#46 天使の剣
 轟音。十二番ディスプレイの画面が揺れ、ちょうつがいの壊れたドアが棚にぶつかる。そして、それに覆いかぶさるようにして黒いライダースーツの女が女子更衣室の棚を背に意識を失っていた。ただもたれ掛かっているというよりは、疲労によってそこで力尽きたという感じだ。
 今まで何の気にもとめていなかった女子更衣室の盗撮用カメラだったが、体育館でうさとテロリストが交戦していることから、倒れている女はテロリストだろうと推測できる。しかし、その光景はあまりに異様で、戦っているというよりも殺人事件の成り行きVTRであるとか、スパイ映画の最終決戦のような光景だった。
 ディスプレイにもう一つ人影が映る。ゆらりと服を揺らす、ツインテールの少女。両手は自分の血か相手の血かわからないが赤く染まりきって、滴を落としている。それが誰であるかは頭に付けたインカムから聞こえてくる荒い吐息が知らせてくれる。獣のように理性を捨て、本能だけで動いている……卯月うさの姿。
 倒れている女はその接近に気付いているのかいないのか、ぴくりとも動かない。画像が不鮮明でその動向までは細かくわからない。それでも、画面越しに緊迫感が伝わって来る。
 正義の味方とは似ても似つかないうさの背。普段の可愛らしいうさの姿は面影も無い。相手は血も涙も無いテロリスト。けれど、僕にはうさ自身がテロリストのように見えた。
*
 防御円に戻ることは許されなかった。意味不明の謝罪の後、卯月が取った行動は今までと全く変わることのない特攻。違っていたのは至近距離であったことと、彼女の眼の色だけ。
 彼女の拳が繰り出されると同時に私の体が宙に浮いた。踏み込んだ足、斜め下から突き出されたショートアッパー。彼女の身長の低さから顎には届かず、ちょうどみぞおちを抉るような角度で突き刺さる。
 痛みに身をよじる暇も与えられなかった。体育館の床が軋み、直後、彼女の身体の上下が入れ替わる。凄まじい筋力から放たれたサマーソルト。避け切れず、上履きの爪先が顎先を掠め脳が掻きまわされた。その後は認識も出来ないまま地面に叩きつけられる。
 何が起こったのか、理解出来なかった。というよりもそんな余裕はなかった。床に仰向けになったまま瞳に映ったのは、中空から飛びかかる卯月の影。両目は狂気に満ちて、窓から差し込む日を背に真黒い何かが落ちてくるようにしか見えない。
 腹の痛みを無視し、とっさにさっきまで自分がいた円の方に身体を転がす。落下までの数瞬。私の顔面があった部分の床が抉れ、爆砕した。
「ぐるるるるる……」
 声ではなく、唸り。対峙しているのは少女の姿をした獣だ。理性を破壊し、狂うことで身体能力を格段に高めるチルドレン。ロストは知能、オルタナティブは狂気という割に合わない力を与えられた失敗作。事前情報と比べても、予想を遥かに超えている。甘く見ていたわけではないが、それでも今の状況を持って有利を確信出来るほど楽観は出来ない。
「くっ……」
 腹を撃ち抜かれたような衝撃が襲い、意識が遠のきそうになる。脳の揺れは収まったが、それでも得物を両手で構えるのが精いっぱいだ。骨も恐らくは折れるまではいかないにしても、ひびくらいは入っている。相手も同じか、それ以上悪い状態なのだが、どうしてもそうは見えなかった。
 休んでいる時間など無い。体育館の床を蹴り、飛んでくる少女。相変わらずの直線軌道。どこをどう通るのか、何をしてくるのか分かっても、それを回避することが出来ない。万全の状態でも避けることは出来ないだろう。言うならば大砲。それも命中し、私を殺すまで誘導してくるホーミング機能付き。
「なら、撃ち落としてやるまで」
 円の中心に立ち、残りうるすべての力を込めてオールを振りかざす。まるで野球で言うピッチャーとキャッチャー。向こうの球種は真っすぐのみ。それも、私は当てるだけでいい。
「今ッ!」
 気持ち早めに振った。バットのようにスイングではなく、叩き潰すような振り降ろし。次の攻撃は考えていなかった。この一撃で仕留められなければジリ貧だ。
 当てなければならない攻撃。全身全霊を込めた一撃は空を切る。悪態を吐く間もない。武器を戻して防御。間に合うかどうかは賭けだ。
「えっ?」
 武器が上がらない。腕が上がらないほどのダメージを受けたのか。いや、違う。腕が上がらないのではなく、私の手にした武器が重くなっている。矛先に目をやると、そこにはあり得ない光景が広がっていた。
「くくくくきききき、お、そ、い」
 満面の笑みを浮かべた卯月が私の武器に乗っていた。高速で振り下ろされた武器の上に、平均台のように乗っている。決して私の攻撃が遅かったわけではない。卯月の反射神経が人間のそれを遥かに凌駕している。
 力尽くでそれを振り落とそうとした。相手は四十キロもない、軽い少女だ。痛む背筋を酷使し、思い切り振り上げる。武器に乗った卯月はそれに逆らうことも無く、宙に舞う。不可避の間合い。正真正銘、最後のチャンスだった。
 落下する少女の速度を捕え、首を目がけてオールを突きだす。当たれば死ぬかもしれないが、迷ってる暇はなかった。殺さなければ、殺される。
「死ねッ!」
 宙に浮く鳥を貫くような突き。武器が武器だけに刺すというよりは、押し切る形に近い。伏せた刃が真っすぐに伸び、自然落下する少女の首を取る……はずだった。
「……!」
 戦慄。人の首を刈る感触の代わりに聞こえて来たのは、金属音。首を狙ったはずのオールはわずかにその上を穿ち、顔面へと走っていた。それでも充分だったのだが、誤算は別のところにあった。
 私の放った突きは、卯月の顔、正確には卯月の歯で受けられていた。一歩間違えば口が裂け、顔面が真っ二つになる可能性もあるその行動。コンマ一秒も遅れられない判断を卯月は狂気染みた反射神経で対応したのだ。
「まずい」
 金属製のオールを噛んだ卯月は不快な顔でそれを放し、口元を拭う。驚いたというよりも、恐ろしかった。ありえないことをさも当たり前のように行う獣。実際の獣よりも獣らしい少女。自覚してしまった。命を脅かされているのはテロリストである私であることを。
 少女は私の動揺を見逃すことなく突っ込んできた。反射的に武器を戻し、盾にする。軽金属ではあるが、十分な強度を持つ武器だ。私の前に立ったそれに全てを託し、防御に徹する。攻撃に回れば、また異常な行動で回避されるに違いないのだから。
「ぐっ、あああ!!」
 折れた。私の心ではなく、軽金属のオールが。へし折れるのではなく、真っ二つに折れた。素足の蹴りが私の武器に当たった瞬間に私の手首も折られていた。あり得ない方向に向いた手首が目に入り、その直後に叫び出したくなるような激痛が襲い来る。
「私の武器が……嘘、嘘、嘘!」
 腕が折れたことよりも、気が狂いそうになる痛みよりも、武器が折れたことが私の脳を満たしていた。脛に真っ赤な線を残しながらも、真っすぐ歩いてくる卯月のことも目に入らない。長かった私の武器。こんなに短くなっちゃったら、使いものにならない。
 卯月が狼狽する私の襟首を掴み、お互いの息がかかる距離まで近づける。掴んだまま、顔面を殴られた。鼻が折れ、鮮血が飛び散る。掴まれているせいで、逃げることも出来ない。
「短いよ、こんなに短いのじゃ駄目」
 折れた両手の中にある武器の残骸を見て、そんな言葉が漏れる。戦意喪失どころではない。今にも泣き出しそうなほど辛く、切ない感覚だけが胸を締め付けていた。
「うるさい」
 今度は口元が殴られる。続けて喉を握られた。肉が潰され、頸骨が軋む。呼吸が遮られ、無理やり黙らされた。静かになった私を無感情な瞳で見つめ、掴んだ首を地面に押し当てるように落とされ、後頭部を思いっきりぶつけられた。
「ぐぼっ」
 舌が切れ、脳が揺れる。もう何も考えられない。それでも頭の片隅には折れた武器のことがわずかに残っていた。
 死んじゃえ。そんな言葉が聞こえ、ふいに身体が宙に浮いた。首を掴まれたまま無理やり持ち上げられ、投げられたらしい。意識があるだけでも不思議な状態でも、手にした武器の残骸は放さなかった。
*
 倒れたテロリストに近づく影。息があるかもわからない、ライダースーツの女。決着は既に付いていた。これから行われるのは戦いではなく、一方的な虐殺。
 僕は何度もうさに呼びかけていた。もういい、やめてくれと縋るように。しかし、言葉は帰ってこない。聞こえてくるのは荒い吐息だけ。一歩、また一歩近づいていく足音が死神の足音にも聞こえる。
 あと数歩でうさの手がテロリストを肉塊に変える。どうにか止める手段はないかと考えた矢先、一定のリズムで聞こえてきていた吐息が急に途切れた。
『うぅ、ううう……あああ』
 声が途切れると同時に、胸を抱え膝をつくうさの姿がディスプレイに映し出される。インカム越しに聞こえてくる、水濁音の混じる咳の音。うさの体が何度か大きく上下し、うつぶせに倒れた。
「うさちゃん、大丈夫か!?」
 相変わらず、返事はない。インカム越しに聞いていた、赤の薬という言葉。その言葉の直後、急に芽生えた攻撃性。以前、保健室で保険教諭の話していた言葉を思い出す。
「心臓に負担のかかる……薬」
 それをうさは一体何錠飲んだんだ? 言葉が真実であれば、最低でも三錠。恐らくはそれ以上飲んでいる。強力な力と引き換えに、重すぎるリスク。その先に見える考えたくない未来に、冷や汗が伝った。ここから全力で体育館に向かったとしても、最速で五分はかかる。しかも、僕はここを離れるわけにはいかない。イルカの場所が一番近い、今からイルカに行ってもらうしかない。
「イルカ、うさがやばい! 至急、助けに行ってくれ。場所は……」
 そこまで言いかけ、言葉が止まった。ディスプレイに映ったもう一つの影。カジュアルな服装に不鮮明なカメラからでもすぐにわかる金髪の男。
「煉司?」
 嫌な予感がした。煉司の手が伸び、うつぶせのうさを片手で持ちあげる。その後、空いている方の手でテロリストを持ちあげた。
『盗み見とは趣味が悪いね。楽弥』
 細い体に似合わぬ膂力で両肩に二人の女を背負った煉司が間違いなく俺に向けて言う。胸ポケットに手を伸ばし、気づいた時にはタバコをふかしていた。
『アトリは返してもらうよ。それと、四番ももらってくね』
 じゃあね。嫌みのない笑顔を浮かべ、隠していた超小型カメラにタバコの火を押し当てる。その瞬間、映像が途切れ、真黒になったディスプレイに不安と苛立ちに身を焦がす僕の顔だけが映った。

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