ひんやりと冷たい床、わずかに湿気を含んだ空気。とても人が住んでいる場所とは思えない、だけどどこか懐かしいこの場所。目を開けなくてもわかる、ここは
牢獄だ。現世で罪を犯した人間を閉じ込めておくための施設。
でも、わたしはどんな罪を犯したんだろう。生きるためにわたし以外の生き物の命を奪ったことだろうか?
それとも、故郷から逃げ出したこと? もしかすると、自分では覚えてないうちにもっといけないことをしたのかもしれない。
何がよくて、何がいけないのか。そんなことも教わらなかったから、自覚していないだけで数え切れないほどの罪を重ねてきたのかもしれない。
けど、こんなこと仮定したくもないし、認めたくもないけれど……わたしがこの世に生を持ったこと自体が……。
「ユア! ユア!!」
誰かがわたしの名前を呼びながら、肩を揺すっている。どうしてだろう、今までわたしのことを気にかける人間なんか誰一人いなかったのに。人間
として扱ってくれることすら、少なかったというのに。
「大丈夫か? 目を覚ませよ」
どこか眠りを覚まそうというよりも、今にも息絶えてしまいそうな人にかけるような台詞だ。わたしは死にかけているのだろうか。言われてみれ
ば、体の実感がないような気がしないでもない。そうか、これが死ぬってことなんだ。暗くて、寂しくて、忘れられていく感じ。とてもわたしらしくていやな気
分だった。
(姉さん、姉さん!)
今度は内側から聞こえてくる呼び声。わたしとまったく同じ声かと思えば、発音というか口の構造上の問題で多少違った声だ。これはわかる、わた
しの半身であるおおかみの声。
(……どうかしたの?)
少しうっとおしそうにわたしは心の中でそっとつぶやく。わたしが消えたら、おおかみも一緒に消えてしまうんだろうか。それとも、おおかみがわ
たしになるのだろうか。試したことはないけど、きっとどちらでもないのかもしれない。
おおかみはわたしの対応など、気にすることなく喚いた。
(青髪のガキが姉さんを叩き起こそうとしてるよ)
青髪。そう聞いて初めに思い起こされたのは格子越しに話したあの夜のことだった。ここから出ようと手を差し出してくれた少年。思えば、あのと
き既にわたしは心の鍵を開けられてしまっていたのかもしれない。
「ん、シュウ……さん?」
わたしは手で目をこすりながら、無意識に彼の名前を呼ぶ。深いまどろみから醒めるに従って、急速に開けていく世界。冷たいコンクリートで固め
られた長方形はカビと鉄のようなものが入り混じった空気で満たされていた。そして、目と鼻の先には見知った男の人の顔があった。
「おお、ユア。まったく死んだかと思ったぜ」
白馬の王子様……とは少し違ったけど、すごく頼りになる人。心底ほっとした様子のシュウさんが、わたしの上に馬乗りになって……ええ!?
「わ、わ……ちょっと、その、な、なにを」
一瞬にして取り乱してしまったわたしは、両手を前に出して両手でガードする。シュウさんは不思議そうに覗き込んだ後、立ち上がって言った。
「元気そうじゃないか。俺がピンピンしてるんだから、平気だとは思ったけど」
そうだ、あの時。フェアリーさんを守るために身を投げ出したときに、かなり深い傷を負ったところをグミさんが必死に治してくれたんだ。シュウ
さんも不意打ちで気絶させられたのに、それらしい傷がないところを見ると、一緒に治してもらったみたいだ。それがなかったら、今頃は立ち上がるのも難し
かったかもしれない。でも、せめてわたしのほうが先に起きてたらよかったのに。
熱くなった頬を両手で押さえながら、シュウさんの顔を見る。今はグミさんもレフェルさんもいない、あのときと同じ二人きりだ。
(姉さん、あたいもいるよ)
ざわついていた胸がおおかみに睨まれておさまる。忘れてたわけではないけど、少し残念で少し安心した。
「そういえば」
思い出したようにシュウさんが切り出し、そこで言葉を切る。なにか言いにくいことでもあるのだろうか?
わたしは思い当たりそうなことをいろいろと思い浮かべるものの、まだ少し混乱してる頭じゃ何も思いつかなかった。おとなしく、続きを待つことにする。
「ここは、何なんだろうな。それとこの人たちは誰なんだろうな」
ここは牢屋だと思うけど……この人たち?
「女が落ちてくるなんて、初めて見たぜ。いいものも見れた」
低くすれた声が部屋の隅から聞こえて、そちらへと目をやる。薄暗い角っこには灰色のボロをまとった人がニヤニヤと笑っていた。てことはさっき
のやりとりも見られてたってこと…? 動揺してたことを思い出して、また動揺してしまう。
「あの、どちら様でしょうか……」
その人に気づく前にも壁沿いに何人かの人が寄りかかってるのがわかる。それぞれ、魔術師風の男だったり、鎧を着ていたり、隅の人のようにボロ
をまとってる人もいた。顔つきも髪型もてんでばらばらだったけど、その目には普通の人にはないような何か宿ってるように見えた。
例の男は声だけでニヤニヤしながら、わたしの質問に質問で返してきた。
「それは俺に言ってるのかい? それとも、ここにいる死に損ない全員に言ってるのか?」
死に損ない。そう呼ばれた人たちは一斉に隅っこの方に目をやり、ふっと興味を失った様子で元の位置に視線を戻す。わたしはその行動が何を意味するのか理
解できずに、シュウさんの顔をうかがうだけだった。
「クク、名乗るほどのものじゃない。それに同じ場所に入るがこいつらの名前だって知らない。そもそも、そんなものは必要ないんだ」
男はわたしの取る反応をはじめから読んでいたらしく、わずかにからかっているようでもあった。でも、名前を知らない、必要ないってどういうことだろう。
お互いに興味がないってことにしては、少しおかしい気がする。それはシュウさんも同意見だったらしく、わたしに続いて口を開いた。
「名前も知らないって、じゃあここにいるのは俺たちも含めてどういう関係なんだ?」
そうだ、言われてみればいつの間にかわたしたちもこの檻の住人になっていたんだった。狭い監獄の中には八人の人影があり、わたしとシュウさんを含めれば
ちょうど10人が狭い空間を共有していた。
男はさっきと同じように声を殺して笑い、言った。
「お前たちも含めてか、面白いこというな。なぁ、少年。カーゴレースって知ってるか?」
カーゴレース。わたしはその単語を知らないけれど、シュウさんは心当たりがあるようだった。
「金持ちがやってる道楽だろ? 確かモンスターを捕まえてきて、競争させるっていう……」
モンスターを競争させる? どういう意味だろう。魔物は人のことを見つけたら、なつく事など皆無で襲い掛かってくるというのに。
わたしの疑問はさておき、おしゃべりな男はニヤニヤ笑いを崩さないまま話を続けた。
「ちょっと違うがおおむねそんな感じだ。正確に言うと、捕まえてくるのはワイルドカーゴつうモンスターの子供で、そいつを育ててレースに使う。野生のカー
ゴなんてやつは凶暴で人間だって頭からバリバリ食っちまうからな、レースには使えねえんだ」
シュウさんはそこまで知らなかったらしく、真剣に男の話にうなづいていた。男もどこか楽しそうに話を続ける。
「人間としゃべるなんて久々だから、なんか楽しくなっちまうな。それで、そのしつけたワイルドカーゴにだな……レースをさせて、その順位を予想するんだ
よ。そして、見事その順位を的中させたら勝ち。一位と二位を予想するのと、上位三つの順位を想像するのがあるが、大体そんな感じだ」
「それで、勝ったらどうなるんだ?」
いつの間にか男のすぐそばまで行って聞き入ってるシュウさん。男は今にもくっついてきそうなシュウさんを制止するよう両手を見せて、とどめる。
「まぁ、そうあせりなさんな。その前にゲームのシステムを知らないとならねえ。このレースは定期的に行われて、参加するカーゴの情報とかも事前にいろいろ
わかるんだ。だから、それを予想して……こいつはキテる。そう思ったやつに……」
「そう思ったやつに……?」
もったいぶる男に、今にも食いつかんばかりに目を輝かせながら迫るシュウさん。男もそろそろ頃合だと思ったらしく、いっそう楽しそうに言った。
「金を賭けるんだ。そうやって、たくさんの金が集まり、勝ったやつに集めた金を分配する。俺たちが一生かけても稼げないような額をな」
あまりの驚きにシュウさんは目も口も大きく開いたまま、考えをまとめているようだったけど、すぐに興奮した面持ちでありのままの感想を口にした。
「す、すげえ……そんなこと思いついたヤツは天才だな」
「だよな!? こいつらとは違って、お前とは気が合いそうだ」
二人は手を取り合って喜んでいる。わたしにぜんぜん理解できないけど、二人にとってはそれはとても大切なことだったらしい。勝ったらって、負けちゃった
らどうするつもりなんだろう。何がいいのかまったくわからない。男の人にしかわからないことなんだろうか。
話にまるでついていけないわたしは、談笑している二人に向かって、なんとか聞こえるくらいの声で言った。
「あの……話の腰を折るようで申し訳ないんですけど、そのカーゴレースとわたしたちってどんな関係があるんでしょうか?」
「あ、そうだったな。レースはすげえ熱そうだが、その答えを聞いてない」
やっと我を取り戻してくれたシュウさんが、冷静に言う。男はそれを聞いてさらにおかしそうに笑った後、声を潜めてわたしたちにこう告げた。
「要するに、俺たちはカーゴなんだよ。やるのはレースじゃなくて、殺し合いだけどな」
「え……」
意味はわかるはずなのに、理解できない。頭がそれを理解することを拒否していた。わたしたち、いや、ここにいる全員がカーゴ?
いや、わたしたちはモンスターじゃない。それが命を奪い合う?
言葉を失ったわたしは視線だけでシュウさんに助けを求めるが、シュウさんは何も口にしないままただ強い目で考え込んでいた。しかし、男は急にしんとなっ
たシュウさんを見て、なおも話を続ける。
「なんだ知らないでこんなところに来ちまったのか?
災難だったな。実は昨日の戦いで、欠員が二人出てなあ。その代わりがお前たちってわけだ。覚悟を決めるんだな、クククク……」
押し殺した笑い声だけが、狭い空間に響き渡る。不快感と絶望が部屋を満たしていた。あまりにも情報が少なすぎるこの部屋の中でたったひとつだけわかるこ
とがあった。そう、まず生きてこの部屋を出ることはできないのではないかという漠然としている、しかしほぼ確信めいた事実だった。
「シュウ……さん」
苦し紛れにシュウさんのほうを見る。ぎゅっと握り締めたこぶしは小刻みに震えていた。怖いのかもしれない、きっとそうだ。わたしだって怖い。けど、シュ
ウさんの口から出た言葉は弱音でも絶望でもなく、強い強い意志だった。
「ユア、絶対にここから脱出するぞ……こんなところで終わってたまるか」
握ったこぶしから、汗が滴り落ちる。シュウさんは覚悟を決めていたんだ。死ぬ覚悟ではなく、生き抜く覚悟を。
わたしは逃げそうになる自分をなんとか奮い立たせて、確固とした答えを返す。
「はい、絶対に」
「クク……ハハハハハ、みんな最初はそういうんだよな」
部屋にはさっきの押し殺した笑いとは違い、はっきりと乾いた笑いが響き渡る。でも、そんなことで挫けるような決意ではなかった。一度は捨てた人生……で
も、もう二度と放り出したりしない。
「わたし、守りますから」
誰を、何をとは口にしなくてもシュウさんはああと小さく、はっきりとわかるように頷く。
わたしは、わたし自身のためじゃなく、守りたい人のために生きるんだ。戦うことしか、殺すことしか能がないわたしでも役に立てるのなら。
わたしは唯一の武器を腰に下げたまま握り、短く祈る。もし神様がいるのなら、今度だけはお慈悲をと。
続く