#56 蜘蛛の逆襲
 酷く、不快な夢を見た。俺は暗闇の森を走り、追手から逃げる。その背には傷付き、動けなくなったあすか。どこまで逃げても逃げられない恐怖感と不安。背にいるあすかの息遣いも聞こえず、生死を確かめることすら出来ない。
 ふいに訪れる静寂。音も無く飛来する無機質なダート。冷たい感触が急激な熱源に変わり、膝をつく。背中が酷く熱い。無意識に触れた手にぬめりとした嫌な触感を覚え、あすかを見ると……。
 起きた頃には文字通りの悪夢に吹きだした冷や汗が全身を覆っていた。目覚めた場所が闇夜の森ではなく、あすかが見つけた小屋の中だと言うことに気づいて、ほっと胸を撫で下ろす。薄明かりを頼りにあすかを探すと、俺のすぐ隣で寄り添うように寝息を立てていた。
「朝か」
 携帯の電源を入れ、サブディスプレイの時計を眺める。アラームをかけた時間よりも五分ばかりはやく目が覚めたようだった。前日の話合いの結果、早起きして食料を確保。八時から夕方にかけては逃げ回らず隠れることで出来るだけ体力を温存する。そして、一番重要なのは必ず二人一緒に行動するということだ。二人同時にいることでそれだけリスクは分散できる。何より、あすかが俺の目が届くところにいてくれるということが重要だった。
 隣にいるあすかに目を向ける。古い毛布をかぶって眠るあすかは普段の何十倍もおとなしい。床に就く前は散々別のところで寝るだの、半径1メートル以内に近づくなだのうるさかったものだが、起きて見れば手と手の触れ合うところにいる。
「あすか」
 そっと呼びかけて見るも、反応はない。よほど疲れていたのか、熟睡しきっているようだ。顔を目と鼻の先まで近づけても大人しいあすかを見ると、目を閉じて何かを待っているようにすら見えた。頂いてしまおうか。そんなよこしまな考えが芽生えるが、実行する余裕もなければ、そんな状況でもないということはあすか以上に理解している。
 何もせず、ただあすかの寝顔を眺めていると突然けたたましいアラーム音が鳴り響いた。驚いて即座に身を引くも、時既に遅し。ぱっちりと目を見開いたあすかがありえないほどの寝覚めの良さで俺の顔を凝視している。徐々に頬を赤く染める羞恥心はぐつぐつと煮え立つ怒りへと変わり……その後、アラーム音よりも遥かに騒々しいあすかの怒声が響き渡ったのは言うまでも無い。
*
「なぁ、あすか」
 俺の呼びかけに対する反応はない。かれこれ一時間弱もこの状態が続いている。無論、あすかは眠っているわけでも難聴になったわけでもないのだが、とにかく俺が話しかけるとそっぽを向いて顔を赤くするのだった。当人の俺としては悪いことをしたつもりはこれっぽっちも無いのだが、あすかにとっては一時間くらいの時間では許せないほど重要なことだったらしい。
「食料、見つからないな」
 独り言気味に言ってもあすかはちゃんと聞いている。何時まで経っても見つからないキノコや食べられる雑草の類を探す手を止めて、腕時計の時間を気にしている。七時四十五分。俺が予測した攻撃開始時刻の十五分前だ。
「そろそろかくれんぼの鬼が動き出す時間だ。隠れるぞ」
 手についた土や夜露を適当に拭い、あすかに呼び掛ける。さすがに意地を張ってる場合でもないと思ったらしく、「ああ」と一言だけ返事をして俺に続いた。
 隠れるなら出来るだけこちらからの見通しが良く、攻撃を防ぐための木々の多いところ。最悪見つかった時に逃げやすいように藪が少なくて、足を取られる大きな石や根の無い場所が望ましい。もちろん、そんな都合のよい場所は簡単に見つからないだろうが、それに近い場所を見つけ、二人でじっと身をひそめる。お互いが離れないように俺はあすかの右手を、あすかは俺の左手を握り、着実に時を刻む時計の針を二人で眺めていた。
 何時間にも感じられる十数分。極限まで高まった緊張感にあすかの手が震え、俺はその震えを抑えるために優しくあすかの手を握る。遅々として進まなかった時計の針が傾ぎ、八時を指し示した。
 その瞬間、樹木を背にした状態で目に見える範囲全体を見渡す。風に揺れる木々、さえずり飛び立つ野鳥。そのどれもが敵の動きを知らせる合図になる。息が詰まるほどの緊迫感の中で、逆に俺の集中力は研ぎ澄まされていた。わずかな隙も見落とさない極限の集中力。あすかの息遣いどころか心臓の音までもが鮮明に聞こえて来る気がする。
「……」
 聴力を失ったかのような完全なる無音。何の気配も感じられず、攻撃が飛んでくる気配もないことで危うく緊張の糸が切れそうになる。敵は必ずいるはずだ。敵のターンが終わるまで、何があろうと気を緩めてはならない。
 そんな状況が十分以上続いた。極度のストレスと何時襲われるか分からない恐怖感で俺の精神は急激に疲弊していった。もしかすると俺の推測は完全に的外れで敵は攻撃してこないかもしれない、最悪の場合、俺が想定していたルールなど元々なく、敵はこちらが疲れてから一斉攻撃をして来るのかもしれない。そんないくつもの推測が俺の頭の中で交差して、絡まっていく。あらゆる疑心が俺自身の思考を鈍らせていく。
 何もないことに焦りが募り、手のひらから嫌な汗が出て来る。俺と同じ状況に置かれているはずのあすかはただ敵に見つからないよう祈っていた。
 開戦されたはずの殺人ゲームについて脳内でありとあらゆるパターンを試行したところ、そこで一つの重要な問題点に気がつく。それは俺たちが勝つために必要な条件が「生存する」ということだけだということだ。それを達成するためには今のようにじっと身を潜め、三日間を凌ぐという手段と敵の刺客を返り討ちにしてここから脱出するという二通りになる。
 しかし、現状を客観的に判断してみると、俺たちが今取っている作戦は最悪の一言に尽きる。敵に時間を与え、大人しくじっとしているなど格好の的だ。しかも、攻撃を恐れ、動きを止めていることで、俺たちは精神的に、また体力的にも疲弊し、決定的な好機を目にしても応戦することが出来なくなる。つまり、今俺たちが出来る最善の策は持久戦ではない。
「あすか、戦うぞ」
「聖!?」
 驚いて大きな声を出してしまったあすかは慌てて自分の口を塞ぐ。けれども、俺はそのことを責めることはない。むしろ、ちょうど良かったくらいだ。俺たちの会話を聞きつけた刺客たちがこちらに来てくれるかもしれない。
「気にするな。もう喋っても良いぞ。何なら大声で自分がここにいることを敵に知らせて貰ってもいい」
「言ってることが分からない。説明してくれ」
 心配そうな目でこちらを見るあすか。そりゃそうだ。隠れておいて、自分の居場所を公言するような矛盾。聡いあすかには意味不明でしかないだろう。
「生存することが勝利条件だっていうのが、そもそもの間違いなんだよ」
 俺は敵の攻撃に目を光らせながらも口を動かす。追い詰められることで閃いた今取るべき最善の行動をあすかに説明する。
「俺たちの勝利条件は生存することだが、それは逃げることじゃない。むしろそれこそ、相手の思うつぼだ。敵は安心してこちらを攻撃できる。だが、裏を返すと一時間に一人三投だとして、わずかに六回。一分もかからないうちに相手の攻撃ターンは終わってしまい、次の一時間までは逆に逃げることしかできなくなる。だが、俺たちに行動制限はない」
 そこまで言って、あすかは俺が急に目を輝かせたのかを十分に理解したようだった。それはルールを逆手に取った斬新な戦略。普通のダーツゲームと違うシステム。それは的、つまり俺たちがプレイヤーに反撃していいということだ。
「なんだ。緊張していた私たちが馬鹿みたいだな。敵は攻撃回数に制限があり、こちらには無い。発見されて攻撃されたとしても、不利にはならないということか」
 「大正解だ」と俺は不敵に笑い、獲物のナイフを軽く握る。そう、例え逃げ回っていようとこちらが敵を追い詰めようとも俺たちを取り巻く環境は変わらない。ならば攻める。攻撃こそが最大の防御だと言うことを実践する良い機会だ。
「ただし、俺のそばからは離れるなよ。狙い撃ちにされれば、殺傷能力の低いダーツとは言え行動不能になる。効率は悪いが二人で一緒に行動しながら敵を探す」
「わかってるよ。だが、敵を探すと言ってもこんな広い山の中じゃ……」
「だから、敵にわざと場所を教えて攻撃してもらうんだよ。後手だが、条件は悪くない」
 そこまで言って、俺はポケットからライターを取り出して、何度か火を点けたり消したりする。あれだけの衝撃を受けても壊れてなかったようで良かった。簡単な仕組みのモノほど頑丈にできている。
「聖、それ……?」
「ああ、拾ったんだ」
 俺はしれっと嘘をつく。最初から持ってたけど言いだせなかったなんてのは、必死の思いでマッチを見つけ出したあすかを傷つけることになるだろう。
 しかし、あすかはそれを見て別のことを感じたらしく、もはや敵に発見されて当然という大声で叫んだ。
「そのライターで何をする気なんだ。まさか、森に火をつけようなどと考えてないだろうな!?」
 ちょっとたき火するだけだよ。俺はそう言って呑気に枯れ枝や落ち葉を探し始める。森に火をつけると言うのもなかなかのアイディアだが、そんなことをしては地理に詳しくもない俺たちはあっという間に煙に巻かれてお陀仏だろう。
「火力は相手に位置を教えてやる程度で構わない。そう、これは小さな狼煙。周囲で俺たちの動向をうかがっている刺客への反撃の狼煙だ」
 天高く昇る白煙を見上げ、来るなら来いと胸の内で意気込んだ。

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