じゃない……ルーレットだって、何回もやってれば私だって一回くらいは……」
 こういう頭脳労働には向いていないのか、グミの頭もそろそろ限界のようだ。今度は多少視点を変えて説明してみよう。
「では、グミがカジノ側。つまり運営者だったら、どんなことが一番困る?」
「えーっと、やっぱりお客さんが誰も来ないこと?」
「それも確かにそうだが、金の匂いに惹かれて人は大勢来るとしよう」
「わかった! みんながみんな強運で勝っちゃうことよ」
 ようやく答えが出た。そう、あえて言うなら運営者側から言ってみれば勝つ客は客ではない。負けて、金を落としていく客だけが本当の客なのだ。それが大口 ならなおいい。
「そうだ。だから、強運の客はどうにかしてあまり勝たせないようにしなければならない。そうすれば負ける客がカジノを勝たせてくれる」
「でも、勝たせないようにするなんて、イカサマでも使わないと無理じゃ……え、もしかして!」
 予期せぬところでグミが核心に気づいた。ほんの一瞬だけ時が止まったかのように感じる。
「どこのカジノでもイカサマはやっている。ほとんど手品のような手さばきでカードをカットしているが、その中の配置を操るくらいそう難しいことじゃない。 それにイカサマだけじゃない。元々大敗しないよう、あらかじめベットに限度額を決めたり、あたかもここが勝てるというようにサクラを用意して大勝させた り、巧みな話術でより多くの金を出させるように誘導したり、そういったことが出来ないゲームでは大勝ちした客にこれ以上勝たせないように、特別賞などを 送って他のゲームへと移らせたり、最終手段としてはやはり従業員全員で最大警戒して絶対に勝たせないような手順でゲームをさせることもできる。大敗しては 自分の首が飛ぶ、ディーラーも必死なんだ」
「そんなの……どうしたらいいのよ」
 グミががっくりとうな垂れる。それだけ厳しい事を言ったのだということを改めて実感した。一握りの幸運があってもそれすら奪い取ろうと必死なカジノの中 で、それでも勝ち残ることの難しさ。それを理解したグミには絶望しか残らなかったようだ。勝てない=二人を救えないという等式が頭に浮かんでいる。
 しかし、まだ希望はある。
「グミ、言っておくがそれは”普通”のカジノの話だ。最初に言っただろう……このカジノには違和感がある。その正体がそれだ」
「……それって?」
「立地条件の不可解さ、命がけのチップ、イカサマなしの公言、青天のルーレット、バカ勝ちを放置するディーラー。宣言しよう。このカジノからは金の匂いが しない。もっと、許されない何か隠されている」
 クラウンの薄い笑みが一瞬無表情に変わり、その直後哄笑した。しかし、我は見ていた。その目だけはまるで凍りついたかのように笑っていなかったのを。
続く
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