#53 襲撃
 彼女に触れた時、指先が、口唇が痺れたような感じがした。それは気のせいとも取れるほど微かなものだったが、その感覚は今も消えずに残っている。
 例えて言うなら静電気。空気が乾燥している時やウールに手を擦った時にバチバチくるあれだ。痛いというより、びっくりする。その程度の刺激だが、気づかないでいられるほど甘いものではない。
 ある種の性的高まり、もしくは気持ちの上での刺激がそのまま感覚上での刺激として現れたのか。今はそれを確かめるすべもない。何故なら、その相手が如月あすかだからだ。
 もし、無理に確かめようものなら彼女は精巧なガラス細工のように壊れてしまう。一時の情に流されて、全てが破綻するくらいなら、俺はそれを錯覚だったことにしようと思った。
*
 夕暮れ時、爽やかというよりは肌寒い風が吹き抜ける。沈みかけ、赤く輝く夕日を前にあすかは毅然とした態度で立っていた。水も食料もなく、今自分のいる場所さえもわからないという状況で絶望しない彼女。現状、今の状況を打破するためには何の役にも立たないだろう、その小さな背中に俺は勇気をもらっている。
「あすか。何か人工物らしきものはあったか?」
「特にないな」
 振り返りざまの即答。少し伸びた後ろ髪が揺れ、陽光を受けてオレンジ色に煌めいた。彼女は相変わらずの制服姿で、とても山歩きに適した姿ではない。白いブラウスも草や枝に引っ掛けて、少し傷ついている。
「そうか」
 一言で返し、自分の中で野宿を視野に入れる。元々、寝泊り可能な建物があるかどうかさえ怪しいのだ。となれば、今後一番心配される食事の問題を解決するべきだろう。
「日が暮れる前に飯と寝床、出来れば暖を取れるようにしておきたいな」
 衣食住の衣以外をこの短時間で準備する。キャンプセットと食料を満載にしたクーラーボックスでもあれば別だが、今の俺たちにはテントはおろか、満足な日用品も無い。さっき、あすかとお互いの持ちものを確認したが、それぞれの携帯、ナイフ、ライター、ハンカチくらいしかなかった。それぞれの荷物が入ったカバンは乗ってきた車と一緒に吹き飛んだので、恐らくは駄目だろう。
「果物の生ってる木でもあればいいのにな……」
 そんな都合のいいものはないという節であすかがそう口にする。ここは南海の無人島でも何でもない。海や河川があれば魚という線も考えられるが、あいにくここは山奥だ。現実的な線で行くと、食用の山菜、運が良ければ鳥を狩るくらいだろう。無論、俺に食べられる草と食べられない草の見分けなどつかないのだが。
「考えている時間が惜しい。ともかく、今は食べられそうなものを集めてみよう」
「手分けして探すか?」
「いや、一緒に行動しよう」
 あすかはそれ以上何も言わず、肯定する。確かに二人で手分けして探した方が効率はいいだろうが、何が起こるか分からない山であすかを一人にするなどそれこそ自殺行為だ。俺のそばにいれば、まだ手を貸せる。というより、不安なのは俺も同じなのだ。頼り無くともそばにいて欲しい。
 その時だった。眩しいくらいに輝く夕日を遮るように黒い影が映る。逆光でその正体は掴めないが反射的に俺はあすかの背中を押していた。
「あすか……伏せろ!」
 俺に押されたあすかの華奢な身体が前のめりに倒れる。その時俺の視界は既に前方の何かに集中していた。逆光に隠れるようにして飛来する点。それは次第に大きくなり、空気を裂いて俺へと直進する。
「くっ」
 間一髪。俺の耳横数センチを何かが通過した。とっさに首をかしげていなければ、俺の顔面に直撃していただろう。ほっと胸を撫で下ろす隙も無く、第二弾が今度は俺ではなくあすかに向けて飛来していた。俺は考えも無く、あすかに覆いかぶさるようにあすかをかばった。
 刹那、肩に鈍い感覚を覚える。何かが高速でぶつかった感触、痛みは遅れてやってきた。何かで殴られた様な鈍痛、ナイフで切りつけられたような鋭い痛み、そのどちらでもない点の痛み。小さな点を中心に広がっていく焼ける痛みだ。
「あすか。逃げるぞ」
「う、うん」
 俺は痛みを無視して、あすかの手を引きながら障害物の多い森の中へと走る。伸ばした右手までも侵食するように肩が痛んだが、この場で伏せているよりもずっとマシだ。その後も定期的に攻撃は飛んできたが、掠りこそはすれ先に食らった肩のような一撃は受けずにその場から逃げ出せた。
「なにが……」
 あすかが何かを言おうとしたのを左手で遮る。続けて、目で喋ると声で位置を図られることを伝えた。あすかは俺の意を察したのか、即座に黙ったが、代わりに俺の肩を指差して小さく震えた。
 俺たちがついさっきまで探していた人工物。小さな羽のついた真鍮製のバレルが俺の肩に突き刺さっていた。俺は左手でそれを掴み、奥歯が鳴るほどに噛みしめてそれを引き抜く。出血を伴う鮮痛。そのまま傷口に口を当て血を吸いだし、腐葉土の上に吐きだした。
「ダーツか……」
 敵に聞こえないように小声で呟き、痛みを噛みしめた。俺の手には抜いたばかりのダーツ。金属製のポイントには赤黒い血がぬらりと光っている。こんなものが山奥でいきなり飛んでくるはずが無い。となると簡単だ。俺たちは何者かに攻撃されている。
「……聖」
 近くにいる俺にも聞き取るのがやっとな声であすかが俺の手を握る。その目は固く閉じられ、手は小さく震えていた。明らかに怯えている。
 俺はあすかの手を優しく握り返し、そっと耳打ちした。
「ここに隠れていろ」
 それを聞いたあすかは首を振り、目だけで嫌だと言った。それは自らの危険度が上がるというようなものではなく、俺の身を案じてのものだと悟る。けれど、このまま隠れていてもいつかは敵に見つかるだろう。かく言う俺自身もあすかを連れたまま戦えるほど、敵の勢力を楽観してはいなかった。
 俺はダークグリーンのジャケットを脱ぎ、無言でそれをあすかに被せる。二人の生存率を上げる一番の方法は俺一人が出て行って戦うことだ。手を伸ばすあすかに背中で答え、走り出す。右肩の傷口から鮮血が滲み、見なくても袖まで赤く染まっているのがわかった。
 大丈夫だ。痛みはあるが、腕は上がる。走りながら大振りのナイフを抜き、襲われた平地で夕日に向かって叫ぶ。
「俺はここにいる!」
 来るなら来い。ナイフを構えた姿勢で中空を睨む。敵からの返答はない。当然だ。これは少年漫画の世界じゃない。
 直後、後ろの木がざわめいた。来るという直感。振り向きざまにナイフを盾代わりに振りかざし、敵の動きを探る。恐らく、見てから攻撃を弾くなんてことは出来ないだろう。敵の方がスピードも射程も優れている。近接戦になればこちらにも勝機はあるが、姿を隠して攻撃してくるような奴がわざわざ前に出て来るわけも無い。
 見えない敵から攻撃を受けるということは、普通の戦闘よりも数倍の神経を使う。一方的なアドバンテージ。相手は一人なのに、俺は全方向からの攻撃に対処しなければならない。背後からの攻撃だって当たり前。相手に組みつかない限り俺は永遠に後手を打たなければならないのだ。
 出て行き、的になりやすいようにわざと開けた場所に行った。その意を読んでか、相手はなかなか攻めてこない。攻撃すれば位置を察知される。こちらも不利だが、相手にとってもリスクはある。ただ、相手と俺で圧倒的に違うのは神経の疲労度だ。それ故の待ち戦術。あすかを一人にしている俺は焦りばかりが募る。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。数秒か、それとも数分か。敵の攻撃をじっと待ち続けるのは精神的に辛い。この間にもあすかが見つかり攻撃されているのではないかと気が気ではなかった。時間の感覚が何時間にも引き延ばされ、嫌な汗がこめかみを伝った。わずかな風、木々の揺れが全てストレスとなって俺を苛む。
 神経をすり減らす作業。攻撃は唐突に、しかし正確に来た。ありきたりながら有効な攻撃。背後から連続して二投。それを察知できたのは、初めから背後に全神経を払っていたからだ。
 回転する勢いで刃を斜めにかざし首への一撃をフォロー、身体の中心を狙った攻撃はダーツの特性でもあるタイムラグを利用して、急激な横移動によって避ける。二投目の挙動で相手の姿を一瞬だけ拝めた。黒い服に顔を覆うマスク。つばの無い帽子。忍者みたいなやつだ。
「逃がすか」
 今までの鬱憤を晴らすかのように俺は敵の姿を追う。背後十数メートル、全力で駆けだせば一秒もかからないだろう。しかし、思わぬことで相手の姿を見失ってしまった。走り出そうと足に力を込めた直後、背中にダーツが突き刺さり硬直する。
「後ろから……!?」
 後方からのニ投。それから見ても、敵は背後に潜んでいたはずだ。ではなぜ後ろを向いた俺の背中に矢が刺さる? 痛みよりも不可解な事象に頭が混乱した。しかし、そのことについて深く考えている時間はない。せっかく捕えた敵影を取り逃がしてしまう。焦燥感から目に見えた敵だけを無我夢中で追った。
「ぐっ……あっ」
 またしても背中にダーツを食らう。今度は立て続けに二本。左肩と右わき腹に冷たい金属が突き刺さっている。もう、痛みは感じていなかった。ただ、焦りと失血で意識が飛んでいく。これでは本当に的だ。俺は敵を追うのを諦めて、一旦、木の多い場所へと逃亡する。
 荒い息を吐き出し、太い木を背にしてダーツを一本ずつ抜いた。太い針が身体から抜けるのと同時に、生命の赤も零れ落ちる。ダメージだけ考えれば大したものではない。ただ、このまま攻撃され続ければジリ貧になること必至だ。
 俺は前方だけの意識を集中しながら、甘い覚悟で戦闘に入ったことを反省する。敵は相当の手練だ。しかも、一人ではなく複数。抜いたダーツを見るに全員が同じものを使っている。走っている俺に正確な投てきをするだけの技術を持ち、闇雲に攻めてきたりはしない。
 痛みで途切れ途切れになる思考を何とかつなぎ合わせ、結論を導き出す。わざと即死させないような武器を使い、毒も塗っていないところから見て、テロリストの一味、もしくはまだ顔を合わせていない幹部の連中だろう。こんな山奥まで御足労と労いたいところだが、内心では相当焦っていた。
 このままでは夜になる。現状打破するには、今ここでテロリストと戦うよりはあすかを安全な場所まで連れて行かなければならない。俺自身も今は大丈夫だが、このまま攻撃を受け続けていればじきに倒れるだろう。
 汗と血が背中をべっとり濡らしている。心なしか痛みも強くなってきた。今のところ攻撃は止んでいるが、いつ再開されるか分からない。どうしたらいい。思索の迷路に迷い込んでも出口はないのだろう。そんなとき、ポケットが小さく揺れていることに気付いた。携帯の着信のようだが、こんな山奥にも電波があったのか。
 意外なことに驚きつつも、携帯のサブディスプレイを見て絶句する。電波が一本も立っていないのに、メールが届いている。というよりも、初めから時間差でメールが出現するように操作されていたようだ。そして、そんなことをする奴の心当たりは一人しかいない。
「Yayoi-yoiyoi@xxx.ne.jp」
 本当なら今すぐ削除したいメールだったが、今はそうもいかない。気が進まないながらもメールを開くと、奴の口調そのままの本文があった。
「もしもーし、聖君だよね。元気してた? もしかして、死んじゃった? まぁ、このメールが読めてるってことは死んでないよね。良かった良かった」
 この女……いつか殺す。余りの腹立たしさに携帯をへし折りたくなるが、この後に続く文章を読んで、思いとどまった。
「それじゃあ、勇敢なナイト君。お姉さんとゲームしよう。私はまだテロリストとあなたたち、どっちの味方でもありません。でも、いい加減どっちかに付こうと思うんだよね。だから、あなたたちの実力を見せて頂戴。もし、三日以内に私の差し向けた刺客を倒せたらあなたたちの勝ち。出来なかったり、あなたかあすかちゃんが死んじゃったり、倒れちゃったりしたら、あなたたちの負け。手段は問わないわ。とにかく、倒せばいいの。殺しちゃってもいいよ。じゃあ、頑張ってねー」
 そこでメールは終わっていた。余りの怒りにこれまでの疲れが吹き飛ぶ。何がゲームだ。絶対に勝ってやる。そして、全部終わったら弥生をぶん殴る。それだけを胸の内に秘め、俺は携帯の画面を閉じた。

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