「……ひぃ!」
額から伝う冷たい汗。全身の血が抜かれたように蒼白になっている。暖かい闇の中で周囲を見渡してみると、そこは紛れもなくアッシュさんの屋敷で、隣には
グミさんがすやすや眠っていた。
わたしは今の様子を誰にも見られなかったことを安心して、ほっと一息つく。何で今になってこんな夢を見るんだろう。紛れもない悪夢だった。夢の内容は
はっきり覚えていて、ふかふかのブランケットの中なのに身体の震えが止まらない。
漆黒の闇、格子から覗く銀の月。冷たい床、凍える寒さの中で身を丸くして眠る。
慰めてくれる人も、手を差し伸べてくれる人もいない。
耐え切れないほどの空腹。一日一食あるかないかの食事。
残飯でもペットのえさでも一粒残さず食べた。
薄汚れた身体、口に滲む鉄の味。断ち切れぬ鋼の鎖。
最初から逃げ出すことなんて出来ないと思っていた。でも……わたしはここにいる。
今考えてみれば、その日々は地獄だったのかもしれない。でも、あのときはそれが当たり前で、生きているだけで幸せだった。今の夢は幸せすぎるわたしへの
罰だったのかもしれない。
深呼吸を繰り返して、乱れた呼吸を整えようとするけれどなかなか上手くいかない。戦ってるときはどんなに激しく動いたって平気なのに……。
(姉さん、あの時の夢を見たのかい?)
おおかみはわたしの見た夢を察してくれたらしい。わたしは黙ってうなづき、おおかみの声に耳を傾ける。
(そんなものは忘れちまうのが一番だよ。ほら、それにあの青頭見てごらん)
いわれたまま暗闇のなかでも次第に慣れてきた目をシュウさんの気配がする方に向ける。そうだ、シュウさん、ほんとはこのベッドで寝るはずだったのに…ご
めんなさい。
「いいってことよ。ぐーがー」
まさか心の中で言ったごめんなさいに返事が来るなんて思ってなかったけど、いびきか……器用な人だなぁ。
(ほら、震えが止まってるよ)
「あ…」
思わず声が漏れる。二人の寝顔を見てるだけで、心を締め付けていた悪い夢が消え去っていた。氷のように冷え切っていた身体も、温まっていた。わたしは幸
せを噛み締めながら、顔までブランケットを被る。とても満たされた気分だった。胸の中ですべての大切な人にありがとうと告げる。ありがとう、ありがと
う……何度繰り返しても足りない気がした。
それから数分もしないうちに気持ちのいい温度に包まれて、次第にまどろんできたそのときだった。
部屋の外からドアノブを握る音が聞こえてきた。普通なら気づかないような些細な音でも、暗闇の中研ぎ澄まされたわたしの五感なら察知できる。ドアの前
立っているのは人間、二本足で立ってるからすぐにわかる。
ドアノブが音を立てないようにゆっくりと周り、必要最小限の音だけを立てながらドアが開く。ドアの向こうは、一寸先も見えない闇の世界。明かりをつけな
いのは……もしかすると、わたしたちの寝込みを襲おうとしてるのかもしれない。
人間は闇にまぎれながら、徹底した無音でカーペットの上を進んでくる。足音を立てない歩き方を心得てるなんて、並の人じゃない……!
(姉さん、やばいよ。なにか武器を!)
わかってる。でも、ニフルヘイムはベッドにないし、レフェルさんもどこにいっちゃったのやら……。ナイフもないし、素手でも普通の人なら負けはしないと
思うけど、もし相手が手練れだったら最悪の場合おおかみになって倒すしかない。
(気配も最小限に殺してる……代わるかい?)
おおかみが変化を促す。頭の中でめくるめく考えが現れては消え、その間も人間は迫ってきていた。おおかみに……。そこまで言おうとした直前、人間の姿は
瞬時に掻き消えわたしのすぐそばに移動していた。
「きゃ」
我を忘れ、思わず悲鳴を上げそうになったところを人間に口を塞がれる。
どうして? 眠ってるシュウさんやグミさんよりも、わたしなの……!? わたしが、わたしがなにをしたっていうの? これが……生まれてきたことへの
罰……なの?
半ばパニックになって、口を塞がれた手を払いのけようと必死になる。いつもならどうにでも出来た状況なのに、心が乱れて最善の選択が出来ない。いやだ、
いやだという思いばかりが加速して、思考を完全に狂わせていた。
人間の右手が、人差し指を立てた状態でわたしの前に指される。やられる……! 目をつぶろうとした瞬間、指の主はシーッとわかりやすいポーズで騒がない
ように注意した。その直後、指先に小さな炎がともり、その人の顔が明らかになる。炎に照らされた金髪碧眼が燃え盛っているように見えた。
「ユア氏、グミ氏やシュウが起きるだろう?」
「アッヒュしゃん…」
塞がれた口のままだったので、変な発音になってしまったけど、その人はこの屋敷の主であるアッシュさんだった。極限まで張り詰めていた緊張の糸が、小気
味のいい音を立てて切れる。
ようやく、手を放してくれたアッシュさんは、出来るだけ小さな声でわたしに囁いた。
「驚かせてすまない。ユア氏に特別な用があってな。二人に気づかれないように、こっそり私の部屋まで来ていただけないだろうか」
わたしに用事ってなんのことだろう。心当たりはまるでなかったけど、こんな夜中にわざわざ忍び込んでくるなんて、余程大切な用事なんだろう。わたしは、
頷いてグミさんを起こさないようにそっとベッドを抜け出した。
「むにゃむにゃ」
グミさんの声が聞こえて一瞬振り返るものの、寝言だった。一応注意してみたけど、これじゃ揺すっても起きないかもしれない。
「こっちだ」
アッシュさんに言われるまま、後をつけていく。アッシュさんの指先には明かりがあるものの、暗い洋館の中を歩くのはやっぱり心細いし、怖い。ほんの小さ
な物音にも身体が過敏に反応してしまう。グミさんだったら、五秒と持たず逃げ出してしまうだろう。
「この部屋へ」
アッシュさんが指差した方向には、隙間から光が漏れるドアがあった。わたしたちの部屋とはちょうど反対側だから、扉を閉め切ればグミさんたちまで話し声
は届かない。
わたしは言われるまま、アッシュさんの部屋に入る。ランプの明かりがまぶしくて、つい目をつぶってしまったけど、だんだんと光に慣れて部屋の中が見えて
くる。大きな勉強机と、よくわからない文字で書かれた大量の本。普通のベッド。それ以外は特に特徴のない書斎みたいな感じの部屋だった。
「夜分遅く、わざわざありがとう。ほこりっぽいだろうが、少し我慢して欲しい」
今は灰色ではない真っ黒なローブをまとっていたアッシュさんだったけど、深く被っていたフードを下ろして金の髪を解き放つ。それにしても、一体全体なん
の用事なのだろう。他にもいろいろきになることはあったけれど、今はそれが一番知りたかった。
「アッシュさん、わたしに用事ってなんでしょう?」
率直に聞いてみる。するとアッシュさんはベッドのほうへと歩き、そのままシーツの上へと座った。
「こっちに……来てくれ」
「え……?」
どういう意味だろう。足を組んだアッシュさんは、いつもよりもどこかやわらかい表情でわたしを手招きしている。戸惑った様子もなんだか妖しい。
(こ、これは姉さん。なんか危ない感じがするよ!)
滅多に焦らないおおかみが、今日は二回も焦ってる。なんだろう、わたしは手招きされるままアッシュさんの前へと歩く。すると、アッシュさんは満足そうに
頷き、隣に腰掛けるように目で指示した。言われるまま、ベッドの空いたスペースへ座る。
「ありがとう。それじゃ、次はわたしがいいというまで目をつぶってくれ」
どうしてという疑問はあったものの、言われるまま目をつぶる。すると、アッシュさんはゴソゴソとなにかをし始めた。どことなく衣擦れの音も聞こえる。な
にをしてるんだろう。おおかみが最大音量でアラームを鳴らしているけど、術にでもかけられたように身体が動かなかった。
「ユア氏……」
わたしの名を呼ぶ声が聞こえる。アッシュさんの手がわたしに触れて、そのまま………なんだか重たいものがわたしの手に乗せられた。ひんやりと冷たくて、
鎖?
「目を開けていいぞ」
恐る恐るまぶたを上げると、両手の上には大きくて重い箱のようなものが置いてあった。もしかしたら、アブノーアルなことを強要されるんじゃないかと不安
だったけど、そんなことは一切ないみたいで安心する。
「こ、これは何…?」
わたしは手に置かれたモノを見て言う。何でできているのかはわからないけれど、箱は黒くて上品な色形をしていて、それを無骨な鎖でがんじがらめに縛られ
ていた。これだけ頑丈に縛られてると、開けようにも簡単にはあけられそうにもない。
アッシュさんは、戸惑ってるわたしの目を覗き込んで言った。
「我が家の秘宝であり、悪魔退治の切り札だ。これを使って、錠を外してくれ」
そう言うと、アッシュさんは金色の小さなカギをわたしに手渡してくれる。言われるままに錠前に差し込んでひねると、簡単に錠が外れた。ぐるぐる巻かれた
鎖を解きながら、カギと錠の関係についてあることを思う。華奢で簡単にへし折れてしまいそうなカギなのに、こんなに強い鎖を断ち切ってしまうなんてまるで
グミさんたちみたいだと。
鎖がようやくすべて取り除かれる。黒い箱はあまりにきつく縛られたためか、ところどころえぐれてしまって、痛々しい形になっていた。わたしは、そこまで
して封じられていたものの正体に怯えながらも、箱の蓋に手をかける。その時、蓋越しに中のものの鼓動が伝わってくるような気がした。ニフルヘイムのときと
よく似た感触。わたしは意を決して、蓋を開けた。
「これは……剣?」
箱の中に納まっていたのは、神々しい銀光を放つ刃。長剣というほどの長さはないが、極限までに磨かれた刀身はわたしの顔を余すところなく映している。柄
の装飾には前面に片翼を広げた黒竜が象られ、その片目には血のように紅い宝石が何かを見据えていた。
「手にとってみてくれ。振ってみないとわからないものもあるだろう」
わたしは頷いて、吸い寄せられるように柄に手をかける。握りの部分はあまり大きくないわたしの手にもよくなじみ、片手でも十分振るえそうな感じがした。
でも、そのまま持ち上げてみようとすると、若干重く、両手を添えることが必要なのがわかった。
「よいしょ……っ」
ニフルヘイムと比べれば全然小さいのに、なんて重さだろう。手にとって見てはじめてわかったことは、この剣は長さに会わない程の肉厚な刃を持っていて、
同じサイズの剣の倍以上の重さがあるということだった。これだけ重ければ、力がなくても相手をやすやすと切り裂くことができるに違いない。
わたしは構えた剣を、逆袈裟に振り上げ、そしてその重さを利用して斜めに空を切る。ぶわんという轟音と共に、部屋に満たされた空気が震えた。
「非力な魔導師のために作られた最高の失敗作。その重さは重力を制す魔法すらも無に還し、それを振るう者は皆無だった。悪魔を退くために生まれた魔剣『ナ
イトメアスレイヤー』……その剣の名だ」
「ナイトメア……スレイヤー」
アッシュさんが口にした単語を、もう一度繰り返す。ルビーの瞳が妖しく光った。
「魔力を持たないものは持つことすらかなわぬ。しかし、魔力を持つものには重すぎた……それをユア氏、あなたは兼ね備えていたんだ。ぜひとも今回の任務に
役立ててほしい」
突然のことできょとんとしてしまっていたわたしは、ようやくアッシュさんの言葉を理解する。アッシュさんはこの宝剣をわたしに使えというのだ。そんなに
大切なものを、わたしなんかに使えなんて……。
「でも、これは大切なものでは……」
自分では決めきれずにそんな言葉を漏らす。するとアッシュさんは、誰に言うまでもなく独り言のように言った。
「持っていたところで使えないのならば、宝の持ち腐れだ。それに、夜行の森で思ったのだ。アンデットには槍より刀のほうが有効だと。やつらは痛みを恐れな
い。ならば、行動を封じるには……わかるな?」
「頭と胴体を切り離せばいい」
わたしの中のおおかみと口をそろえて言う。その答えにアッシュさんは満足気に言った。
「実に物分りがいい。そう、悪夢殺しは死者を裁くための斬首刀だ。死を感じる間もなく、切り伏せよ」
わたしはもう一度、大きく振りかぶってナイトメアを振り下ろす。これならゾンビだけじゃなく、鋼鉄さえも両断できる。力だけが取得のわたしも頑張れる。
役に立てるんだ。
「アッシュさん、ありがとうございます」
わたしは身体をくの字に曲げてお辞儀をし、礼を言う。それを見たアッシュさんは、わたしの肩に手を置いていった。
「礼を言いたいのは私の方だ。今度の任務、ひときわユア氏には期待している。もちろん、グミ氏にも、あの少年にもだ。そうだ、これをあの少年に渡してはく
れないか?」
言い終えたアッシュさんは、小さな袋をわたしに手渡して、更に言った。
「シュウ氏には悪いが、寝ている間に12発ほど銃弾を拝借させてもらった。代わりにレイラ様にじきじきに祝福していただいた『聖鋼弾』を用意した。全部で
12発、無駄使いはするなよと言って置いてくれ」
わたしは受け取った銃弾をポケットに、ナイトメアを鞘に収めて腰に下げて言った。
「わかりました。本当にありがとうございます」
「こちらこそありがとう。明日は早い。少しでもお互い体を休めよう」
わたしはその返事を微笑で返し、部屋を後にした。
戦いの朝は……近い。そして、わたしはわたしの悪夢を斬り殺す。
続く