間合いは一瞬、わたしと対象の距離は初めから存在しなかったかのように掻き消え、両者
の初撃が届く範囲まで肉薄する。
空気の圧縮する音。浅く吸い込んだ呼気。私と怪物への境界を埋め尽くす濃密な殺意が交じり合う。
触れるだけでおかしくなりそうなキルゾーン。きらめく刃が風を切り、舞うように鋭い斬撃を繰り出す。
絶妙な角度で斬りこまれる剣先。甲高い金属の悲鳴。期待とは裏腹に硬い鱗が鮮血の洗礼を硬く阻む。
一太刀ごとに腕が軋む音までが聞こえてくるようだった。痛みは感じない。感じてる暇なんてなかったから。
「右だッ!」
悲鳴、絶叫のようなシュウさんの声。わたしは脊髄反射だけでそれを回避行動へと結びつけ、強引に宙へ身体を任せる。つま先の数センチ下を大木のような尻
尾が空気ごと抉り取っていった。
今回は後方支援に回ってもらっているシュウさん。銃弾こそ目の前の凶獣にはほとんど無力かもしれない、けれど彼の声はわたしに正確な状況の把握を、そし
て何より負けられない勇気をくれた。
「ゴオオオオオオオッ!!」
わたしへの攻撃を外した隙を見計らい、獣のような雄たけびと共に一閃するヨロイさんの刀。極限まで溜められた腕の力を一気に解放する懇親の一撃をお見舞
いする。狙いは胴体や頭部と比べて異常にアンバランスな足だ。尻尾を振るった直後のバランスを保つために全体重が細い足にかかってる……つまり、回避不可
能の計算されつくされた一撃だった。
しかも、それだけじゃない。波打つ刀身は赤い旋風を生み出しながら、本来のリーチを延長して両足へと真空の刃を放っていた。わたしも跳躍していなけれ
ば、今頃足首から先が失われていたかもしれない。戦士の十八番である最強クラスのスラッシュブラストだ。
「グゥオオ……!」
さすがのドレイクもこれにはたまらず苦鳴を漏らす。今までモノの一撃たりとも通さなかった強靭な鱗が横一文字に剥がされ、ハ虫類特有の毒々しい体液を散
らした。鮮やかな青が地面に青の点を穿つ。
「浅い……!」
ヨロイさんは相手のダメージを判断するやいなや、重たそうな鎧にはまるで似合わないフットワークで一歩間合いを開く。功を奏したかと思われた一閃、しか
し鮮やかな切断面をさらすまでは至らず、表皮を多少切り裂いただけに過ぎなかったらしい。しかも傷口から染み出した体液がカサブタのように足を凍らせ、体
液が漏れ出すのを防いでいた。あきれるほどの自己修復機能。ウィザードさんにやったのとはまるで逆の無敵装甲だった。
「はぁ、はぁ……」
わたしは回避行動に徹しながらもわずかに呼吸を早め、少しでも落ち着こうと努めていた。だけど、このままではまずい。こちらは二人がかりでも決定的なダ
メージを与えられず、向こうは一撃の破壊力でわたしを二度と動かない肉塊に変えることが出来る。
焦っても仕方ないとはわかりつつも不利は明白だった。有効な打開策もないまま、いたずらに消耗していく身体。繰り出す太刀筋も徐々に弱っていく。何か致
命的な一撃を受けるのも、時間の問題だった。
「ユアーッ! 九時の方向だ!!」
頭で考えるより先に、右足を強く蹴る。しかし、ドレイクの攻撃はターゲットを変えてヨロイさんに迫っていた。まさか誤誘導……? 一瞬の判断ミスが命取
りになるこの場に及んで、そんな!
わたしは思わず振り向きそうになるのを必死にこらえ、次にすべき行動を頭の中にリストアップ。それの中から最良の選択肢をコンマ一秒で導き出して、全身
の神経に指示を出す。今の場合、ヨロイさんの援護及び、背後への攻撃による標的の撹乱だ。
空中で方向転換できたらいいのに……!
わたしはどうあっても逆らえない物理法則に苛立ちながらも、安定した足場に着地する準備をする。しかし着地の寸前、わたしの思考は目の前の衝撃で強制的に
途絶させられる。
鼓膜を叩く強烈な破裂音に、見覚えのある赤い閃光。シュウさんのボムがわたしがさっきまでいた位置を焼き尽くしていた。こめかみをつたう冷や汗、シュウ
さんのあれは誤報なんかじゃなくてわたしを信頼したからこそ出来た会心の一撃だった。
「直撃だ! 爆心地を全員で行くぞッ!」
号令と共に遠距離から猛烈な一斉射撃が放たれる。ボムによる濃い煙幕でドレイクの顔は見えない。でも、シュウさんがわたしを信じてくれたように、わたし
もシュウさんを信じるんだ。
背後から飛来する銃弾、ボルト、暗器とは違う角度を選び、わたしも一本の投げナイフへとなってドレイクめがけて直進する。ヨロイさんもシュウさんの声を
聞いて同じようにしていることを祈るばかりだ。
使うスキルは威力重視のパワーストライクか効果重視のグランバーストの二択だった。でも、悪夢殺しでグランバーストはやったことがなかったので、安定性
を重視してパワーストライクを選択する。
「食らえッ!!」
大きな果物でも等分するように煙幕を切り裂きながら、あまり上品ではない言葉を口にする。少しおおかみの趣味、というか口癖が移ったかもしれない。そん
なことを考えている余裕が心の中にまだあった。
全体重を刀に乗せ、それに高速の踏み込みで威力を瞬間的に増大させる。シュウさんのバズーカから放たれた渾身の炎。このまま頭蓋ごと、両断する!
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
確かな手ごたえ、両断するまではいたらずとも確実に骨にまで達した感触があった。そして、これだけでも十分なダメージにも関わらず、追い討ちでもするか
のように様々な飛来物がドレイクの顔面に突き刺さる。ザクッ、ザクッっという耳障りな音と共にひんやりとした飛沫がわたしに振りかかる。普通の人間なら低
温火傷するほどのものでもわたしにとってはただの血も同じだった。
「やった……?」
誰に確認するでもなく、薄くなってきた煙幕の中一人呟く。目の前には奇怪なオブジェのように無数の矢や手裏剣の突き刺さった頭部があった。既に絶命して
ると思えるそれから、鈍い音と共に細長い角が一本追加される。首もとの鱗の隙間を縫うような刺突。波打つ刀身が青く冷えて凍り付いていた。
「はぅ……」
残酷な所業、あんなのを食らって生きていられるはずがない。そんな当たり前の考えがわたしから緊張感を取り去っていた。小さく出たため息は眼前の好敵手
が失われたことによるものだったのかもしれない。しかし、緊張の糸が切れて油断した刹那、ヨロイさんのくぐもった叫びが会場に響き渡った。
「女ッ! まだ終わってない!!」
「えっ!?」
切れた糸をつなぐ暇もなく、完全に動きを止めたと思われた頭がわたし目掛けて襲い掛かってきていた。普通なら死体が倒れ掛かって来たと考えてもおかしく
ないタイミング。しかし、わたしの肌は目の前のそれがまだ”生きている”と叫んでいた。
「くあっ……」
わたしは倒れこんできたドレイクの角に鎧ごと強打されながらも、何とか後方に跳躍する。鎧越しとはいえ、ドレイクの直撃はわたしの心臓を揺さぶり、呼吸
を止める。けれど、わたしは身体の拒否を無視してもう一歩下がる。たまらず咳き込むと手にはべっとりとした赤が滲んでいた。身体の中も多少傷ついてしまっ
たのかもしれない。しかし、それを確認するまもなく、目の前の圧倒的な存在感に目を疑った。
「グゥオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
ドレイクは血を吐くわたしを見下ろして咆哮をあげる。興奮、歓喜、血の渇き……あらゆるものを見下せる絶対的な力。ドレイクの顔面は焼け爛れ、頭は深々
と割られ、首の側面から反対側まで斜め上に突き上げられた刀、無数の武器が突き刺さった火傷痕。
まったく効いていないわけではなかった。けれど、それでもなおこの化け物は立って、笑うことが出来るのだった。
この調子でもう何度か、もしくは何十回か同じことを繰り返せば、この悪魔を殺すことが出来るのかもしれない。でも、そんなのは当然無理な話だった。
今、ドレイクは何もせずに、ただわたしのことを見ていた。征服感に、勝利の美酒に酔いしれるように。その壮絶な傷痕など何事でもなかったかのように。
「……………………!!」
耳障りなノイズ。喋ってるのは実況? シュウさん?
もう、何もわからなかった。わたしを覆っているものは恐怖、諦め、その他あらゆる負の感情。完全な敗北感。指先から身体の芯まで凍らされたような感じだっ
た。空虚になった瞳の先、ドレイクの姿を隠すように薄い霧が立ち込める。そして、それに続く荒々しい吸気。これは何の合図だったかな。
(姉さん! ブレスだ! 早くそこから逃げて!)
さっき必死で食い止めた冷気の息だった。しかし、今のわたしにはどうやっても逃げる方法が浮かばない。あの壮絶な表情を見るだけで何も、何も考えられな
かった。
コロシアム内の全ての酸素を吸い尽くすような豪快な吸気が終わる。今はわたしを鎧ごとミンチにするための氷弾を精製しているところなのだろう。何発まで
耐えられるだろうか。あのドレイクのようにずたぼろになりながらも立ち上がれたらいいな。
(姉さん、あの野郎! 違うんだ、狙ってるのは!!)
おおかみの声が頭の中でこだまする。虚ろだった世界にようやく焦点を戻し、ドレイクの顔を見る。勝ち誇った表情、そして何よりも残酷な表情が向いていた
のはわたしの遥か後方。真っ先に思い出されるのはまだすばやくは動けないシュウさんたち。
もし、あの口から氷の弾丸がばら撒かれたら。わたしが死ぬことよりも世界が破滅するよりも耐えられないことだった。それをこのドレイクは見越した上で、
今この瞬間実行しようとしている!
「あ、ああああ、わああああああああああ! 嫌、やめて。おねがい、それだけは……」
取り乱し、うずくまる様にしてドレイクに懇願する。このドレイクに言葉が通じたとしても、決してその行動を止めることはなかったと気づいていた。わかっ
ていても耐えられなかった。泣いて慈悲を乞うわたしを見て、ドレイクは満足そうに笑い、あくびでもするかのように口を開いて、続けざまに十数発の氷塊を吐
き出した。
頭の上、左右、わたしのことを嫌うようにわざと避けて飛んでいく巨大な氷。ウィザードさんのものとは比べることさえはばかるほどの圧倒的な質量。頬を
伝った涙は一瞬で凍り付いてしまった。ガトリング砲のように吐き出されたそれは、瞬く間にコロシアムの人間側のフィールドを壊滅状態に追い込むだろう。巨
大な雹に押しつぶされて、原型もとどまらないに違いない。
「また……わたし、ひとりだけ?」
思わず口から出た言葉。誰からも返事はない。
振り返るのが怖かった。一人になるのが怖かった。何も出来ないとわかってしまうのが怖かった。わたしがわたしでなくなるのが怖かった。わたし以外をこの
手で全て消し去ってしまうのが怖かった。
身体の芯がむずむずする。何もかも壊したい衝動が身体の奥から染み出してくる。全部壊して、わたし自身も壊して、目の前のこいつを。こいつを。こいつ
を!
血の温度が急激に上昇していく。さっきまで痛んでいた胸もむしろ痛みが心地いいかのように感じられてきた。鎧も刀も羽のように軽い。
「女、現実を見ろ。ここはこういうところだ」
消し飛んでいく感情の中で、ふいに後ろから声が聞こえてきた。ヨロイさんの声だ。生きていたの?
いいえ、そういえばヨロイさんだけはドレイクの後ろ側にいたから助かったのかもしれない。でも、でもシュウさんは……シュウさんは。
「ユア!! くそっ、なんてザマだ」
幻聴かと思った。でも、その幻聴でもいいから、幻でも何でもいいからもう一度シュウさんに会いたかった。シュウさんはそこにいた。
「シュウさ……ん、無事でよかった……」
灼けるほどに熱くなっていた身体が、ようやく落ち着きを取り戻す。輝きを取り戻す世界。氷のいくつかははずれ、いくつかは粉々に叩き割られていた。
よかった。壊すんじゃなくて、守りたい世界はまだここにあった。喜びをかみ締めながら、熱い涙をぬぐう。滲んでいた世界が鮮明さを取り戻し、新たな現実
をまざまざと見せ付けられた。
「ヨロイさん……?」
東洋の鎧の残骸が血溜りに沈んでいた。刀、兜、鎧、手甲、足甲、その全てが無残に砕け、赤く染まっている。
「ヨロイさん!」
呼びかけには答えない。さっきの声の直後、こと切れていた。
ヨロイさんの最後の言葉が木霊する、これが現実。人が死ぬのを見世物にするところ。
なら、どうしてあの人はこんなところにいたんだろう。そして、わたしやシュウさんはどうなるんだろう。
「ユア。今生きてるのは、俺とお前とサベージ、キールの四人だけだ。残りはアイスキャンデーになっちまったみたいだ……」
シュウさんは掲示板を見て、命の明かりが消えなかった人たちの名前だけを挙げていく。目を背けたい現実だった。
「どうしてこんな……!」
わたしは大波乱の展開に騒ぎ立てる観衆を睨みつける。無駄だとわかっていても、そうせざるを得なかった。
視線をドレイクに移す。新たに弾を作り出すこともせず、ただわたしたちのことを眺めていた。許せなかった。憎かった。それと同時に怖かった。もし、少し
運命の歯車がずれていたら、わたしがあっちだったのかもしれないと。
だから、余計に悔しかった。わたしに似た存在、まだわずかにあったかもしれない躊躇が燃える怒りにあてられ、溶けていく。そして、それとほぼ同時にわず
かに揺れるわたしの本。狂戦士と銘されたスキルブック。
「シュウさん、もしわたしがおかしくなったら、わたしを殺してくれませんか?」
突然こんなことをいったから、シュウさんは驚いたかもしれない。
でも、シュウさんは驚くこともなく、すぐに答えを返してくれた。
「嫌だね。死んでも止めてやる」
好きな人になら殺されるなら本望。用意していた言葉は無駄になってしまった。でも、嬉しくて、もう二度とないかもしれない告白のチャンスを喜んで飲み込
む。
既にほとんど光点の残っていない掲示板を見る。残り時間を示すデジタル数字が一分を切っていた
「来るぞ」
シュウさんの一言、それだけで十分。傷だらけのアイスドレイクが待ちくたびれたかのように、こちらへと突進してきていた。
続く