#51 サバイバル
 強くなりたい。そう思ったことなどなかった。俺には強くなるための理由が無かったのだ。

 モーターの駆動音、大きなタイヤが砂利を砕く音、微かな息づかい。それだけが聞こえる車内。かれこれ何時間経過しただろうか。少なくとも一時間以上はこの状態が続いている。
「なぁ、いつになったら着くんだ?」
「もう少しよ」
 寸分変わらぬ弥生からの生返事。こんな会話がもう五〜六回続いている。どうせ同じセリフが返って来るのを知りつつも、俺が何度も同じことを聞くのには訳がある。今、俺は言葉以外のあらゆる自由を奪われているのだ。
 まず手始めに目隠し。完全な遮光タイプで簡単に取り外せない仕組みになっている。次に拘束ベルト。両手両足は完全に座席へと固定されており、胴体にも腹、上半身にそれぞれ二本がしっかりと結ばれている。シートベルトなどとは決して呼べない代物だ。
「車体が酷く揺れるから」
 そんなことを弥生から言われ渋々同意したものの、身動き一つ取れない状況がこれほど辛いものだとは思わなかった。隣にいるあすかは眠ってしまったのか、一言も口にしない。視界が奪われた今、あすかの存在を確認できるのは右手に感じる体温だけだ。
 出発前に車に乗ってる間、身動きが取れないし目も塞ぐと言われた時、あすかはこれでもかと抵抗した。まぁ、普通はそうだ。こんな状況で車に乗るのは極悪な犯罪者か、よほどの狂人くらいなものだろう。
 彼女が抵抗した理由としては、トイレに行きたくなったらどうするだとか、動けない間に何をされるか分かったものじゃないとか色々だったが、結局はどの意見も弥生に却下された。トイレに関してはあらかじめそう来ると弥生も予想していたらしく、両足を怪我している時などに使われる尿瓶を俺たちに見せてくれた。それを見た時のあすかと言えば、目も口もだらしなく開いており、思わず苦笑してしまった。
 それにしても、この状態はいつまで続くのだろう。実際に尿瓶を使わざるを得ないほど長い間拘束されるのだとすれば、本当に笑えないことになる。車の揺れも心なしか大きくなってきているし、弥生はどこに向かっているのだろうか。何より、俺たちはどこに連れて行かれるのだろうか。
 俺がもう一度、到着時刻を尋ねようと口を開いた時、けたたましいウィールの悲鳴が聞こえ、ほぼ同時に前にふっ飛ばされそうな衝撃が全身を襲った。眠っていたあすかもこの拍子に目覚めたらしく、俺の右手が強く握られる。
「着いたのか?」
 俺が投げかけた質問は弥生の背中にぶつかって、そのまま運転席のシートに落ちる。やっと帰ってきた返答は後ろ手で絞められたと思われるドアの音。どうやら到着したわけではなさそうだが、閉め切られたドアによって外の情報は全く入ってこない。ただ、不安だけが車内に広がり、それを打ち消すようにあすかが口を開いた。
「聖、私たち……これからどうなるんだろうな」
「わからない」
 答えにならぬ答えを返す。俺は強くなるために弥生の言葉を信じ、行く先のわからない車に乗った。だが、もし弥生の言葉が全て嘘でテロリストの手先だったとすれば、俺たちはこのままなすすべなく殺されることもあるだろう。俺はそのリスクを覚悟して、選択した。けれどあすかはどうだ。あすかの目的は、これだけの危険を冒す理由はなんだ。
 試しにシートベルトを無理矢理に解こうと全身を動かす。危険防止のために作られた強力な線維は言うまでも無く切れることが無く、自力で自由になることは叶いそうも無かった。不安が喉に詰まり声を出せない。こんなとき、人は神にすがるのだろうか。
「聖、なんだか変な音がしないか。臭いも」
 言われて初めて、気づく妙な音。耳を凝らしてようやく聞こえるような小さな音。アイドリングによる駆動音にかき消されて今まで存在を隠していた何かが着実に何かを刻んでいる。それが針の音だと気づいた瞬間、全身の毛穴から何かが吹きだすように感じられた。
「あすか、その音はどこから聞こえてくる。大体でいい」
「多分、足元……う」
 答えようとしたあすかは何かを吸いこんで激しく咳込む。車内に充満しているものは不安では無かった。恐らく身近に潜む有毒ガス、排ガスが車内に漏れ出している。そして、この仮説が正しければ今も着実に鳴り続けているアラート音のようなものの正体もおのずと知れてくる。
「あすか、出来るだけ息を吸い込むな。俺が何とかする」
 こくんと首を下げる動作が指越しに伝わる。何とかすると言ったものの状況があまりにも悪過ぎる。視界ゼロなのはまだいいが、ほぼ身動きが取れないという状態は詰みと言っても過言ではないだろう。
 唯一の希望はと言えば、太ももと足首にベルトで無理矢理に括りつけたナイフだった。いくら俺でもつい最近まで敵だった弥生のことを完全に信用していたわけでもなく、武器の携帯は怠らなかった。手首を限界まで曲げて人差し指と中指が何とか届く距離にナイフの柄がある。ただ、それイコールナイフを使って見事車内から脱出出来るではない。現に今もナイフを取り出そうと四苦八苦しているが、指先だけの力で肉厚のナイフを固定してあるホルダーから取り出すのは至難の業だった。ボタンで軽く固定しているだけなのだが、それでも固い。
「くそっ、くそっ!」
 こめかみを伝う汗。暑さからでは無いのはわかってる。焦っていては何も出来ないと知っていても、焦らずには居られなかった。自分一人ならまだいい。人一人挟めるかどうかの距離にあすかがいるのだ。
 汗で滑る指先。一向に抜けないナイフ。手首が痛くなってきた。ちょっと強く引けば、すぐにでも取り出せるホルダーなのに、それが出来ないのは単純に手首の可動範囲外にナイフがあるからだ。もう五センチ近ければ確実に抜けるはずなのに。
「聖、苦しい……」
 あすかが弱音を吐くことは珍しい。それほどに今追い詰められているということだ。かく言う俺自身も排ガスを吸ってしまっていて、多少ではあるが身体に異常をきたしている。時間は残り少ない。肝心な時に役に立たない自身の武器を呪い、悔しさで車のシートを握る。弥生の理不尽な仕打ちよりも、自分の甘さに苛立ちが募る。
 そんなとき、つい前日の出来事がフラッシュバックした。月読が俺に渡した紙切れに書かれた文字。『極限』。なんと今の状況にふさわしい言葉だろうか。俺が生まれた瞬間から身に着けていた傍迷惑なオルタナティブ。排ガスが充満していることを無視して、肺に空気を押しこむ。すぐに吐き出したい衝動に駆られるが、息を吐き出す代わりにシートを握った両手に思いっきり力を込めた。
「うぉおおお……!!」
 爪がシートに食い込む。ちょっと爪を立てたくらいで傷がつくようなものではない。わかってる。だが、それを知っていてさらに力を込める。指先が圧力で歪む。爪が限界を超えた力にみしみしと軋み、激しく痛む。それでも力は緩めない。俺と車のシートの力比べ。俺の指が勝つか、シートの耐久力が勝つか。勝敗はシートの断末魔で決する。
 たまには役立つじゃないか、俺の馬鹿力。俺は自らの力を自画自賛しながらも破れたシートを力まかせに破る。一度亀裂の入った革はもろく手首の力だけでも簡単に破ることが出来た。今度はシートの剥き出しになった部分を全身の力を使い、思いっきり引き剥がす。ふかふかのシートは見るも無残に抉られ、俺の手首にわずかではあるが溝が出来た。ほんの三センチほどの隙間。考えるよりも先に指が伸び、太もものナイフを引き抜く。わずかに浮いたナイフの柄を手のひらでしっかり掴んだ。
 そこからは早回しのような動き。研ぎ澄まされたナイフの刃でまずは自分の手首を縛る線維を切断する。ブチブチと音を立てて切れる繊維。手首が解放されてからは左手のベルトを切断。そこでようやくアイマスクを取った。目が外気に触れて、焼けるように痛む。車内はもう排煙で満たされていた。まずは煙をどうにかせねばならない。ドアの取っ手を掴み、慎重に開ける。新鮮な空気が入り込む前に排煙が外へ流れ出していった。
 これで一酸化炭素中毒は防げる。そのことに安堵する時間も惜しんで、今度は上半身を縛るベルトを一本ずつ切断していく。力をかけ過ぎればベルトの弾力でナイフが弾き飛ばされるので、時間が無いながらも精密な動作を求められた。
 線維を断ち切る嫌な音で上半身が解放される。割と自由に動けるようになったところで、今度は足を固定するベルトを切り裂く。割としっかり固定されているので自分の足を切らないように切るのが難しい。ノコギリのように何度も刃をストロークさせて切るのにも徐々に慣れて来た。自分が自由になれば今度はあすかの番だ。
「あすか! 意識はあるか!?」
 返事が無い。意識は有っても返事が出来ないほど衰弱しているのは間違いなかった。先に異変に気付いたこともあり、あすかのいる場所の方が煙の回るのが早かったようだ。目を閉じ安らか眠っているあすかを一刻も早く車外に出さなければ、命に関わる。
 やっと足のベルトが切れた。狭い車内を這うようにしてあすかに近づく。迷っている余裕はない。全身を使いナイフを薙ぎ払うようにまたは断ち切るようにして使う。最初は悪戦苦闘した強固なベルトも今はすんなりと引きちぎれる。全身の制約がなくなったことも大きな要因だった。ものの一分ほどであすかを拘束していたベルトを切り刻み、俺は動かないあすかを抱えて車外へと転がり出た。
 見たことも無い場所。豊かすぎる自然に唖然とする暇も無く、まずは新鮮な空気を吸えるだけ吸い込み、ふらつく足で駆けだす。あすかの身体は見た目通り酷く軽かった。草や飛びだした樹の根に何度も足を取られながらも、ついさっきまで閉じ込められていた牢獄から距離を取る。車内に漏れ出す排煙、アラート音、この二つから察するに答えは明白だった。丈夫そうな木の裏に逃げ込んだ直後、予想通り爆音とともに車が炎上した。
「そこまでやるかよ……」
 俺は全身から汗を流しながら、抱えたあすかを草の上にそっと寝かせる。極度の緊張感と慣れない作業の連続で全身に重い疲労が乗っかった。車内での揺れも想像以上に身体を消耗させている。そのまま倒れ込んでしまいそうな疲労感の中、汗でネトつく前髪の隙間に未だ目を開けず、横たわっているあすかが目に入る。
「あすか!」
 一酸化炭素中毒。あすかの意識どころか命まで奪おうとしている症状に、俺は反射的に彼女の口を自身の口で塞いだ。
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