夜行。
仲間を求め、夜の森を彷徨う。
その体は三角巾のついた白い布状のものに包まれており、その隙間からは闇夜に輝く双眸と赤い舌が覗いている。
夜行は感情を持ち合わせていないものと思われる。体はどういう仕組みかわからないが大抵の障害物をすり抜けることが出来るが、貴金属と生き物の体をすり抜
けることは出来ないようだ。
夜行は驚くほどすばやい動きと、異常なまでのタフネスを持っている。並みの冒険者では太刀打ちできない。
そして何より恐ろしいのは、夜行の舌に舐められることと、その集団性にある。
夜行の舌に舐められたものは体の動きを著しく制限され、指一本動かせなくなる。
そして、やつらは集団で一匹の獲物を覆い、意識があるまま闇に導くのだ。
唯一の弱点は聖なる魔法に弱いこと。プリーストが仲間にいたおかげで助かった。
……。
見なければよかった。
私は取り出したモンスター図鑑を閉じて、かばんへと放り込む。
シゲじいにもらったこの図鑑には、ありとあらゆるモンスターの特徴がイラスト付きで載っている優れものだ。今までも何度か助けられていて、実践で得られた
らしい情報は全て正確で真実だった。
白い布に包まれたアレ…さっきのモンスターはこれに間違いない。
だから、さっき舌で舐められた私は今頃死んでいてもおかしくなかったんだ。今思い出しても鳥肌が立つほどの気持ち悪い感触…。身の毛がよだつとはまさにこ
のことだった。
アッシュさんは必要最小限の小さな声で私たちに言った。
「ユア氏、グミ氏…すぐそこに旅館の温泉が出なくなった原因がある」
アッシュさんはそこまで言って、ある方向を指差したけど、その先に見えるのはさっきより濃さの増した霧があるだった。
「何も見えませんけど…不思議な香りがしますね」
これはユアさんが言ったこと。言われてみれば霧に混じって不思議な香りがした。
アッシュさんは「ああ」と頷いて、続けて言った。
「これは推測だが、おそらく間違いなくあの付近に温泉の源泉…正しくは源泉の途中にある湧き水みたいなものがある。そこに何か問題が起こったから温泉が出
なくなったと踏んでるんだ」
「なるほど…それじゃあこの霧は霧じゃなくて、湯気なんだ」
これは私。アッシュさんはまたも頷いて言った。
「おそらく…な。だが、こう真っ白でははっきりと確認できない。かといって不用意に近づくのは自殺行為だ。…さっきの夜行の件もある。少しの間でいいから
霧が晴れるといいのだが…ん?」
アッシュさんは途中で言葉を切り、ユアさんの方を見て目を大きくした。
「その槍の周りだけ、まったく霧が無い様に見えるのは私だけか?」
「え…?」
ユアさんはアッシュさんが突然した質問に驚きながらも、手にした槍を見た。確かに槍の周りにだけ薄い膜が出来たように霧が晴れていた。ユアさんは軽く、流
れるように槍を振り回して見せる。
すると、槍の軌道上にあった霧が、嘘のように無くなった。
私はあまりのすごさに大きな声を出しそうになるのを手でふさぐ。ユアさん自体も何が起こってるのかわかってないみたいだけど、アッシュさんがやや興奮しな
がら説明してくれたのでそれを聞くことにした。
「これは…槍にまとった冷気が、霧を冷やして水蒸気を水に変えているようだ。まったく恐ろしい武器だな…だが、これで活路が開けるぞ!」
すいじょうき…水? 何を言ってるのかよくわからなかったけど、とにかくいいことがあったらしい。
アッシュさんはいまだにはてなマークがついたままのユアさんを見て、言った。
「その槍の風圧で霧を斬ってくれないか? そうすれば、今後の作戦が立てられるんだ。頼む」
「わわわ…頭を上げてください。そんなことなら頼まれなくたっていくらでもやりますよう…」
ユアさんはアッシュが頭を下げてるのを見て、あたふたしながらもすぐに了解した。ユアさんは私たちに身を伏せるようにお願いして、槍を鞘に収めるような体
勢で構えた。
ユアさんは私たちが身をかがめたのを確認すると、急に目つきを鋭くして槍を横一線に薙いだ。
霧が真っ二つに…裂ける。
「え…」
ユアさんは霧の隙間から何かを見て絶句する。私はユアさん全力の居合いに見惚れていたけど、ユアさんとアッシュさんは、もう元に戻ってしまった霧の裂け目
から何かを見たようだった。
二人の顔を見た後に私の目に映ったのはキラキラと光る水や氷の粒だけだったから、何を見たのかは全然わからなかった。
私は呆然としているアッシュさんの肩を叩いて、状況を聞いてみる。アッシュさんは何回か叩いた後にようやく気づいたようで、重苦しい口調で話してくれた。
「これは目の錯覚かもしれないんだが…。墓場の真ん中に天然の温泉のようなものがあってな…その中に信じられないほどの夜行が詰まってたんだ……」
ユアさんも続けて言う。
「わたしにも見えたので多分錯覚でも幻覚でもないと思います…。何匹いるかわからないほどの夜行がお風呂から溢れてました」
私はその様子を思い浮かべて、気持ち悪くなる。さっきの一匹だけでも相当なものだったのに、それがお風呂になるほどの量で密集してるとなると…一瞬にして
私たち全員が夜行の仲間入りしてしまいそうだった。さすがのアッシュさんもうーんと唸って考え込んでしまった。
あの量じゃ作戦も何も通用しないってことなんだろうか。確かにすごい強い攻撃こそしてこないけど、一度舐められたら終わりというルールは、数で来た方が有
利に決まってる。
うーん…私もあまり回転のよくない頭を使って打開策を考えるけど、いっこうにいい策なんて浮かびそうになかった。
そんな中、ユアさんが私たち二人の名前を呼んだ。
「グミさん、アッシュさん…こんなのはどうでしょう?」
「なんだ、ユア氏?」
ユアさんは私たち二人を集めて、ごにょごにょとユアさんが考えた作戦の話をしてくれた。
ユアさんは自信がなかったみたいだったけど、ある条件さえそろえば全然不可能な作戦なんかじゃなくて、十分出来そうな作戦だと思った。
アッシュさんは杖を取り出して言う。
「なるほど…それなら上手くやれば夜行を一網打尽にできるかもしれんな」
「これなら…もしかするとどうにかできるかもしれないね。ユアさん、すごいよ」
私もユアさんの作戦に賛成する。ユアさんは照れ笑いしながら言った。
「みんなに負担がかかるから本当はあまりやりたくないのですけど…アッシュさん、グミさん、力を貸してください!」
私とアッシュさんはユアさんの手にそれぞれの手を重ねて言い合った。
「足手まといにならないように全力で行くから!」
「全員で協力すれば何とかなるだろう。それぞれの力を信じて、行くぞ」
「失敗は…許されません。それじゃ行きますよ!」
3人同時に手を離し、それぞれの武器を強く握り締め、前方を見据えた。
一世一代の大作戦の始まりだ。
続く