#57 望まぬ邂逅
 人気のない無機質な研究所の一室。暗い部屋の唯一の照明は複数設置された監視カメラの映像を映すモニターのみ。その中で一人、インカムで喋りながらキーボードとマウスを器用に使う女が慌ただしくまくし立てる。
「神無月。状況報告急いで。開始時刻はとうに回ってるでしょ?」
 目の中に映るいくつかのモニターから必要な情報だけを読みとり、即座に現地の情報を要求する彼女の姿は歴戦のオペレーターと言っても不足はないだろう。
 山奥で隠密行動をする二人は全く同じ語調、音程で無感情に状況を報告する。
「「ターゲット11と2は補足済み。だが、イレギュラーが現れた」」
「イレギュラー?」
 右手のマウスを駆使し、森中の監視カメラをぐりぐりと回す。森の入口に設置されたカメラに不自然な人影が一つ。それは神無月達のような隠密行動ではなく、堂々と林道の中心を歩いている。背後からわかる情報は彼が派手な金髪であることと、彼の口元から上がる紫煙くらいだった。
「……予想してなかったわけじゃなかったけど、来たのね。神無月、ゲームは続行。でも、そいつに見つかっては駄目よ。もちろん零のことも」
「御意」
 三番カメラが設置されている木の上から二人の姿が同時に消える。弥生は面倒な事態に頭を掻きむしりながら、一番カメラの人影を追う。発見されないよう周到に偽装した監視カメラの方へ急に金髪が振り向いた。
「っ……!」
 小さな悲鳴とともに一番モニターに砂嵐が映し出される。しかし、弥生はその瞬間を見逃さなかった。金髪の少年の貼ってつけたような薄い笑みと吸いかけのタバコが爆発した瞬間を。
「葉月。一番面倒なのが来たわね」
 弥生はマウスを持つ手を一時離して、すっかり冷めきったエスプレッソを口に運ぶ。ぐいとそれを飲み干して、なんとなしに眺めたモニターには一筋の白い煙が映し出されていた。
*
 狼煙を上げてしばらく経った頃。未だに敵の攻撃が無いことを警戒しながらも、俺は何度も時計を確認する。八時四十七分。そろそろ攻撃をしてこないと向こうは投げないままターンを終了する羽目になる。それがルール上どういう意味を持つのかまでは把握しきれれないが、恐らくこのまま何もなしには終わらないだろうと考えていた。
「あすか、相手は連続攻撃を狙っているのかもしれない」
「どういう意味だ? ターンごとに投げられる数は決まっているのだろう?」
 もっともらしい疑問だ。しかし、時間ごとの投数は決まっていても、投げた後のクールタイムが存在しなかった場合、ターンの移り変わりに合わせて投げれば、実質二倍投げられることになる。
「例えば八時五十九分に三回投げたとして、投げてる最中に九時になったとしたらどうなる?」
 あすかはなるほどと相槌を打ち、俺が求めていた回答を出した。
「そういうことか。ターンが変わればルール違反にはならないということだな」
「ああ。だから、俺たちは3×2×2の矢に晒されることになるな。ただし、凌ぎ切れば丸一時間はこっちのターンだ」
 俺は右手のナイフを掲げて見た。木漏れ日を反射する銀は血に飢えたかのように妖しく光っている。出来れば使いたくはないが、相手が相手だけに容赦している余裕はないかもしれない。何より俺は制御できないというオルタナティブの持ち主なのだから、軽く傷を負わせればいいと思ってやった攻撃で相手を瀕死にまで追いやる可能性すらある。
 全く、何ともまぁ迷惑な能力だろう。ただの馬鹿力ならまだ良い。硬くて開かない瓶の蓋を開けたり、抜けなくなった画鋲をやすやすと引き抜いたりできるからな。
 そういえば、くだらないことを考えていて思い出したが、月読の話によると陰暦の月の姓を持つ人間は何かしらのオルタナティブを持っていると言う。現にうさやイルカはその力を用いて戦った。人のことを言えた義理ではないが、あれは普通じゃない。しかし、一つ疑問に思うことがあるとするならば、今隣にいるあすかはどんな力を持っているのだろう。
「なぁ、あすか。一つ、聞いて良いか?」
「……えっちなこと以外なら」
 エッチなことって何だよと思いつつも、一旦時計を確認し、先の疑問を投げかけて見る。
「あすかのオルタナティブってなんなんだ?」
「知らない……というか、多分無いんじゃないかな?」
 あすかは割と真面目に答えているが、それだと月読の説に矛盾する。もし、うさやイルカの件が無ければ普通に受け入れていたことだが、実際に経験してるからこそ何もないということはないんじゃないかと思わざるを得なかった。
 けれど、当のあすか自身も心当たりはないらしく、割かしそばにいることが多い俺ですらその片鱗を見たことは無い。となると、俺があすかと出会う前に何かがあった、もしくはあすか自身が自分の意志か無意識かそれを隠しているのだろう。
「確か、オルタナティブを持つものは何かしらの欠損があるはずだ」
 月読がそんなことを言っていたような気がする。そんなうろ覚えの言葉だったが、それにあすかがわずかにだが反応した。
「オルタナティブというのには心当たりがないのだが、欠損ということなら少しだけ心当たりがある。でも、聖にだから話すけど、みんなには内緒にしてくれるか?」
「ああ」
 何か神妙な面持ちだったことが気がかりだったが、自分にだけという特別扱いが少し嬉しくて二つ返事で答える。あすかは次の言葉を紡ぐまで少し逡巡し、覚悟を決めたように言った。
「実は、私は生れてから八歳くらいまでの……記憶が無いんだ」
 ほんのわずかな沈黙。その事実は一息で飲み込むには余りに重く、信じがたい事実だった。それが生後三歳までの記憶が無いというのならまだわかる。俺もないからな。ただ、それが八歳ともなると話は違ってくる。その歳ならこの国の義務教育で小学校に行ってるはずだし、たとえ行って無かったとしても思い出深い経験は少なくとも残るはずだ。
「記憶が無いってつまり、記憶喪失ってことか? 何かの事故の後遺症だとか」
「いや、多分違うと思う。私の人生の始まりは八歳から始まったというのが正しいかもしれない。言葉は喋れたし、ある程度の常識や通例、計算なんかもできた。でも、それが何故出来たのかは分からないし、”その時”以前の記憶も、ついでに言うと記録も残ってないみたいなんだ……」
 そんなことが現実に起こるのだろうか。人口調査もまともに行われていない国や地方ならまだしも、この国では人口調査どころか住民票、個人証明などが厳重に行われているはずだ。それが記憶の損失、記録も無いとなればこれは重大な国の過失、ないし陰謀ではないのだろうか。如月あすかという一人の少女の身の周りに起こっていることは明らかに常軌を逸している。
「日常生活に困ることはないのだが……あ、そろそろ時間じゃないのか?」
 予想を遥かに上回る壮絶なあすかの過去に頭を悩ませていた俺にあすかが告げる。時計を見ると九時になるまで残り二分を切っていた。続きをもう少し掘り下げて聞きたいところだったが、一時中断。まずは回避に専念して、追撃出来るくらいの余裕も持っておかないと。
 背後からの攻撃に備えて、木を背負う。あすかも同じように目の届く範囲で同じように座らせる。手にはナイフ、足元はいつでも回避行動を取れるように軽くバネを利かせる。準備は万全、迎撃態勢を整えた俺は敵を見張っていたはずの目でとんでもないモノを見ることになる。
 木陰に見えた薄紫の煙。ブリーチではない生粋の金髪。しかも、薄っぺらい笑顔でこっちに手まで振っている。そんなことはどうでもいい。あの気に食わない男がどうしてここにいる?
 かといってそんなことに気を取られている場合でもなかった。左の方に感じたわずかな気配を見逃さない。俺は正面に前進、そして直後にバックステップであすかのフォローに入る。聞こえるか聞こえないかくらいの小さな風切り音が俺のいたところを通過し、続いて投げられた一投をナイフの腹で弾く。
 あすかから上がったわずかな悲鳴。真後ろから放たれた矢があすかの肩から数センチも離れていないところを通り、木に突き刺さっていた。位置的にもう一人の刺客が投げたに違いない。まだ三つだ。あと九つ……さばき切れるか?
「聖! 後ろ!」
 あすかを狙った刺客に構えていた俺はその声で危機に気付き、ナイフを振りかぶる。しかし、一瞬の判断が生死を分けた。無理な体勢から繰り出したナイフをすり抜けて、俺の右腕にダーツが深々と刺さる。苦痛にうめく暇もない。次々と飛んでくるダーツ、俺の視認出来る限り三つ。恐らく他の方向からも飛んできている。ならば、出来るだけ被害を最小限に抑えなければならない。
「ぐっ……!」
 あすかを隠すように顔の前で腕を交差して、なるたけ身体を縮める。頭狙いの矢が二本続けて左手に当たり、ガードが下がりそうになる。次の衝撃は足に来た。硬いジーンズ生地を貫いた矢は右腿を穿ち、もう一投はスニーカーごと俺の左足の甲を地面に縫い付ける。
 ハリネズミという言葉が良く合うだろう。ここまで受けたのは八つ。あと四つも残ってるのか。覚悟せざるを得ない。奴らがクリケットをやってるのだとすれば、まだ当たってない場所を狙って来る。心臓、顔面、股間と正中線の急所は全部残っている。かといってこの位置を離れるわけにもいかないのだ。
「聖……」
 俺は何も言わず、あすかの盾になり続ける。徐々に増していく痛みに口を開けば悲鳴を上げてしまいそうだった。傷口は小さいが、浅くはない。目をつむってもわかるほどに冷たい針の感触がわかった。
 あと四発。流れ出る血液が腕と足を伝い、じわりと染みる。苦痛からか、こめかみには脂汗が滲んでいた。しかし、待てども待てども矢は飛んで来ない。嫌な予感がした。まさか、残り四つを残したまま逃亡したのか?
「まずい」
 目を見開いて周囲を観察する。攻撃されることはこちらの迎撃のチャンスでもあった。だが、それを相手が読んでいたとすれば、全部投げ切らずあえて矢を残したまま一旦引くというのは十分にあり得る。
 追わなければ。考えだけが加速し、無意識に右脚を踏み出そうとする。その刹那、突き刺さっていたダーツが体内で擦れ、激痛が走った。続けて出そうとした左足に至っては持ち上げた途端に足の甲に羽の部分が引っかかり、情けなく前のめりに倒れてしまった。
「聖! 大丈夫か!?」
 大丈夫なわけがなかったが、俺は適当に返事をし、地面に転がったまま身体のいたるところに突き刺さった矢を無理矢理に引き抜く。激痛に顔を歪ませ、自ら傷口を広げる恐怖に手が震えた。
 そんな俺に差し伸べられた手。あすかかと思ったが、直感で違うことが分かる。
「君、大丈夫? ありゃあ、せっかくのイケメンが台無しだねぇ。それじゃあ、白兵最強の名が泣くよ」
「葉月……!」
「お久しぶりです。十一番君」
 不敵に笑う葉月。その左手には四本のダーツが逆さに握られていた。

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