カゼでもないのに頭がくらくらする。飛行船のときは大丈夫だったのに。私の生まれた島 から大陸にかけて隔てていた海をちゃんと乗り切ったのに。
「そぉーっ……」
 私はもう一度だけ、顔だけを突き出して本来足がつくべき場所をもう一度眺める。視線は何に遮られることもなく、真っ逆さまに地上へと届く。あれは人か な……? 指にはめる人形くらいの大きさしかない。人だけじゃなくて、お家も、木々も、あらゆるものが箱庭にある可愛いフィギュアみたいに見える。
『もし、落ちたら……』
 そんな考えが頭の裏側によぎり、その瞬間から全身が見えない何かに引っ張られるような感覚に襲われて、すぐに顔を引っ込める。背筋が冷たくなって、歯が カチカチなった。
「これは重度だな」
 背中越しに聞こえてきたのはシュウの声。慌ててなんともないフリをするけど、もうバレバレみたいだった。シュウは前に私が暗いところが苦手だってことを 知られたときと同じようにニヤニヤ笑う。苦手なのは仕方ないとわかっていても、シュウにバカにされるのはいや。そんな考えが頭の中でぐるぐる回って、何の 解決策も浮かばないまま顔だけが朱に染まっていく。
「シュウさんっ、誰にだって苦手なものはありますよ!」
 何かに怒るなんて滅多にないユアさんが、私をかばってくれている。それも細くて綺麗な声を荒あげながら……恐いっていうのとは少し違う気がするけど、こ れ以上やっちゃいけないといった気になるような言葉だった。
 シュウもユアさんに対しては私と同じ考えだったらしく、ニヤニヤ笑いをやめる。でも、そこはやっぱりシュウだったみたいで、次の作戦(もとい私への嫌が らせ)へとステップを移す。
「そうだな。でも、ここを降りなきゃゴールドマンはおろか、他のどこの町にだっていけないぜ?」
うぅ……認めたくないけどシュウの言ってることも間違ってない。でも、怖いものはどうしようもない……。
「えっと、それは……うーん」
 ユアさんも困った顔で考え込んでしまう。どうしたらいいんだろう、空を飛べる翼があったらいいのにと説に思い、すぐに頭を振る。……きっと、怖くて途中 で固まっちゃうかもしれない。そのとき自信ありげに口を開いたのは、またもシュウだった。
「そこで俺に考えがある。俺が先に一段下で待っててやるから、グミは下を見ないようにして降りて来い。最悪落ちても俺がキャッチしてやるよ」
 下を見ない。単純だけど、それだけに効果はあるのかもしれない。だってほら、ここに来たばっかりの時だって、こんなに高い場所だとは知らなかったから平 気だったし。
「お、落としたりしないでしょうね」
 いい作戦を考えてくれて嬉しいのとは裏腹に、私が口にするのは憎まれ口ばっかりだった。シュウは気にすることもなく、任せろと胸を叩く。強くたたきすぎ てむせてる辺りが、ものすごく不安だけど…。
「わたしはどうしたらいいですか……?」
 ユアさんはなにをしたらわからないといった感じでシュウに自分の役割を聞く。シュウもそれは考えてなかったらしく、首をわずかに傾けながらほんの少しだ け考える。
「ユアはそうだな、グミを勇気付けながら降りてきてくれ。高いところが怖いとかはないよな?」
「大丈夫です。わたし、もっと高いところから飛び降りたことありますから、平気です」
 よかった、これでもしユアさんもなんてことになったら、もっと大変なことになってただろう。でも、もっと高いところから飛び降りたことあるって一 体……。 しかし、シュウはさほど気にしなかったみたいだった。
「そいつは助かる。それじゃ、まずは俺がお手本を見せなきゃな」
 不安定な足場だということを気にすることもなく、強引にロープを引き寄せて木材に足をかけるシュウ。私はそんなのを見るだけで足が震えるって言うのに、 こいつは全く怖がっていないみたいだった。でも、私を更に驚かせたのはその後のシュウの動きだった。
「よっと」
 シュウはそれだけ言うと、ロープから手を放して飛び降りたのだ。シュウは瞬時にして重力に引っ張られて落下し、そして何事もなかったかのように一段下の 枝に着地する。結構な高さだったけど、足をバネのようにしてショックを吸収したらしく、足を痛めたりとかはしてないみたいだった。
 いきなりの暴走に度肝を抜かれている私たちを下から呼ぶ声が聞こえる。
「さっさと降りて来いよー!!」
 くぅ、人事だと思って……。私にあんな人間離れしたこと出来るはずないってわかってるくせに、わざとやってるに違いない。意地悪……。
「グミさん、私がついてますから」
私の両肩にひんやりと気持ちのいい手がかかる。そして、それにもれなくついてくるのが極上の微笑みと安心感だった。そうだ、シュウはシュウなんだから、私 は私なりにゆっくり降りていけばいい。
「うん!」
勇気付けてくれたユアさんに返事するのと同時に、自分を鼓舞する。下さえ見なければ、大丈夫だと。
 下を見ないように、下を見ないようにと念じながら靴越しに感じる感触だけを頼りに、下の段を踏みしめる。次の段へ進むときは足場がしっかりしてるかどう か確認してから、少しずつロープを掴む手をずらしていく。
「グミさん、その調子ですー」
 天から優しい天使が応援してくれている。それだけで普段の何倍も勇気が出る気がした。この調子で一段一段、ゆっくりだけど降りていけばきっと……。
「いやー実に壮観だねえ」
「えっ……?」
 奈落のそこから語りかけてきたのは青鬼。騙されちゃダメよ……私があんなバカなんかに騙されるわけない。絶対に下は見ちゃいけないんだから。
「うむ、今日は白か。実にいいのお……」
「……!?」
 私は顔がかあっと赤くなると同時に、覗き魔のことを睨み付ける。キャッチしてやるとか言っといて、そういう魂胆だったのね。
「この変態……ここから降りたらレフェルで顔の形がわかんなくなるくらいまで叩いて叩いて叩いてやるんだから……あ」
 しかし、私はここで重大なミスを犯したことに気付く。何度も見せ付けられた余裕の笑みと、嫌でも視界に飛び込んでくる硬い地面。そして、形を変えてぐる ぐると回りだす世界。
 落ちる。そう思ったときには既に落っこちていた。でも、来るべき死神の抱擁はなく、代わりににっくき青鬼に抱き支えられていた。
「ナイスキャッチだったろ?」
 まるで予想通りというように笑いをこらえている青鬼。私はその憎らしい顔を見て、また紅潮してしまった頬を隠すように、発作的に右拳を繰り出していた。
「鬼! 悪魔! ヘンタイ! ばか!」
 抱きかかえられながらも、罵声と共に連続してパンチを打つ。地面に足がついてないから、たいした威力はないだろうけど、そんなことで怒りは晴れなかっ た。さすがのシュウも助けた相手から、反撃を受けるとは思ってなかったらしく、両手をふさがれて無防備なまま、全部頭めがけてまともに食らう。
「ちょっ、待て。やめ、おち……落ちるって!!」
 落ちる…? シュウの肩越しに、目の回りそうな地面が見える。背中がぶるっと震えて、ようやく私は手を止めた。シュウも攻撃が止まったことによって、なんとかギリギリ で体勢を立て直すことに成功する。
「ふぅ、全く無茶しやがって……ぐあっ」
 安心したのもつかの間、顔面に私の靴跡を残して落下していくシュウ。もちろん、私はいち早く離脱したから、シュウと一緒に落ちるなんてへまはしなかっ た。
「だ、大丈夫ですか!?」
 慌てて降りてきたユアさんが、私に駆け寄って来てくれる。心配そうに近寄ってきてくれるその姿を見た途端、『落ちた』ことによる恐怖が身体を駆け巡って きた。私は貧血になったように、前のめりでユアさんの腕の中にもたれかかる。
「シュウのばか……」
 怒りと羞恥からか目のふちから溢れてしまった涙を、思わずユアさんの服でぬぐってしまう。優しいにおいがして、意識せずに甘えてしまったみたいだった。 ユアさんは服が汚れることなど気にせず、優しく私の頭を撫でてくれた。
「シュウさんもひどいことするもんです。あれ、そういえばシュウさんは……?」
「シュウ……?」
 あ! 私が蹴り落としたんだった!! 思わずやっちゃったけど、こんな高いところから落ちたらシュウだって……。
 自分がやったにもかかわらず、目頭が熱くなってくる。えっちでバカな最低男だったけど、私のこと助けてくれたのに……。
「シュウー!!」
「殺す気か〜!!!!」
 私が声を震わせながらシュウの名を呼ぶと、すぐ下のほうから怒声が返ってくる。どうやってかはわからないけど、シュウは無事に下の段にたどり着けたみた いだった。泣いて損した……。
続く
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