景色はめまぐるしく移り変わり、風は私の髪を撫でるように通り過ぎていく。そして、私 はそこから振り落とされないように、しっかりと両手を彼の首に回す。
 彼は……シュウは、私のことをどう思ってるのだろう。足手まといだとは本気で思っていないのかな。それとも、私を傷つけまいとしてくれてるのだろうか。
 想いは自在に形を変えて、心のキャンパスをさまざまな色に染め上げる。燃えるような激情の赤、悲壮感漂う青、おだやかに揺れる緑、心躍らせる黄色。
 でも、今の心の色はどうだろう。いろいろな感情が溢れ出して来て、抑えることが出来なくなってしまった。止まることのない感情の絵の具は、互いに主張し あって一歩も譲ることなく、滅茶苦茶な芸術を描き、そしてその上から不安や疑心が灰色のペンキで塗りつぶす。
 あまりにも複雑に混ざり合った心は、その重さに耐え切れずにぺしゃんこになってしまった。襲ってくる不安や情けなさに涙がとまらなかった。どうして、私 はこんなに弱いのだろう。誰かの手を借りなければ立ち上がることも出来ないなんて。
 私の中でぐるぐると同じところを回り続ける負のサイクルは休むことを知らずに、ずっと同じペースでゆっくりと下を目指していた。このまま行けば、きっと あっという間に底についてしまうだろう。もしかしたら、最初から底なんてものはないのかもしれないけど……。
 びゅんと風が前髪を吹き飛ばして、おでこを露にする。シュウがハシゴにジャンプして飛び乗ったのだった。その後もシュウはハシゴを一段飛ばしでするする と登っていく。あんなに走ってるのに息は全然あがっていない。私を背負ってなかったら、ハシゴなんて使わないでぴょんぴょん跳ねていってしまうんじゃない だろうかってくらい。
「あ……」
 思わず声に出して落胆してしまう。そう、私なんていなかったらシュウはどこへでも飛んでいけるんじゃないか。その復讐っていうのもすぐに終わらせて、カ ニングシティに帰れるのではないか。私なんて……このハシゴに足をかける勇気すらないのに。
 再度溢れそうになってきた涙をこぼさないよう、目をつぶった瞬間、身体がふわっと浮き上がる。また、シュウがジャンプしたらしい。木々の隙間掴まった シュウは、両腕の力を最大限に使って私ごと一階層上の枝まで連れて行く。コートの袖がまくれてそんなに太くないけど、しっかりとした手首がのぞいていた。
「なぁ、グミ?」
 走りながら、シュウが私に声をかける。私はできるだけ自分の胸のうちを悟られないように、ぞんざいに答える。
「なによ」
 シュウは話しながらもその足を止めることはない。もう少しで図書館も見えてくるところだと思う。背中越しに聞こえるシュウの声。
「さっきはごめんな……よくわかんねえけど」
 なんで謝るんだろう。シュウはなにもしてないのに。 
 さっきシュウが言いかけた言葉がよみがえる。
『お前は俺の……』
 答えははぐらかされたから聞いてないけど、私はシュウにとってなんだったんだろう。重荷でもお荷物でもないのなら……。
 シュウは私の思いを知ってか知らないか、優しく語り掛ける。
「今まではあんまりできなかったけど、これからはちゃんと守るから。死んでも守るから……だから、泣くなよ」
 泣くなといわれて、余計にじわっと涙が浮かんでくる。守って欲しいんじゃなくて、強くなりたいのに。でも、シュウの言葉は嬉しくて、余計に泣けた。私は 涙を見せないように、シュウにぎゅっとつかまる。
紅く火照った頬を首筋に押し当てる。一瞬だけど、シュウの身体がこばわった気がした。
「グミ、そのなんていうか、さっきからずっと……当たってるんだけど」
「えっ……!?」
 思わず手を離そうとするけれど、猛スピードで走るシュウから手を離したりしたら、頭から真っ逆さまに落ちてしまう……。仕方なく、イヤだけど……そのま まの体勢で、さっきより強くシュウにつかまる。もう、図書館も目と鼻の先だから許してあげてもいいよね?
 後ろからじゃシュウの表情は伺えないけど、どんな顔をしてるんだろう。いやらしい顔をしてるのかも、だったら後でこらしめてあげなきゃ。そのとき私はい つの間にか心がすっとあらわれていたことには気づかなかった。
「そろそろ着く……ってうわっ!!!」
 何かを見つけたシュウはとっさに急ブレーキをかけ、砂煙を撒き散らしながらもなんとか止まる。そのとき私はというと、しっかりシュウの頭にしがみついて い た。シュウのせいで舞い上がったホコリを吸って、思わず咳き込んでしまう。一体何を見つけたんだろうと、目を凝らしてみるもののシュウの首が邪魔してよく 見えない。
「シュウさん……?」
 シュウに付かず遅れずのスピードでつけてきていたユアさんが問いかける。だけど、シュウはそれに答えることはなく、シュウが急ブレーキをした理由だけが 先にわかった。
「少し遅いと思ってきてみたが、こんなところにいたのか」
 聞こえてきたのは少し落ち着いた女性の声。シュウの背中から降りてみると、そこには予想通り灰色のローブですっぽりと頭まで覆った魔法使い……アッシュ さんが立っていた。どうやら、いつになっても来ない私たちを心配して、きてくれたみたいだ。やっと、アッシュさんに会えたことでほっと安堵した。
「実はアッシュさんのお屋敷がどこにあるのか聞いてなくて……」
 私がそう告げると、アッシュさんははっとした表情になって、言った。
「すまん、言わなかったな。ここから数階層降りたところだ。案内するよ」
 その一言で、私はもう一度シュウの背中を借りることになったのは思い出したくない。
*
「ここが私の家だ。遠慮せずあがってくれ」
 アッシュさんはグミさんの二倍はありそうな大きな扉を難なく開き、わたしたちを手招きする。人の家に入って入れなんていうひとはいないだろうから、きっ とこれがアッシュさんのお屋敷で間違いないのだろう。でも、単に屋敷といっても、扉や屋根にも細かい装飾がしてあって、前のご主人様のお屋敷と同じくらい 大きくて立派なお屋敷だった。外側を見ただけで由緒あるお屋敷なのかなと思う。
 わたしはシュウさんとグミさんが先に入るのを見てから、最後に大きな扉をくぐる。アッシュさんは全員が入ったことを確認すると、ぎぃという音を立てなが ら扉を閉めていった。
「アッシュさんって、すごいお家に住んでるんですねー」
 広い廊下や、見事な調度品を見たグミさんは目をキラキラさせながら歓声を上げる。シュウさんは、大きなツボに触ろうとして、壊したら大変とグミさんにし かられていた。
「別に私の趣味ではないぞ。もともと両親と住んでいた屋敷だからな……」
 奥へ奥へと案内しながらも、どこか悲しそうな表情で答えるアッシュさん。そういえばさっきから、屋敷の中はしんとしてわたしたちの足音くらいしか聞こえ ない。以前のわたしみたいなメイドさんはいないのだろうか?
「今は一人で住んでるのか?」
 わたしと同じことを思ったのか、シュウさんがアッシュさんに尋ねる。アッシュさんは、歩きながら一言
「そうだ」とだけ言った。こんなに大きなお屋敷なのに、一人で住んでるなんて……どうしてだろう。どうして一人なのか聞こうか聞かないか悩んでいるうち に、アッシュさんが両開きのドアに手をかけていた。その瞬間、心地よく鼻孔をくすぐる香りが漂ってくる。扉を完全に開くと、そのいい匂いのもとが目に入っ てきた。
「こ、これは……」
「……じゅる」
 そこには広間に見合ったながーい机の端のほうだけに、なぜかこじんまりといろんな種類のごちそうが置いてあった。
 シュウさんの目はそれに釘付けになって、グミさんなんて無意識のうちによだれをたらしそうになっている。私はどんな顔をしてるのかわからないけれど、見 た目と匂いだけでも十分にわかる。あれは絶対においしい。いつの間にかフードを取ったアッシュさんは薄く頬を染めて言う。
「うちには雇い人はいないので、私の手料理だが……どうぞ、召し上がってくれ」
 ぐぅとおなかの虫が鳴いて、思わずおへその辺りを押さえる。わたしのなかのおおかみも、さっきから腹が減った腹が減ったと騒いでいたけど……そういえ ば、わたしたち、朝一番でこっちに来たから朝食はまだだったんだ。わたしたちは、アッシュさんの気持ちにお礼を言ってから、三人同時にまったく同じ言葉を 口にした。
「いっただきまーす!」
続く
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