#48 親友
 言葉を失くす。それがどういう意味なのか、実際に経験するまでは芯の部分では理解していなかった。
 それは文字通りのことで、どんなに声を出そうとしても言葉にはならなかった。目の前で起こっている現実。聞かされた言葉。それを現実だと認識することを拒否するかのような時間の空白。
 どうして俺は止めなかったのだろう。言葉だけでも、形だけでもそうすることは出来たはずなのに。あいつからの一言を聞いた瞬間に全ての景色と一緒になって思考力が吹き飛んでしまっていた。
「僕は君の敵だ」
 放たれた言葉は銃弾よりも早く、ナイフよりも鋭い痛みで俺を貫き、俺は情けなく膝をつくことしかできなかった。
*
 ヘリよりの落下直後、俺は目をつぶったまま必死にしがみつくあすかを月読に預け、軽く拳を握る。足を引いた時に無理やり着せられた礼服が邪魔になるかと思ったが、意外と動きやすくて驚いた。
 今ある状況。銃を構えた楽弥に見知らぬ金髪の男。その間で無防備に佇むイルカと月読先生。味方三人にテロリストと思しき男。一見して有利だと思ったが、それほど甘くはなかった。
「十一番、いや霜月聖君だね。初めまして。僕は葉月煉司です」
 礼儀正しく挨拶した男。彼は構える俺に対して簡単な自己紹介を済ませ、恭しく礼をした。しかし、その動作に一切の無駄は無く、隙はと言えば皆無だ。体形が良いとも言えないし、凶悪な武器を持っている様子も無いのに、言い知れぬ不安のようなものを感じる。
「君を迎えに来たんだ。僕と一緒にこの国を作り変えよう」
 煙草に火を付けながら、奴はそう言う。リラックスした雰囲気を醸し出しながらも、その発言は血迷っているというより他に無い。俺は紫煙に隠れた表情を睨みつけ、唾を吐いた。
「テロリストが……観念しろ」
 何の前触れも無く土を蹴り、跳ぶ。男はそれを避けるそぶりも見せずに、タバコを燻らせていた。俺の出せる最高の速度、完璧なタイミングで繰り出した拳は、幻でも突いたかのように空振りした。
「君は誤解している。テロリストとは何か、僕たちの組織のことを理解できていない」
 煙の陰から声が聞こえてくる。さっきの葉月とか言う男の声に間違いない。だが、どうして奴は俺の攻撃を食らっていないのかがわからず、俺は拳を突き出したままの姿勢で硬直していた。その刹那、拳に熱を感じ反射的に腕を引っ込める。
「僕たちは何も暴力で世界を支配しようとか、君たちをどうこうしたいとか考えてるわけじゃないんだ」
 葉月の言葉を合図にしたかのように煙が掻き消え、男の顔が覗く。白く、きめ細かい肌をした顔のすぐ前。俺の渾身のストレートは彼の咥えていた煙草を掠めることもできていなかった。
 男は咥え煙草をしているとは思えないほど流暢に喋り、俺の凶行など気にもかけずに己の言いたいことだけをのたまう。
「この国は腐敗している。だけど、まだ手遅れじゃない。僕は手遅れになる前に、この国を再生したいだけなんだ」
「何が言いたいんだ」
 ファイティングポーズを崩さずに、男の言葉を促す。要領を得ない抽象的な言葉ばかり並び立てる奴の態度、それ以上に俺のことをまるで相手にしていない様子が鼻についた。
「君はニュースとか見るかな。この国の政治家はまるで何も分かってないよね。政治家だけじゃない。みんな、自分の置かれている状況を理解していない。今乗っている船が沈没しかけているのに気づいていながら、船の上で食糧の奪い合い、もとい金の奪い合いをしている」
 おかしいよね。全く笑っていない顔で煙草をふかす男。葉月は心から残念そうに顔を伏せ、携帯灰皿に煙草を押しつける。世間話でもするように、あるいは諭すように続けた。
「だから、僕たちは船を修理しようと思うんだ。そのためには元凶を除去しなきゃならない。腐敗した政治家、金のことしか頭に無い人間、船があるのが当たり前でそれに関心すら持たない人間……この船に人はもう乗りきらないんだ。船底を修理しても、今言ったような人たちが船底を腐敗させ、その重量で船体を沈めようとしてる限り意味が無い。画期的な技術革新や膨大な借金で今まで持ちこたえてたけど、それももう限界に来てる」
「だから、何が言いたいんだよ!」
 遮るように叫ぶと男はどこから取り出したのか、新しい煙草に火を付け言った。
「僕たちが新しい国を創るんだ。選ばれた月の子供たちがね。安心して、君もその一人だから」
 メンソールの煙が俺を掠め、無意識のうちに払う。葉月の言うことは間違っていない。けれど、それを押しつけられるのは気に食わない。許せない、そう思った。
「聖ちゃん」
 聞きなれた声は背後から。振り返ると無言を通す仲間の後ろに悪戯っぽく笑う楽弥の姿があった。その様子は今までとなんら変わらない。ただ、構えている銃口が俺に向いている以外は。
「楽弥」
 一ミリもぶれないその銃口に混乱しながらも親友の名を呼ぶ。今なら「冗談だよ」と笑って、こちらに歩み寄って来るのではないか。そんな楽観だけが頭の片隅にある。
「聖ちゃん、最後に会えて嬉しいよ」
 最後にってどういうことなんだ。そんな言葉は口に出す前に消える。それと同時に楽弥の笑顔も消えていた。
「この世界は生きづらいよね。弱者は虐げられ、強者がのさばるこの国さ。僕たちの意見は決して届かず、はいはいって聞き流されちゃう。なんでだと思う?」
 意味深な問いかけ。返事に窮し、無言でいると楽弥は助け船を出すように答えを出した。
「それは僕たちのことなんて誰も知らないからさ。知ってても、興味が無い。僕たちが苦しくても、死にそうでも結局それは僕たちがつらいだけで、他の人には関係ない。自己中心的な考えだけがこの国を満たしている。聖ちゃんは良いよね。顔もいいし、背も高いし、腕っぷしもある。典型的な強者。君ならどんな環境でも生きていける。お世辞じゃなくそう思うよ」
 表情を変えずに淡々と述べる楽弥。それが何を意味しているのか、そして最後にどう締めくくるのか。嫌な予感だけが胸の内で渦巻き、心臓が早鐘を打つ。
「実はさ、こんなこと言う必要なんてないと思うんだけど……あえて言うよ。僕は君が羨ましい。むしろ妬ましい。出会ったときからそう思ってた。こいつは僕に無いものを全部持っている。そんな気持ちは日を追うごとに増していって、今では憎らしいとさえ思うよ」
「楽弥……」
 呼びかけた親友が言葉の代わりに返したのは連続した破裂音。俺の足元に向けて放たれた無数の銃弾は土くれを穿ち、俺の言葉をかき消した。
「馴れ馴れしく呼ぶな。君とは今日でお別れだから今までずっと言いたかったことを言っておくよ。リア充爆発しろ」
「……っ!」
 いつもの軽口では片付けられないほどの怒りを込めた言葉。冗談でも嘘でもなく、本心からそう言っている。言葉の意味など関係なしに目が本気だった。
 楽弥は奥歯を噛みしめる俺のことを無視して、金髪碧眼の少年に語りかける。
「葉月煉司。癪な奴だが、僕の考える未来にお前の組織は必要だ。操作のオルタナティブを持つのは僕。僕がお前のテロ組織に加わってやる。だが、そこのイケメン、テメーはダメだ」
「はは、喜んで」
 満面の笑顔を見せ、お辞儀をする葉月。二人に挟まれた俺は蚊帳の外。信じられない発言に打ちひしがれる暇すら与えられず、楽弥はまだ熱い銃口を俺の額に押し当て、口端を歪めた。
「霜月聖。僕は君の敵だ」
 見降ろし、突き放す楽弥。唐突に訪れた別れ。それは裏切りという最悪の結果で俺の胸を貫き、俺はその衝撃に耐えきれず膝を突いた。
*
 その後のことはほとんど覚えていない。俺の意識の外で事は進み、いつの間にか俺は保健室のソファーに座らされていた。傍にいるのは月読、イルカ、あすか、弥生の四人。
「楽弥は……?」
 俺は影の無い親友の名を呼び、周囲を探す。沈痛な顔をしたイルカとあすかは揃って首を横に振った。いつも通りの無表情で俺を見降ろしている月読を押しのけて、弥生が俺の前に立つ。弥生はついこの前の、少女を撃ち殺したときと同じ表情で俺のことを見据え、予備動作も無く俺のことを殴った。
 大きな音を立ててソファーごと床に転がる俺に向けて、弥生は残酷な事実だけを突き付ける。
「寝言言ってるんじゃないわよ! 師走楽弥はあんたを裏切った。あいつはもう仲間じゃない。敵だ!」
「嘘だッ!」
 反射的に飛びかかり、弥生を殴ろうとするが、俺の拳は弥生の片手で止められる。激情に任せただけの行動に力は微塵も入っていなかった。ほんの少しの間、二人組み合った状態でいたがそれもすぐに終わり、俺は保健室の床に座り込んで顔を伏せた。
「楽弥……どうして、どうしてだよ」
 わかっていたはずだった。あれが嘘ではないことくらい。ただ、夢であって欲しかった。楽弥が、楽弥が敵になるなんてことは。
「聖」
 可愛らしいメイド服に身を包んだあすかが座り込んだ俺に合わせてかがみ込む。そして、何も言わず俺の頭を抱いた。それは哀れむわけでもなく、偽善からの行動でもない。服越しに体温が伝わり、首筋に熱い何かが落ちる。
「聖、少し休もう? いろんなことが起こって疲れたんだ。だから……」
 最後の方は掠れてほとんど言葉になっていなかった。ぽたり、ぽたりと落ちる涙。それを受けて俺も声を殺して泣いた。

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