少し用があるといってクラウンが出て行ってからというものの、私には特にやることもな く、ただぼんやりと物思いにふけっていた。途中、黒服にサングラスといった個性という個性を押し殺した人が、お酒とそのお酒に合わせるであろう料理を持っ てきてくれたけれど、とても食べる気にはならなかった。
 その代わりに私の思考を支配していたのは、あの底冷えのする眼光のことだった。血を連想させる鮮やかな瞳の奥に潜む凍りつくような、冷たい何か。なぜ、 どうしてと聞かれても困る。正体がわからなくても、本能が逆らうことを拒否していたんだ。
 そして、彼の持ち出したゲーム。初めから私を勝たせるために仕組まれた勝負だった。勝てる戦いにわざと負ける。それがなにを意図するかわからないからこ そ、不気味だった。勝たせることも負けさせることも相手の自由。私は手のひらの上で踊る人形?
「うぅ……」
 不安が意味を成さない声となって、口の端から零れ落ちる。いつから私はこんなにいくじなしになってしまったのだろうか。それとも、強がってただけで最初 から弱かったのかもしれない。
 私は何か気を紛らわせるものはとテーブルの上に目を落とす。血のように赤いワイン……だめだ、こんなの匂いを嗅いだだけで気を紛らわすどころか、気を 失ってしまうかもしれない。視線だけで酔ってしまうかのように、すぐさま目をそらして隣にあったケースを見つめる。ついさっきクラウンから渡されたもの だった。
 それぞれ数字の刻まれたチップと、何も書いていない大きなチップ。それが何を意味しているのかはなんとなくわかった。勝負に賭けるお金の代わりなのだろ う。見た目もカラフルで、1000メル札や50メル硬貨のようにくしゃくしゃにシワがついたり、薄汚れたりしてないから見栄えがいいんだと思う。それに、 そのままお金を賭けるのってやっぱり無骨だし、オシャレとはかけ離れてるイメージがあった。
 でも、この大きな一枚は何なんだろう。数字も書いていなければ、周りに模されたしましま模様もない。表面はガラス細工のように美しく磨き上げられてい て、彫刻品のような美しさがあった。
 私がそれを覗き込んだりしていると、椅子の傍らにおいてあったレフェルが口を開いた。
「グミ。あの道化が戻ってくる前に二、三確認したいことがある」
 私は一枚しかないきれいなチップを元あった位置へと戻し、しっかりとケースのふたをしてからレフェルを顔の位置まで持ち上げる。それをOKのサインだと 認識したレフェルは動かさない口で話し出した。
「まず、ギルドライセンスでは二人に連絡が取れなかった。これは偶然じゃないだろうな」
 クラウンがいなくなった直後に試してみたけれど、何度やっても二人へのメッセージは届かなかったと表示された。こんなことは初めてのことで、きっとカー ドの魔法が届かないところに幽閉されちゃったんだと思う。
「何度も試してみたけど、やっぱりダメみたい。もう一回やってみる?」
「いや、いい。多分無駄だろう……」
 レフェルも私とほぼ同じことを考えているらしい。クラウンが言う別の世界のようなところに連れて行かれたのかもしれない。
 もう会えないかもしれない。まだわからないけど、そう思うと鼻の奥ツンと痛くなったように感じて、少しでも気を緩めたら泣き出してしまいそうだった。し かし、その様子にレフェルは気遣うわけでも元気付けようとするわけでもなく、ただ現実を直視させた。
「泣いている暇はないぞ。二人のことは後で考えるとして、こちらの現状の話をしよう。やつは二人を助けるには勝負に勝つことだと言っていたな」
 ほかにショックなことが多すぎて忘れていた。そうだ、そういえばそんなことを言っていた気がする。
「さっきのクラウンとかいうやつが言ってた通り、ここは間違いなくカジノだ。十中八九、ゲームに参加させられるだろう。そこでグミが勝つ、こちらに打つ手 はそれしかない」
「うん。でも、もし負けちゃったら……?」
 とことん弱気な私だった。さっきも目の前であんな芸当をやらかされて、気づかなかったんだから、なおさらだ。まともな勝負ではどう考えても勝ち目がない 気がする。
 レフェルは私の不安を見透かすように忠告した。
「負けたときのことは考えないほうがいい。もしなんて仮定は必要ない、勝たなければお前も我も二人も全員同じ道を辿ることになる」
 言葉にこそしなかったけれど、負けたときの結末なんてものは簡単に予想できる。怖くてそんなこと口にしたりできないけど……。
「でもレフェル、勝つなんて私……勝負したこともないのに」
 さっきの勝負を見ても勝敗は明らかだというのに、勝つなんて無理だ。そう最初からあきらめて、うつむいてしまえば楽だった。あの瞳に見つめられてからと いうものの、前向きな思考というものが自分の中から欠落してしまったのかもしれない。
「グミ一人なら、まず間違いなく勝てないだろう。だが、我が力を貸す。二対一なら、立ち向かえるのではないか?」
 あまりに無力、というより無気力に成り下がってしまった私にレフェルがかける言葉は優しかった。むしろ、今までになく必死な感じがした。いつもの物事を 斜めに見ているような、それでいて少し抜けているレフェルとは違う。
「ありがとう。なんかちょっと気持ち悪いけど元気出た気がする」
「気持ち悪いは余計だ」
 私は素直にお礼を言ったつもりなんだけどな。照れ隠しのつもりなのかもしれない。
 ともあれ、珍しいレフェルのフォローによってほんの少しだけ気力を取り戻したみたいだ。
「最後に、そうだな。そのチップ、全部でいくらあるんだ?」
「いくらって、どういう意味?」
「数字だけ足してくれればいい」
 短いやり取りだったが、それでも十分にレフェルの意図は理解できた。私は閉じたケースのふたをもう一度開けて、小さい数字から順に足し合わせていく。
「えっと……たぶん、200だと思う」
 何度も確認した結果、1が20枚、5が6枚、10が5枚、100が1枚だった。ちょっと中途半端な数字だけど、間違いないはずだ。
「多分って足し算も自信ないのか」
「う、うるさいわね。絶対200よ……多分」
 数字は苦手といういいわけも、さすがに足し算じゃ通じない。でも、何度数えても自信がないのも確かだった。このきれいなやつにはどこ見ても数字が書いて ないし。
「200か。ずいぶんと中途半端な数字だが、そこまで言い切るのなら間違ってはいないのだろう。そして、これは推測だが……その200では二人を救うには 足りないのだろう。それ以上に勝たなければならないのだからな」
「あっ、そうか……」
 200では二人の命に値しない。この200が意味する実際の額はわからないけど、相当なお金であることはなんとなくわかった。人の命がお金で買えるほど 軽いものだなんて思うつもりはないけれど、それでもお金は実際の重み以上の重みがあった。
 私はさっきまでさほど気にも留めていなかったケースにしっかりとふたをして、そっとカバンに仕舞いいれる。できれば鍵のひとつも欲しいくらいだったけ ど、今手元にカバンやケース用の鍵なんて持っていなかった。仕方ないので、両腕でぎゅっとカバンを抱きしめる形で守ることにする。
「これで安全ね」
「むき出しで置いとくより心配だ」
 半ば本気で言った私に対して、レフェルは冗談めいた皮肉で返してきた。少しむっとするものの、さっきから助けられてばっかりだし、周りの調度品も豪華だ から投げたり、ぶつけたりといった暴力は我慢する。
「そんなこと言ってると、あんたもここに忘れてっちゃうよ」
「もとよりチップは忘れていくつもりだったのだな」
 うっ、今日のレフェルはなんとなく冴えている。私の精一杯の皮肉もさらりと返されてしまう。
 私はレフェルをやりこめることをあきらめて、純粋に思ったことを口にした。
「レフェル、なんかさっきから……ちょっと違わない?」
 私が何気なく口にしたその言葉で、レフェルは釘を刺されたかのようにその場で動かなくなってしまう。さっき感じた必死さみたいなものも、無表情な顔から 染み出していた。もしかしたら、なにか核心めいたところをついたのかもしれない。
「実は、我自身もよくわからないのだが……」
 多少どもりながら、レフェルが口を開いた。ついさっきまでの軽口は封じられ、滅多に話さない自分の事をカメのように話始める。
「記憶にはないのだが、体がカジノの……ギャンブルを知っているようだ。血は無いのだが、血が騒ぐといった感覚が一番近いのかもしれない」
 私だってレフェルの昔のことは知らない。でも、少なくとも鈍器はギャンブルをしないと思う。強面の人たちとテーブルを囲んでトランプをしているレフェル の姿を想像すると、なんだかすごくおかしくなってしまった。しかも想像の中ではレフェルが連勝に連勝を重ねて色とりどりのチップの山を築いているのだっ た。
「そんなに面白いことではないだろう。記憶になくとも、今のときに好都合なら使うしかあるまい」
 言ってることはもっともなのだけれど、自信のなさみたいなものが言葉に表れていて余計おかしくなってしまった。くすくすと笑う私を見て、レフェルは怒り 出すわけでもなく、むしろ自分で言ったこと自体に困惑しているようだった。
 でも、今少しでも笑うことによって、さっきのつらいことから開放されるような気がした。心の中で小さくお礼を言う。もし、レフェルがいてくれなかった ら、私は何もしないまま負けていただろう。だけど、今なら勝てる気がする。二人なら囚われた二人を助けられる気がした。
 悪夢のドアが開く、そのときまでは。
「お待たせしました。ワインのほうはお口に合いませんでしたかね」
 かちゃりという小さな金属音がもたらしたのは、楽しい日常に鍵をかけてしまうかのような沈黙だった。さっきとまったく同じ格好、表情をしたクラウンが 戻ってきたのだった。
 それと同時にレフェルは貝になり、口をつぐむ。けれど、それはクラウンに喋れる事を隠し通すためのポーズであり、私にはそれがわかっていた。
 私は一度はくじけそうになる勇気を振り絞り、レフェルとカバンを抱きしめて立ち上がる。
「私、お酒は飲めないの。用事は済んだのかしら」
 少しでも強気に振舞おうとするものの、その姿、その瞳を見た途端に声が震えてしまう。そのすべてを見透かされないように、強がるので精一杯だった。
「ええ。お時間をとらせました。どうぞ、お部屋の外へ。ご案内します」
 クラウンは最初とまったく変わらぬ礼儀正しさで、私を部屋の外へと手招きした。自分について来いといっているに違いない。ドアの隙間からは楽しげな音楽 や、歓声とも落胆とも取れる人々の声が聞こえてきた。
 私が部屋の外に触れたのを見るや否や、クラウンはにっこりと笑っていった。
「めくるめく夢の世界へようこそ」
 この男の夢と聞いて、思い浮かぶのは悪夢だけだった。それも最低最悪の醒めない悪夢。
 でも、ようやく、閉じられていなかった部屋から出ることができた。部屋から出ると聞こえてきたのは、ほとんど気づかなかった音の洪水だった。電子音や ボールの流れる音、トランプを切る音、本当に何の音だかわかんない音とか一言では表現できないほどの、三重にも四重にも重なり合った音。そして、数え切れ ないほど行き交う人の数々だった。
 本当に、どこにこんなに人がいたんだろうと思うくらいの人がいる。美しいドレスやかっこいいスーツをまとった老若男女がいろいろなゲームに興じていた。 それぞれゲームに一喜一憂しているところ以外は共通しているところはない……と思ったけど、よく見ると一点だけ共通しているところがあった。
 笑みなのか、ただ細めているだけなのか区別できないほどの微妙な目つき、うつろな目。全員が見えないなにかに支配されていた。
「ご覧ください。オーソドックスにポーカー、ブラックジャック、ルーレットにスロット。ウノや半丁、麻雀に賭けチェス、最近カニングシティでも流行のパチ ンコなどといったゲームもございま す。お飲み物や軽食のほうも随時用意させていただいてますので、一言いただければすぐにでも……」
「クラウン……さん」
 さん、とつけてしまったのはやはり心のどこかに怯えがあったからに違いない。
「なんでしょう?」
 話の腰を折られたにもかかわらず、クラウンは少しも嫌そうな顔はしなかった。
 こんな男なんかと話はしたくない、でも聞かなければならなかった。
「チップについて教えて欲しいの。さっき私に貸してくれたチップの価値と、二人を助ける方法を」
 クラウンの顔から貼り付けたような笑みがふっと色を失ったかのように見えた。ほんの一瞬のことだったけど、その一瞬で時間すらも凍りついたような気がし た。
「すいません、まさかそんなにも早くそのような質問をされるとは思っていなかったものですから」
 取り繕うクラウンの顔は元の笑顔に戻っていた。けれども、さっきの顔の幻影がまだ残ってるかのように私の前にちらついていた。人が、人間があんな顔で人 を見ることができること自体が信じられなかった。幽霊でも見たような気分だった。私を見ていたクラウンの目には色濃く表れた嫌悪が見えた。
「申し訳ありません。御無礼の代わりといっては何ですが、質問にお答えしましょう。チップに刻まれた数字の1は1k、1000メルです。ですから、200 の1000倍は200000メルの価値があります。それと、それはお貸ししたのではありません。差し上げたのです」
「えっ!?」
 20万メルものお金を私に貸すのではなく、くれたのだという。さっきの表情もまた信じられないものだったが、何の理由もなく20万もの大金を私にくれる などという答えも意味がわからなかった。そして、その20万というお金では二人の命を救うこともできないという事実もまた、私には相当の衝撃だった。
「私どものカジノに来られたということ自体が価値のあることです。ですので、わずか200のチップなど安いものです。それと、あの二人を助けるためには、 そのための許可証をチップと交換することで救うことができます。そうですね、あなた自身も含めて三枚の許可証を提示してくだされば、すぐにでも助け出しま しょう。お値段のほうは、あちらのボードにて書かれています」
 クラウンが示した先には黒く艶やかに塗られたボードに金の文字で修飾されていた。一番上には引換品リストと書かれていて、その下にはいくつかの商品名ら しきものと、同じく金の文字で書かれていた数字が目に入った。私は上から順に許可証の文字を探す。下から何番目かのところにその文字はあった。しかし、そ の隣にあった数字に絶望した。
「1にゼロが……6つ。いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……い、1M!?」
 それを三枚……計3Mもの大金が必要なのだった。なるほど、さっきの200チップが安いといったのも、このことがあったからなのかもしれない。貯金と手 持ち、チップをあわせても三分の一程度しかない。
「このカジノお抱えのゴールドマンもございますよ?」
 いくらかの貯金、というかおじさんが渡してくれたものだけど、その気になれば私の分だけは確保出来ることもわかった。でも、そんなことはできなかった。 自分の命が惜しくないわけではない、でも二人を見捨ててまで生き延びることに価値があるのだろうか。
 私はゴールドマンのキャッシュカードをクラウンに渡して叫ぶようにして言った。
「全部チップに変えてちょうだい。3Mどころか、ありったけかっさらってやるんだから」
「フフ、フフフフ。あはははは、面白いです。ええ、久々に面白いお嬢さんだ。こちら側も大敗しない様に注意しなくては。はははは」
 心の底から嬉しそうに声だけが笑っていた。
続く
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