ようやく……そう、ようやくだ。待ちに待ったこの日がやってきた。
サイン兄の暴走によって、潰えたかのように思えた夢が今まさに………目の前にある。
この薄壁一枚を隔てて、至上の楽園……言い換えるなら禁断の花園。これを覗き見ない理由があるだろうか? いや、ない! 断じてない!
 もちろん装備は整っている。さすがに武器は持ち込めなかったが、双眼鏡や壁を登るための吸盤、そしてサイン兄から借りた最終兵器……カニングカメラ社最 新型一眼レフ。湯煙も恐れぬ曇り止めつき、しかも防水仕様のリーサルウエポンだ!
 しかし、カメラがあるからといって盗み撮りだけを行うわけではない。自分の目で動くそれを見てこそ俺たちの目的はようやく達成される。それなくして俺た ちに勝利はない!
「いくぞ、野郎ども」
俺は後ろの二人の意思を確認する。サイン兄はもとよりやる気満々(というより旅館のタダ券こそ、この日のためのフラグだったと公言した)だったが、コウは ノリ気ではなかった。
「シュウ、君がやろうとしてることは……」
「あーうるさいうるさい。君も本心はぜひ見たいんだろう? 遠慮するな……キミもしっかり作戦に組み込んである」
俺はコウの言い出そうとした言葉を無理やり押し込み、拒否できない状況へと導く。というよりも、拒否するという選択は漢としておかしいと思う。
 早々に服を脱ぎ、メガネもとって準備を整えた兄貴分はタオル一枚だけを腰に巻いて佇んでいた。引き締まった肉体は美術館に展示されるような美を演出す る。ただ、俺としては男の裸体なんかに興味はない!
俺も特に意識することもなく、乱暴に服を脱ぎ捨て脱衣籠に押し込む。そして本来の温泉に必要なせっけんと手ぬぐいを一応右手に、そして左手には一流スパイ ででもあるかのような重装備を抱える。
「今回の生命線だ。作戦行動中は絶対に手放してはダメだぞ」
「御意」
「………」
順番にサイン兄、俺、コウ。特に意味はないが説明しておこう。
 まだ俺たちは作戦の舞台にも立っていない。コウのやつはまだ着替えすらも済んでいないという腑抜けっぷりだ。鎧なんてなくても軽いフットワークで身をか わせばいいってのに、これだから重戦士は…。
 俺はあまりに遅いコウの着替えを手伝うことにする。
 やりかたは簡単。やつがアンダーシャツを脱いでいる際に下の着替えをお手伝いするだけだ。これによってアイツの着替える時間は半分に短縮されるんだ。本 気で感謝するべきだろ?
 忍び足でやつの背後を取る。戦地ならわからなかったが、こんなところで襲われるなんて考えもしなかっただろうコウは簡単に背後を俺に譲り渡す。
「……しかたない」
コウはなにかしら覚悟を決めたらしく、ようやくシャツの裾に手を伸ばす。そして、やつの視界が奪われるその一瞬……この隙を逃すはずもない。
「くらえ!!」
「……!?」
突然聞こえてきた俺の咆哮に、コウは一瞬なにが起こったのかすらもわからなかったようでただ驚く。
しかし、一瞬遅れて自分の身に起こってる事態を理解し、慌てて両手で急所を隠す。
「いきなりなにするんだ……シュウ!!」
トマトみたいに顔を赤く染めたコウが、俺に向かって怒鳴るが相手にしない。着替えを手伝ってやっただけだしな。
「お前ら静かにしろ。あの姉さんはやたら耳がいい……俺らの存在がばれたらいろいろとやっかいなことになりそうだ」
そうだ…ユアの存在を忘れてた。これからは騒がないように気をつけなきゃならない。
俺は黙ってうなづき、コウの肩を叩く。コウはうっとおしそうに跳ね除けるがこれもきっと照れてるだけなんだろう。そういうことにしておこう。浴室と脱衣室 を分ける曇りガラスに手を伸ばし、ゆっくりと音を立てないように開く。
「……うは」
戸の隙間からは真っ白な湯気が吹き出し、俺の全身を包み込む。あったかいけど全然不快感はなく、むしろもっと奥にいってみたいという探究心がくすぐられ た。この密林の奥に……金銀財宝よりも価値のある(?)秘宝が待ってると思うと……くぅーっ、たまんないな。しかし、今は視界が悪い……音を立てず慎重に 行こうじゃないか。
俺は足元を確認しながら一歩一歩着実に足を進めていく。真っ白な湯煙が髪や肌に絡み付いて心地よい。ほとんど見えなかった行き先も少しずつ見えてくる。綺 麗に磨かれたタイル床に、100人は入れそうな大きな湯船。周りにはいくつかのシャワーと桶、椅子、サウナ室や冷水まで温泉にあったらいいなと思うものは なんでも揃っていた。
「………」
 俺は手で合図し、女湯と男湯を分ける巨大な壁へと歩を進める。巨大な山の絵がかかれた見事な壁ではあるが、どこの山だかもわからない絵には興味がない。 サイン兄は早速聴診器のようなものを取り出して、壁に当てる。目をつぶって些細な音すらも聞き取ろうとしているサイン兄の表情は本物だった。
「……………」
俺たちはその様子を黙って見つめる。十数秒ほどサイン兄は目をつぶったままだったが、聴診器をはずして頭を横に振った。
「ふぅ……残念ながら女湯には誰もいない。シャワーの水音はおろか、足音や喋り声、心音や呼吸の音すらない。まったくの無人だ」
(な、なんだってー!!)
俺は声を出さずに顔と手足の微妙な硬直によって今の気持ちをストレートに表現する。
「いや、誰もいないんだから普通に喋れよ。女たちは着替えが遅いからな……俺たちは先にひとっ風呂浴びとこうぜ」
「ふぅ……」
コウがほっと胸をなでおろす。納得はいかないが、まぁサイン兄の言うとおりまだ着替え中なんだろう。できれば更衣室にまで侵入したいが袋叩きに遭うのはイ ヤだ……。ここはおとなしく、こっそりニヤニヤ待ってるしかない。
「しゃあない。先に風呂はいるか!」
俺は七つ道具を洗い場に置き、湯船へと足をかける。水泳の要領で軽くジャンプして飛び込もうとした瞬間、サイン兄に肩をつかまれて止められた。
いったいなんだよと言いそうになったが、サイン兄の真剣な目を見てギリギリで言葉を飲み込む。
「シュウ、湯船につかる前にしっかりと汚れた場所を洗ってから入れ。それとここはプールじゃないんだから飛び込むな、泳ぐな、飲むな、流されるな、潜水す るな。わかったな?」
いや、いくら俺だって温泉は飲まないよ。そう突っ込みそうになるのを何とかこらえ、素直に風呂桶で全身を軽く洗い流す。飛び込むなといわれたからにはタオ ルはすでに頭の上だ。濡れてもまったく形の変わることのない髪に嫌気が差しながらも、小さくたたんでちょこんと乗せる。ん…? 下? 隠すようなものは何 もついてないぜ。
「くはー! キクぅーっ」
俺は全身を熱湯につけて、年寄りくさく呟く。今までのハードな訓練で痛みつけられた筋肉が歓喜の声を上げているようだった。全身に染み渡ってくる熱がなに よりも体を癒してくれる。
サイン兄も体を洗った後、同じようにして湯船につかる。大きく息を吐き出した後、湯船のへりに腕をかける。
「こうやってしみじみしてっと……あいつのこと思い出すな」
ここまで来て欲しかったアイツ……忘れようとしたってできるわけがない。アイツがここにいたとしたら、興味ないとか言いつつもなんだかんだ付き合ってくれ たのだろう。しかし、あいつはもういない……。
忘れたいとは思わない。俺はむしろそれを背負いながら戦うほうがいいという結論を出したんだ。
報われなかろうが、自己満足だろうが、俺はそれだけを誓って生きる。生き抜いてみせる。
俺には血に染まった腕をさらに紅く染めることでしか償えないけど……。
俺が一通り感傷に染まっている中、サイン兄はまったくお構いナシに俺に声をかけてくる。
「おい、シュウ。コウはどこいったんだ?」
知るかよ。だが、確かに湯船の中にはコウの姿が見当たらない。いったいなにをやってるのだろうか。
「おーい、コウー。コラー、でてきやがれー!」
「人をモンスターみたいに呼ぶな!」
湯煙の中から腰にタオルをしっかりとくくりつけたコウが現れる。なんだ、案外近くにいたんじゃないか。
「気にするな。それよりさっさと風呂に入れよ。このあとは作戦が控えてるんだから、今のうちにあったまっておかないとな」
俺はコウの手を強引に掴み、引っ張る。だがそれに対してコウはかたくなに足を踏ん張ることで抵抗した。なんなんだよ、こいつは。はぁ…さてはコイツ。
「もしかして、お前……こういう風呂初めてか?」
コウはギクッと音が出そうなほどに図星だったようで、一瞬だけ固まった後に頭に血を上らせる。
「か、関係ないだろ! 僕の住んでた場所ではシャワーが主流だったんだから!」
シャワーが主流ってどんな場所だよ。確かに髪の毛や全身が濡れてることから見るに、すでにシャワーを浴びてきたようだ。
俺は抵抗するコウを無視して、腕をさらに引っ張る。それに対してコウもさらに力をこめ、どちらもまったく引き下がらなかった。
にらみ合う俺たちを見たサイン兄はやれやれと俺たち二人の手を離し、コウを説得した。
「まぁ、ここはジパングなんだ。せっかくの温泉旅館なんだから仲良く風呂に入ろうぜ。初めては誰だって怖いもんさ」
コウはサイン兄に言われたことでいろいろとあきらめたようで、つばを飲み込んだ後、恐る恐る足先を湯船につける。だが、そこでサイン兄のストップがかかっ た。
「コウ、湯船に入るときタオルはご法度だ。たたんでシュウみたいに頭に乗せるか、湯船のへりにでも置いてくれ」
「えっ? それじゃあどうやって前を隠せば……」
コウは相当戸惑った様子でサイン兄に聞き返す。そうか、これがカルチャーショックってやつか。
サイン兄は無情にもこう答えた。
「ああ、隠さなくていいよ、別に。誰も気にしてないから」
「…………」
コウの額から大きなしずくが落ちる。相当葛藤があるんだろう……ったく男のくせにだらしないな。大体誰もんなもん見たくねーよ。
「サインさん、やっぱり僕はちょっと……」
コウは入りかかった湯船から足を引こうとする。それを見た俺たちは、アイコンタクトで次の行動を合わせた。
「そうはさせるかああああああああ!!」
俺は片足だけでバランスの悪くなったコウを思いっきり湯船のほうへと引っ張る。軸足には持ってきた石鹸……こんなところで罠師の本領を発揮できるとは思わ なかったが、コウは見事に策略にはまってくれた。サイン兄はというとシーフの本領を発揮し、わずかコンマ一秒の間にタオルを剥ぎ取ることに成功していた。
「うわああっ!?」
丸裸にされたコウは受身も取れずに、豪快に熱湯へと転げ落ちる。盛大な水しぶきがあがり、コウのお風呂デビューが今ここに完了した。俺とサイン兄は仲良く ハイタッチで素直に勝利を喜ぶ。
「あっつ…うわ…たすけて!」
しばらく湯の中でおぼれるようにして暴れていたコウがようやく顔をだし、何度か咳き込みながら俺たちを罵倒する。
「シュウ! いきなりなにするんだ!! サインさんもあんまりです!」
俺たちはにっこりと笑い、同時にVサインを見せつける。
「お前しっかり風呂入ってるぞ。しかもちゃんと全裸で」
「あ……」
サイン兄が白いタオルを指先でくるくると回している。それは無論コウから剥ぎ取ったものだ。
コウはその場で湯船に沈む。あまり直視はしたくなかったが、俺のより………別に悔しくないぞ! 向こうのほうが若干年上だしな!
 とりあえず、なんとか三人が湯船に浸かることができた。最初は激しく抵抗したコウも、温泉の魔力に取り付かれたらしく今となってはおとなしく汗を流して いる。しかし、いつになったら女子が風呂に来るんだ? もしかして俺たち旅館を間違えたんじゃ……。そのときだった。
「……潜れ!!!」
「な、なんだッ!?」
俺はほとんど何の抵抗も出来ないまま、サイン兄に頭を強く掴まれてそのままお湯の中に沈められる。俺とコウは一瞬混乱したがすぐに落ち着きを取り戻し、遅 れて潜ってきたサイン兄の顔を注目する。
サイン兄は口の動きだけで俺たちに説明する。
「たーげっとがきた。さくせんをかいしする」
俺たちは首を縦に振ることでそれに答え、頭だけを出して耳を澄ます。ゆっくりとタイルを蹴る音が聞こえてくる。
「うわー、まっしろだね。はやくお風呂はいりたいー」
「そうですね。こんなおっきなお風呂に入るのは初めてです」
忘れるはずもない聞きなれた声。
ついに……役者はそろった!
続く
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