青き糸を紡ぐ銀の月。本来なら夜空にただひとつ存在するはずのそれは、己が身を4つの 小さな分身に宿し、幻想的に輝いていた。
 光を拒絶したかのような黒き樹木。本来なら日の光を浴びて大きく育つはずのそれは、暖かな陽光のかわりに凍りつくような冷たい闇を受け入れ、そびえてい た。
 そして俺は……俺たちは、地獄に垂らされた一本の蜘蛛糸にすがる囚人のように、一歩踏み違えば地獄に真っ逆さまの糸を、指先と粗野な黒鉄だけで進んでい た。
 だが、神話と違うところもいくつかある。俺たちがまだ死んではいないこと。俺が他を蹴り落としてでも這い上がろうとしているのではなく、逆に二人を抱え て極楽へ行こうとしていること。そして、蜘蛛の糸を下ろしているのは俺自身だということだ。
 じわりと染み出した汗が、額から襟元へと伝う。状況的に言うと冷や汗というのが正しいのかもしれないが、それ以上に全身にかかる負担による汗のほうが多 い気がする。
「……ぐっ」
 奥歯をかみ締めて、重さに耐える。グミ、ユア共に大柄なほうではないが、それでも二人分の体重は十分に俺自身の体重をオーバーしている。しかも、それだ けならまだしも俺の全員の体重を支えているのは、安定した足場とかそういうものではなく、都合4つの拳銃なのだった。いかに滑りにくいグリップといえど も、片手に二丁は無理がありすぎた。
 だが、予想通りにいったところもある。まだ二、三度しか試してなかったクレセントの応用技が無事成功したこと、またここまでまだサル達にはばれていない ということだ。なにより、本来飛んでいく月を固定して、精神力を逆に作用させることで自分自身を宙へと投げ出すなんてことが成功しただけでも感謝したほう がいい。
 俺は滴り落ちる汗もそのままに、全身の神経を4つの月へと結びつける。この重さは物理的な重さだけじゃない。俺がミスれば二人の命も同時にジエンドなん だ。ミスは許されない。
 改めて無理な状況で握られている指に力をこめる。骨のきしむ音と間接が悲鳴を上げる音が痛々しく響いた。そんな極限状態の中、胸元から声がする。
「シュウ……私たち飛んでるよ!」
 今俺を苦しめている要素のひとつ、グミだった。抱きついているというよりもしがみついているという表現がしっくり来る。 暖かな体温も、あらゆる感触も 味わってる余裕なんてない。
 俺の身体状況をいまいち理解してないのか、グミに対して多少苛立ちながらも押し殺した声で言う。
「わかってる。ていうか、気づかれるからしゃべるな」
 少しきつい口調にグミはむすっとするが、構ってられるほど余裕はない。というより察してくれ。副作用は怖いがブーストの一発でももらっておけばよかった と多少後悔する。
 なにしろ俺の想いとは裏腹にワイヤーは遅々として進まず、俺の体力だけが急激に消耗していたからだった。しかも、傷とかそういうのではなくたんなる疲労 だからヒールやなんかも大して功はなさないだろう。あと何秒……いや何分か? この拷問のような状態に耐えなければならないのだろうか。
 ふと、下を眺めてみる。大混乱、狂騒。血色の悪い紫色の皮膚をした猿がそれぞれ思い思いのことをやっている。爆発があった方向にとりあえず突っ込む者、 逃げ惑う者、わけもわからず大勢に従う者、何をすればよいのかわからずに立ち尽くす者………なんだ、人間と大して変わらないじゃないか。予想通り、こいつ らは完全に統制されつくされているわけではないようだった。なんの感情もなく、命令されたままにあらゆることをやってのける集団でなくてよかった。
 だが、その一瞬の油断が命取りになりつつあることに今やっと気づく。あごに大粒の汗がたまっていて、今にも落ちそうな状態にあったのだった。この汗の粒 が下にいる猿の頭にでも落っこちたらどうなるだろう。雨かと思って上を向かれたらどうなるだろう。空中をゆっくりと自分たちの本拠地へと進んでる物体が目 に映る。次に思うことは、脊髄から直接筋肉へと最速のルートで撃墜指令が送られるだろう。
「………ッ!」
 クソっ、落ちるな。首元へ流れるんだ。こんなことで終わりたくない!
 しかし、無常にも汗の粒はじわじわと体積と重さを増していく。俺のあごにぶら下がってられる時間もほとんど残されていないはずだ。数センチが何十キロに も感じられるとはこのことだった。
 絶体絶命の状況と思われたが、ギリギリの状況で背中にかかる重みに気づく。そうだ、ユアに拭いてもらえばいいんだ。
「ユア、汗を拭いてくれ……」
 下のやつらには聞こえないように、できるだけ小さな声で言う。聞こえたかどうかはわからないが、聞こえていることを祈るしかない。もぞもぞと背中で何か が動く感触があったは俺が口を開いたすぐ後だった。
「えっと、ここですか?」
 緊張感のない声で俺の汗を拭いてくれるユア。それもどこから出したのか雑巾で。もうこの際ハンカチがいいとかわがままを言ってる場合じゃないが、汗を拭 いてほしいのは額でも顔でもない。これなんてイジメ……。
 俺は顔面に雑巾を押し当てられながらも、必死で意思を伝えようとする。
「ほうじゃなくて、はご!」
 間抜けでもなんでもいい、わかってくれ。伝わってくれよ……!
「はご……? あ、わかりました!」
 そこで俺の願いが届いたらしく、汚い布切れが顔面からあごへと移動する。ほんの数秒の出来事だったが、本当に命がけの伝言ゲームだった。しかし、ゲーム はまだ終わってなかったらしく、汗による危機とは別にもうひとつの事態が進行していた。
「わっ、なにこれ! きたなっ」
 俺の顔のすぐ下にあったグミの頭に雑巾がいっていたのだった。驚きと嫌悪から、イヤイヤと頭を振るグミ。不安定な俺の体がバランスを保つことを難しくす る。そして、大きな揺れによって思わずユアの手から雑巾が離れる。支えを失った雑巾の行方はというと、間違いなくサル達の上だ!
「グミ! その雑巾をキャッチしろ!」
 落ちたら、俺たちの存在がばれるなんて説明している暇はない。とにかく行動だけを指示するだけで精一杯だった。落ちる木の葉のようにゆらゆらと舞う薄汚 れた布切れ。グミは汚いだけでなくおまけに俺の汗まで染み付いたそれに触れることを一瞬ためらい、その一瞬で手の届かない距離までいってしまった。
「あ……」
 手遅れを知らせるその声に俺の全身も弛緩して落っこちそうになる。希望が絶望に変わる瞬間、天使ではなく悪魔的外見をした何かが、宙を舞う雑巾をつかん だ。
「我をこんなことに使うな」
「だって汚いんだもん」
 不機嫌な声で話すそれはレフェル。手で触るのはいやだったが、レフェルならいいやと考えたようだった。レフェルにはなんとも申し訳ないが、感謝するしか ない。
 まぁ、とりあえず九死に一生を得た訳だが、俺の地獄はまだまだ続く。さっきよりは近づいたといえども、あと5メートルはある。途中でスキルを解除して飛 び降りるとしても、あと2メートルの地点までは近づいておきたい。
 すでに限界近くまで放出していた精神力を更に上乗せする形で月へと送る。体だけでなく頭まで悲鳴を上げ始めたが、さっきよりもワイヤーを巻き取る速さは あがったようだ。俺は痛みを無視して、二人に次の動作を伝える。
「あと3メートルほど進んだところでスキルを解除する。その瞬間に、あの入り口に……飛び込んでくれ!」
 そう、あとほんの数メートルなんだ。ここさえ乗り切れば、休める。すぐに体力なんて全快だ。
 だが、俺に返ってきた返事は肯定の意を示すものではなく全く別のものだった。
「シュウさん、下を見てくださいっ!」
「ん……?」
 言われたままに視線を下に落とすと、一匹の猿が俺のほうを向いていた。なぜ? なんのミスもしていないはずなのに。このままだと俺たちは……やばい、なんとかしないと。でもどうやって?
 いろんな思いが頭の中をを駆け巡り、負荷に耐え切れずフリーズする。理由はわからないが、気づかれた。それすなわち即、死に直結する。恐怖も諦めも考え る間もなく、俺の思考回路は凍結してしまった。
 そのときだった。俺よりも重厚で低い、声が指揮を買って出てくれた。
「グミ、やつを仕留めるんだ! 遠慮はいらん、一撃で頭を潰せ」
「わ、わかった」
 なにも考えることができなかった俺の前を、鎖つきの鉄球が風をうならせながら飛んでいく。わずかにカーブを描きながら飛んでいった凶器は、偶然俺たちに 気づいた猿の頭を直撃し、中の頭蓋を粉々に砕く。断末魔はあがらなかった。
「ユア! 脳漿を浴びた隣の猿を刺し殺せ」
 空中を旋回したまま、非情な指示を出し続ける鈍器。俺のような作戦ではなく、単純な暴力でねじ伏せる指揮官は、グミに頭の上がらなくなってきたあのレ フェルだった。
 遠距離攻撃など持たないと思っていたユアだったが、懐から取り出したフォークを豪速で投擲し、首元の肉をステーキでも刺すように抉る。猿は何が起こった かわからずに、仲間の残骸をかぶったまま停止した。
 そこまで経って、ようやく目の前で繰り広げられた早業を理解できるまでに思考が回復する。知覚が戻ってから、初めて耳に入った声は重く無感情なものだ。
「危なかったな」
 声は胸の辺り、そう、いつの間にか竜の牙に収まっていたレフェルの本体である鉄球からだった。ここ最近はグミに頭が上がらなくて、ちょっと抜けているイ メージを持っていたが、ついさっき見せた表情は全く別のものだった。それは冷酷だとか残酷だとかいう言葉が陳腐に見えるほど、あまりに事務的でただ作業を こなすことを命令しただけだった。明確な指示にもかかわらず、どこか人間離れした選択が、鉄球の黒さをさらに濃くし、底知れぬ闇を湛えているように見え た。
「シュウ、そろそろいいんじゃない?」
 胸元、だがレフェルのそれとは違った甲高い声が聞こえる。そろそろ何がいいんだと問い返す前に、自分の目前に迫る黒い樹皮が目に入った。どうやら、感情 をどこか欠損しつつも、ワイヤーに送る精神力は無意識のうちに続けていたらしい。完全にレフェルに救われる形になったのが少し悔しいが、知らず知らずのう ちに目的ははすべて達成する形になった。
「スキル、解除するぞ。せーのっ!」
 俺はグミの質問には答えずに、そのまま落下指令をだす。今までここまで俺たちを引き寄せてくれた月は引力をなくし、音もなく無に返す。当然俺たちを支え てくれていたものはなくなるものの、最後の気力で引き寄せた助走のようなもので、わずかに前方に進みながら落ちていっていた。
 そして、俺にしがみついていた二人は、まずユアが俺たちを前に押し出すように飛翔し、ギリギリの位置から入り口へと侵入、すぐに内壁へとへばりつく形で 身を潜める。一気に体が軽くなったように感じる。
 次はグミの番だったが、ここからがまずかった。グミは飛び降りようとしたものの、意外と高いことにいまさら気づき、身を硬くしていった。
「高い……」
 確かに、普通ならここから飛び降りたりはしない。ユアだからこそ、あそこまで華麗に着地したものの、グミだったら骨とか折るかもしれないな。ユアが降り たことと、グラビティを解除したことで一気に身軽になった俺は銃を袖の奥へと強引に押し込み、グミを抱きしめるようにしてしっかりと支える。
「ちょっと揺れるけど、勘弁してくれよな」
 胸の中でグミが頷くのがわかる。俺はこちらへと渡ることに精一杯だったが、今にも落ちそうな橋を強制的に渡らせられていた二人はもっと不安だったことだ ろう。俺はグミを抱きかかえた体勢のまま、細心の注意を払って入り口の中に着地した。そして、しびれる足に無理やり言うことを聞かせ、ユアが身を翻した方 向とは逆の方向へと、しっかり体を押し付けるようにして身を隠す。
「ごめんな、怖い目に遭わせて」
 全身を襲う疲労感の中、最初に口にした言葉がこれだった。返す言葉はないが、今まで気づけなかった体温がそこにあるだけで十分だった。
「シュウ、私……」
 グミがなにか言いかけたところで、背中に差すような視線を感じて振り返る。その気配だけで、味方ではないことがすぐにわかった。
「お前たち、何者だ」
 目の前の異形の生物は、幼女のような声で俺たちに問うた。悪趣味な人間が少女と蛾を足して二で割ったような存在。だが、その薄い羽も少し不恰好な触覚も 違和感なく収まっているのがなんとも言えない。これを見て、誰が名づけたのかは知らない。だが、その人はこの異形な魔物を見て妖精、フェアリーだと名づけ たらしい。
 ともかく、そのフェアリーを前にして俺たちはただの侵入者でしかなかった。上手い言い訳など、すぐに思いつくはずもなく、成功したかのように見えた俺の 作戦は、見事に崩れ去った。
続く
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