#52 人工呼吸
 いつだったか、一人でテレビを見ていた。自分以外の誰も占領することのなくなったリビングは、男の一人暮らしとは思えないほど片づいており、綺麗好きというよりは生活感が欠如していると言えるだろう。
 寝巻代わりのジャージに身を包み、風呂上りの一服を済ます。あすかが現れた頃から、俺の喫煙習慣はほぼ皆無になっていた。元よりそこまで吸っていたわけでもないが、時々口が寂しくなる。かといって、あすかがいると「未成年」という理由で思いっきり咎められるので、もっぱら吸うのは本当に暇な時……就寝前の一本くらいだ。
 何の気なしに付けたテレビ番組では家庭向けの医療番組がやっていた。特集は冬場の一酸化炭素中毒対策及びその応急処置の方法だった。ストーブではなく、エアコンを使用している家にとっては縁遠いことだと思いながらも、特に見たい番組も無いので煙草の火が燃え尽きるまでそれを見ることにする。
 まずは避難。救出射は共倒れしないように口を濡れたハンカチなどで覆い、被害者に意識があっても決して歩かせずに引きずるように連れ出す。意識が無ければ、呼吸を確認。呼吸が無い時は人工呼吸をゆっくりと二回。素早くを三回のペースで息を吹き込む。脈が無い場合は心臓マッサージをする。
 意識が戻れば、毛布などで体温の低下を防ぎ、救急車が来るまで安静にさせる。ここまでくれば後は医者の仕事だ。一酸化炭素中毒の死亡率は30%と言われている。適切な応急処置が為されれば、もう少し生存率も上がるのだろう。多めに見積もって90%くらいは息を吹き返せるはずだ。
 煙草の火がフィルターを焦がし、嫌な臭いがし始めたところで俺は煙草の火を消した。煙草に対する健康被害特集を始めたので、テレビも消す。蛍光灯に照らされた妙に明るいリビングの中に立ち込める煙の渦。儚く煙る紫煙を俺は肩で掻き消した。
*
 鬱蒼と茂る木々。炎上する車に怯え飛びさる鳥たち。秋風が吹き抜ける森の中で、俺はあすかに唇を重ねた。それは決してロマンティックな光景でもなければ映画で良くある泣かせるシーンでもない。ただ切実に生を失いつつある少女への必死な抵抗だ。
 目一杯肺に溜めた空気を深く、ゆっくりとあすかへ口移しする。口から伝わる柔らかな感触とわずかな唾液の味。目を閉じたままのあすかは身動き一つしない。当たり前だ、彼女は意識不明になるほど中毒の症状が進んでいるのだから。
 全て吹き込むと一旦唇を放し、もう一度限界まで息を吸い込む。肺が膨れ上がる感覚が痛みに変わっていた。先の爆発で傷を負っていたらしい。構うものか。二度目の人工呼吸をあすかに施す。
 ゆっくりと大量の空気を彼女の肺に送り込むと、あすかの薄い胸がわずかに上下する。確かに空気は入りこんでいる。だが、彼女の意識は戻らない。俺が感じたのは意識のないあすかの唇を奪った罪悪感よりも、このままあすかの意識が永遠に失われてしまうことへの焦燥感。確かな感触はあるのに、成果は出ない。酸欠と失血でふらつく頭で、いつか見たテレビ番組の内容を反芻する。脈があるかどうか、まだ確かめてはいなかった。
 人工呼吸をいったん中断し、あすかの胸に手を伸ばす。不純な意味はない。手首で脈を計るよりも心臓に一番近いところに直接触れた方が早いという単純な理由からだ。いつもの制服のブラウスに直接、手のひらを置き、全身の神経を手首から先だけに集中する。
「……脈はある」
 トクントクンと微かではあったが声明を刻む音を感じた。ほっと胸をなでおろした直後、自分の手が触れていた柔らかな感触から手を離す。不純な動機じゃないと自分で自分を正当化しようにも、触れてはいけないものに触れてしまったような気がして薄らと頬が火照った。
 俺は自分を律するために両頬を手のひらで叩き、再び肺に空気をためる。余計なことを考えている場合じゃない。脈があるとわかった今、俺はあすかが目覚めるまで人工呼吸をするだけだ。何度でも、何度でも、後で彼女が俺を罵倒しようとも、ただあすかが目を覚ますまで。
 吸いこみ、吹き込む。森の中、安らかに眠る少女にひたすらそれを繰り返す。過剰な呼吸の連続で脳が危険信号を鳴らしている。徐々に思考が麻痺し、唇を重ねる感触も彼女の味も初めのように罪の意識を感じさせるものではなくなっていった。それはただ麻薬のように脳を蝕み、救命のための行為を別のものに変えていく。
 言うならば、本能。ごく自然なことだ。感情と欲求の暴走も間違ったことじゃない。飲み込まれるような感覚だって本物で、全てを奪い尽くしたくなる衝動も俺に限ったものじゃないはずだ。
 だがそれを俺は必死に脳の隅に追いやった。抑制できないというディスオーダーを抱えた俺をそこまで抑えることが出来たのは彼女との思い出。まだ会って半年も経たないとは思えないほどに感じる絆。理性とはまた別の鎖で自分自身の中に渦巻く獣を縛る。
「ごほっ」
 ついに限界が来た。肺と背中が急激に痛み、意識が霞んで来る。視界が白んで、ぐるぐると回った。人工呼吸で倒れるほどやわな身体ではないという自負はあったが、あすかほどではないが俺もあの車内で有毒な煙を吸っていたのだろう。身体が自分のものとは思えないほど重く、自分の周りだけ重力が増したかのように俺は苔に覆われた地面へと吸い寄せられる。
 口内に広がる草と土の味。忘れてしまったかのように痛みはない。ただ背中を濡らす汗と血の混ざったものが酷く不快だった。このままじゃ、あすかを救えない。手のひらが地面を食み、爪の間に砂利が食い込む。軋む上半身、起き上がろうとする意志を無視するかのように、俺の視界が意識ごと暗闇に落ちた。
*
 暗闇の中で動けない俺は意識だけが鮮明で、生ぬるい液体の中を漂っているような夢を見ていた。俺はこれが死なのだろうと勝手に思い込む。永久の闇の中、来るはずのない終わりだけを待ち続ける感覚は実に不毛で無意味に感じた。俺が死ぬこと自体、哀しくもなんともないが、一つだけ気がかりだった。
「あすかもこんな感覚を味わっているのだろうか」
 俺がふがいなかったばかりに。信用ならないやつを信用した俺のせいで。霞のように彼女の存在が消えてしまう。それなのに俺は平然とぬるま湯に浸りながら意識を霧散させようとしている。許しがたいことだ。何よりも自分自身が。
 俺を包んでいた世界が泡のようにはじけた瞬間、無意識に目が開いた。何日も眠っていたような目の冴えと、身体を動かしてなかった故の倦怠感。違うのはここが自室でも病院でもないという現実だけ。赤みがかった空を見るに、時間はそれなりに経過しているようだ。
「聖」
 頭の後ろから声がした。覗き込むように見ているあすか。その目には純然とした光が宿り、不健康そうな俺を映している。
「良かった」
 生きていて良かったと心底思った。俺がじゃない、他でもない彼女が目を覚ましてくれたことに感謝した。その一言を発した後、突如、瞳の中の俺がぐにゃりと歪む。あすかが両目に大粒の涙を浮かべ、嗚咽を漏らしていた。
「死んじゃったかと……えぐ、思ったよぅ」
 普段は強がりで、泣くどころか弱さも見せないあすかが涙を隠そうともせずに泣いている。何も泣く事無いじゃないか。俺は手を伸ばし、彼女の涙に触れる。あすかもそれを止めようとはしなかった。
「泣くなよ」
「だって、だって……」
 両目をこすり、蹲るあすか。涙はとめどなく溢れ出し、いくら拭ってもあすかの目から零れ落ちている。こんなとき、俺はどうしたらいいのだろう。ふと、人工呼吸したときの記憶が蘇った。記憶と一緒に唇の感触も、あの時感じていた妙な感覚も。
「あすか」
 呼びかけた名前。それ以上の言葉は必要なかった。あすかは真っすぐ俺のことを見て、息が詰まったように目を見開いた。まだ涙の伝っている頬が薄らと桃色に染まる。絆が深ければ一言、たったそれだけのことで通じ合えるものなのか。察したあすかは鏡を前にした子犬のように固まり、俺のことを見つめている。焦れた俺は自分からあすかに顔を近づけた。
「だ、ダメっ」
 互いの吐息を感じられる距離まで近付かせておいて、あすかは全力で拒否した。俺は何がどう駄目なのかわからず、呆然とする。思わず、抗議しそうになったところであすかが肩を震わせながら言った。
「そ、そういうことは……もっと静かで、清潔なところで、したいから」
 あり得ないレベルの過大解釈。消え入りそうな小さな声で言うあすかの顔はさっきとは比べ物にならないほど紅潮していた。明確な否定ではない。性を暗示させるその言葉が余計に俺の中の獣性を掻きたてる……が、そこで俺は動きを止めた。気づいた時には笑っていた。こんなに笑ったのは何年振りだろう。腹が痛い。男としての欲求にあすかの勘違いが勝った。
「何がおかしいんだ、この変態っ。寝てる間にキスしたくせに!」
「な、なんでそれを……」
 正確には人工呼吸だから、違うのだが。それでもあすかは完全に気を失ってたはずだ。人工呼吸が必要な状態だったと推測出来たとしても、言い切ることは出来ないはず。あすかは動揺する俺の唇を指差して言った。
「お前の口に私のリップがついてる。それに……」
 言われた直後、手で唇を拭うと薄いピンクとほんの少しだけラメがついた。良く見るとあすかの唇にも同じものが付いている。あの時はそれに気づけるような状態ではなかったが、完全に見落としていた。
「それに?」
「皆まで言わせるな」
 腕を組んでそっぽを向くあすか。あすか自身もそれが人工呼吸のせいだと分かっているのだろう。だから、俺もそれ以上は追及しなかった。何よりそんなことで痴話喧嘩していられるような状況でもない。
「念のために言っとくが人工呼吸だからな。日が落ちる前にどこか寝床を探すぞ」
「人工呼吸はノーカウントだからな!」
 全く会話が噛み合っていない。でも、そのことを突っ込もうとは思わない。ただ、あすかが隣にいてくれさえすれば良い。絶望的な状況で光を見出すには彼女の存在が不可欠だと、心の中で呟いた。

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