#54 朝と夜の境界
 夜の帳が下り、鳥の声も聞こえなくなった頃。俺は暗く茂った藪に紛れ、そっと息を殺していた。血なのか汗なのかもよくわからない液体でべったりと濡れた背中、全身を覆う細かい擦り傷が俺を責め苛んだが、結論から言って俺は刺客を振り切っている。
 苦戦を知ったその瞬間から、俺の意識は闘争から逃走へとシフトし、脇目もふらず全力で走った。チラチラとあすかのことが思い出されたが、隠れるように言ったあすかを探し出し、合流してあすかを連れ歩くリスクを考えると、一人で追手を引きつけた方が先決だと思っていた。
 けれど、今思うとその選択は間違いだったのかもしれない。今、俺は一人だ。先ほどから、というよりも逃げに転じた頃から敵の攻撃は止んでいたような気がする。奴らは初めから俺とあすかを分断することが目的だったとしたら、俺は最悪の選択をしたことになる。
「寒いな……」
 気が緩んだのか独り言が勝手にこぼれる。夜の山は季節に関係なく冷える。秋の夜空は都会の喧騒とは無縁で澄渡っていたが、その分人気のない冷たさも含んでいた。きっと今頃はあすかも震えていることだろう。俺の渡したジャケット程度でしのげる寒さでは無い。
 ダーツの刺さった傷も多少は癒えている。少し休んだら、あすかを探しに行こう。夜に行動するのは危険だとわかっていても、ここで何もしないよりは気休めだとしても動いていた方が良い。
 重い腰を上げ、文字通り手探りであすかを探す。吹き抜ける風、草木の揺れる音さえも塞がりきっていない傷口を抉るようだ。痛みはともかく、あすかを探す方法がない。その方が精神的に来るものがある。ポケットに入った携帯電話もどうせ圏外だろう。文明の利器も大自然の前には無力であることを思い知らされる。
 手がかりのない中、自らの五感と勘だけで山中をうろついていたが、ふと見上げた空にまずあり得ないものがあることに気付いた。下弦の月を遮る一筋の白。月の光に照らされ薄らと光るそれは、十字架のようにも見えなくはない。
 この直線状に人がいる。それだけは間違いない。ただ、一つ不安要素が残るとすれば、それがあすかだとは限らないということだ。
 刹那、緊張感で全身が強張る。敵は二人以上。闇討ちをかければ一人くらいはやれるかもしれないが、二人となると話が変わって来る。増してこちらは満身創痍だ。あの煙が囮だとすれば、俺が姿を現した直後に集中砲火を浴びることになる。
 じとりとこめかみを濡らす汗を拭いとり、前方を見据える。木々の連なりが死角となって、まだ気づかれてはいないと思うが待ち伏せだとしたら、戦況は五分かそれ以下になる。
 右手が腰のナイフに触れたと同時に、音を立てないようにそっとそれを手のひらに収める。これは勝ち目の薄い賭けだ。ふいに煙草を吸いたい欲求にかられるが、例え持っていたとしても今は吸うわけにはいかない。
 枯れ枝を踏み折らないように、全神経を削りながら煙の出所ににじり寄る。距離を詰めれば詰めるほど、自分の息が詰まるように感じていた。鬼が出るか蛇が出るか……今、思えばどちらが出ても嬉しくはない。そんなくだらないことを考えている内に、小さなたき火が見えて来た。それを覆うように小さく座り込む人影。肩より少し伸びた後ろ髪に、華奢な四肢。
「あすかッ!」
 頭で考えるよりも早く、名前を呼んでいた。罠かもしれないなんてことは考えもせず、そのまま駆け寄る。時間にすれば数時間と経っていない。けれど、自分かあすかの片方、あるいはその両方が永遠に失われるかもしれなかったことを思い出すと、時間の概念など軽く吹き飛んでしまう。
「おま、大丈夫か。その傷」
「あ、ああ。かすり傷だ、問題ない」
 俺は軽く感動までしていたというのに、一方あすかはと言えば、思いのほか落ち着いているようだった。てっきり孤独に震え、メソメソ泣いてる頃かと思ったのに期待外れ……いや、無事でいただけでも僥倖と思わなければ。
 あすかに会えたことの安堵感からか、一気に身体の力が抜ける。あすかはそれを見越したように肩を貸し、暖を取るように言った。火のそばにはどこかで見たような地味な色をしたキノコが美味しそうな匂いを漂わせており、思い出したように腹が鳴る。
「食べられるキノコだから安心しろ。これでもサバイバルの知識はそれなりにあるぞ」
 小さく胸を張るあすか。本当に大丈夫なのかと不安にかられるが、あすかが先に一つ摘まんだのを見て、俺も黙って口に運ぶ。キノコ特有の香りに、乾いた外見に似合わぬジューシーな食感に一気にそれを飲み込む。ろくな味付けもしていないにもかかわらず腹が減っていることもあってか、異常なまでに旨い。
「シイタケの仲間かなんかだったと思う。本当は野草とか木の実とかがあればよかったんだけど」
「いや、十分過ぎるよ。まさか、遭難した山奥で秋の味覚に出会えるとは」
 謙虚なあすかの発言に思わずフォローを入れてしまう。良く見ると、あすかの手には細かい傷がたくさんついていた。きっと、俺のいない間に必死で食糧を探してくれたのだろう。あすかはきっと足手まといになるだろうと思っていたが、実際はその逆なのかもしれない。
「ところで」
 あすかが二つ目のキノコを取ろうとした時に、とっさに口が開く。納得できないことがいくつもあった。
「なんだ?」
 不思議そうにこっちを見つめるあすか。今の状況がさも当たり前のように目で言っているが、よくよく考えて見ると今あすかと火を囲んで暖を取っている状況は異常過ぎる。まず、俺を襲った刺客の存在だ。
「俺が戦っていた刺客たちは襲って来なかったのか?」
「襲ってきたよ。隠れてたんだけど、ダーツが飛んできたから慌てて逃げた」
「よく無事だったな」
 血だらけの俺に対してほとんど無傷に見えるあすかを見て、本心からそう言う。あすかはと言えば、自慢げな表情でこう言った。
「逃げ足には自信があるから!」
 全然自慢になってないが、基本的には平和主義者なあすかにとっては誇らしいことなのだろう。実際、二人の刺客から逃げ切ったというのは純粋に凄い。しかし、あすかは最後に一言付け加える。
「あと、逃げている内にダーツが飛んで来なくなった気がする。その間にキノコとか探せたからな」
「……攻撃が止んだのって何時頃かわかるか?」
 俺たちが襲撃されたのはまだ日暮れ前だった。やまで日没が早いとはいえ、日没より前と言うことは恐らく16時前後。慌てて携帯を開くと、さっき届いた弥生からのメールに受信した時間が記されていた。16時25分。これを境に攻撃が止んだ気がする。
「時間までは覚えてない……ただ、体感で一時間近く隠れていたと思う。そのあと急に攻撃された。確か、その頃は日も落ちていて随分暗かったと思う」
「一時間か」
 俺が逃げ出してすぐにあすかを探しだし、攻撃するまでに一時間もかかるだろうか。あすかがサバイバルのプロフェッショナルでその場で出来る全てを実行していたとしても、プロの刺客二人を相手に一時間も隠れ続けることはまず不可能に近い。しかも、あすかは俺とさほど遠くない位置に隠れていた。なのに、攻撃は一時間後。何か妙に引っかかりを感じる。
 真実に辿り着きそうな気がした。でもそれは暗闇の中蜘蛛の糸を登るほどに困難で、いくら探っても光は見えてこない。近くて遠い、いや何か決定的なヒントを見逃している。
「なぁ、聖。それより、もっとほら、他のことあるだろ。例えば……」
 目逸らし、じっと炎を見つめるあすか。瞳に宿る炎は妖しく光り、燃えては散り、弾けては舞うを繰り返している。あすかはもじもじと何かを待っているようだった。
「火、どうやって起こしたんだ?」
「そう、それ!」
 あすかは待ってましたと言わんばかりに立ちあがり、俺を指差す。俺個人としては今はそのことよりも刺客についての情報をまとめたかったのだが、ここまで環境を整えてくれたあすかをおざなりにするわけにもいかない。
 あすかはゴソゴソとスカートのポケットをあさり、四角い箱のようなものを取り出す。古い感じのイラストに宣伝と思われる企業名と電話番号。本来、山にあるはずもないマッチ箱がその手に握られていた。
「どこからそんなものが」
 まさか自然発生するわけじゃあるまいし。素直に驚いていると、あすかは腕を組んだ独特の姿勢で語り始める。
「食料を探している最中に、古びたプレハブ小屋を発見したのだ。武器の類はなかったが、毛布や簡単な調理器具があった。多分、登山に訪れる人たちが利用していた休憩所兼避難所だと思う。そこで見つけて、ここまで持ってきたんだ」
「凄ェ!」
 何という生活力。俺がいない数時間の間にあすかは最低限の衣食住を確保してしまった。なんてこった、これじゃ足手まといは俺の方じゃないか。とりあえず、あすかも忘れていることだし俺がライターを持っていることは黙っておこう。
「すごいだろー。まぁ、夜露にぬれた生木や腐葉土ばっかりで、火を付けるのには苦労したんだけど。六本目でやっと火がついたんだ」
「それはまたご苦労なことで……ん?」
 六本目で火がついた? 六本目……六本目で火が、消えた。否、矢が消えた。あすかの何気ない偶然が鍵となり、即座に思考のパズルに光明が差してくる。
「あすか。敵が投げて来たダーツの本数、覚えているか?」
 脈絡のない質問。普段、愛想のない俺に褒められて有頂天になっていたあすかは我に返り、自分の頬に触りながら考えるように中空を睨む。
「無我夢中だったから正確じゃないかもしれないが、一本目は靴ひもを直そうと思った時私の顔の横を飛んで行った。そして、とっさに逃げだしたら今度は木に刺さった。三本目が私の肩を掠めて地面に刺さって……それからちょっと間があってまた何本か飛んできてたと思う」
 三本は即射。六は三の倍数だ。わずかな間の理由もわかる。俺の時は一発目を回避、二投目が俺の肩に命中。三投目、四投目を俺が弾き、攻勢に回ろうとした直後、背後からの二発を食らった。計六発、恐らくあすかの時も一緒だ。加えて弥生のメールに隠されていたヒントまでも掴み取る。
「あすか、わかった。これはゲームだ」
「ゲーム?」
 何を言っているのか分からないと言った表情。それもそのはずだ。命がかかわるような状況にゲームだなんて、何を言っているのか自分でもわからないくらいだ。だが、その命が絡むことによってそれがゲームであることを悟られないようにすることが敵の巧妙な攻撃にある。
「これは変則ルールのクリケット。時間を見るに今は休戦時刻なのだろう。ゲームの開始は9時からだ。さっさと種明かしを始めるぞ」


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