#43 僕の中のアスモデウス
 「雨は、全てを洗い流してくれる。血も罪も俺様にぶっかかったコーラもな。自分の好きな時に雨を降らすだけ……それが俺の能力。十二の月の中で一番使えないゴミみたいなオルタナティヴだ」
 皐月が言った言葉の半分も聞き取れない。僕はぬかるむ土に足を取られ、無様に転がされていた。
「俺様にとってはこんな作戦なんてどうでもいいことなんだがな。嘘つきがたまには本当のことを喋るってのもオツなもんだろ。なぁ、七番君」
 不敵な笑み。その半分は僕の右目に向けられた傘の先端で見えない。ほんの一瞬の隙、一夜で崩れ落ちる城のような僕の計画。勝ち目などと呼べるものは初めからほとんどなかったにもかかわらず、あと一手で王手をかけられる段階で、致命的なミスを犯した。
 僕は躊躇ったのだ。人を死に至らしめることに。半端な覚悟の代償を知っていながらも、僕の手は動かなかった。
「痛ってて……。正直、油断したわ。タッパだけの雑魚だと思ってたからよ。全身が痛え」
 痛い、痛いと連呼してはいるが、皐月の切っ先はまるでぶれること無く僕を真っ直ぐ見据えていた。回避行動が取れないほどの至近距離。頼みの綱であるアイリスは中空を心配そうに飛びまわり、蟻は突然の夕立に巣穴へ帰っていった。
 南米のスコールのような豪雨が僕を濡らす。腰は引け、腕には力が入らない。万事休す……いや、絶体絶命。例え今の状況を打破出来たところで、その先はない。
「なんか言えよ。俺を追い詰めた時のドヤ顔はどうしたんだ? 退屈させないでくれ」
 まぶたを切られ、血の涙を流しながら皐月が言う。僕は、こんなところで屈してしまうのだろうか。無様に頭を下げ、自らテロリストに捕まることを選べば、命だけは助かる?
 右手で泥を握った。細かな砂利が爪や手のひらを撫でるが、痛くはなかった。ただ、悔しい。何もできない自分が憎い。無駄だと知りながらも力が欲しいと神に祈った。
「いい顔するじゃないか。なぁ、交渉しようぜ。俺たちの仲間になるなら首を縦に振れ。死にたかったら首を横に振れ。簡単だろ? 言葉はいらねえ」
 そういや喋れねえんだっけか。左手で片目を覆い哄笑する皐月。握った拳にさらに力が入り、爪が手のひらを食い破った。雨で下がった体温とは裏腹に、胸の内は黒い憎しみの炎が渦巻いている。螺旋状に渦巻く炎は次第に形を変え、荒い筆跡のような軌跡を描いた。
『あいつは敵だ。殺せ、殺してしまえ。全身を噛みちぎって殺せ。目玉を啄ばんで殺せ。蠱毒の炎で焼き殺せ』
 ドス黒い怨嗟の声が頭上にこだまする。燃えるように体が痛み、全身の感覚が敏感になる。その瞬間、雨を掻き消すように周囲が滲んだ。
「おい、口パクで何言ってんだよ。遺言か? それとも命乞いか?」
 皐月に言われて、初めて気づく。口角が歪み、頬の筋肉がせり上がる。僕は心に浮かんだ言葉を全て口にしていた。誰にも聞こえないはずの呪いの言葉が内腑から溢れ出して止まらない。
 何かに気づいたように皐月の表情が歪む。背中に走る戦慄。不規則に飛びまわるアイリス。何か悪い病気にでもかかったかのようにフラフラと飛んでいる。よく見ると、アイリスの白の他に黒い影が集まってきているのが見えた。それだけじゃない、周囲に感じる嫌な気配。何十対ものの視線を感じる。
「おい、やめろ。その口を動かすのをやめろ! やめ……ぐあッ!?」
 何か言いかけたところで、皐月の言葉が絶叫に変わる。薄汚れ、元の色がわからないほど汚れた子犬が皐月の足首に噛みついていた。ろくに手入れもされていない牙が皐月の靴下を貫通し、赤に染める。
「クソッ、なんだこの犬。ぶっ殺すぞ」
 僕に向けられていた傘を使い、子犬を払おうとする皐月。傘の切っ先が黒犬の肌を切り裂き鮮血が舞っても、子犬はその牙を抜こうとはしない。本能的にわかった。その子犬はとんでもない災悪の予兆に過ぎないことを。
「はぁはぁ……なんなんだよ、これは」
 どうあっても離れようとしない犬と格闘している皐月を見て、僕はよろよろと立ちあがり、普段実家でするように優しく語りかける。
『ありがとう、子犬くん。無理しないで、お母さんに任せてごらん』
 子犬と目が合い、暗く嗤う。その言葉が何を意味するのかをわかっていながらも、炊きつけるような言葉を吐く。僕の言葉が聞こえたのか、子犬は顎の力を緩め、皐月の傘に突き飛ばされて悲痛に鳴いた。
「このクソ犬っ……」
 悪態を吐き、血走った眼で何故か僕を睨む皐月。その認識は誤っていない。禁断の呪文を唱えながら、僕は皐月を直視した。視線の裏に潜むモノの存在を気づかせないために。
『喉笛に食らいつけ』
 言葉の裏、四つ足が砂利を踏みつける音が聞こえた直後、先の子犬の何倍もの体格を持った黒犬が涎をまきちらしながら皐月に飛びかかっていた。ほんの少し遅れて聞こえる悲鳴。顎の隙間から垣間見える狂気のうねり。血を雨に奪われながら、地面に押し倒された皐月を見て、更に呪詛の言葉を唱える。
『両手両足を啄ばめ』
 中空を踊っていたカラス達が一斉に下を向き、黒光りする羽根を天へ向けて急降下する。右腕、左腕、右脚、左脚それぞれ関節に一匹ずつが弾丸のように降り注ぎ、嘴を突き立てた。
「ぎあっ、ぐっ、うぉ」
 牙が、嘴が刺さる度に、楽器のようにリズミカルな音を立てる皐月。黒犬に抱きすくめられながら泥にまみれ、地面に張り付けられている。ごく自然に出てきた言葉が、黒い鳥獣を呼びよせていた。それもまるで僕の言葉に操られるように。その光景はそれは別の何かをしているようで、酷く気分が悪くなった。
 悲鳴をBGMに無数の気配を感じていた。蠢く複数の何か。それは地面の下、樹の中、空の上から無数の足と翅を振るわせ近付いてくる。一匹では大した力も持たない彼らも、群れれば怪物となる。
『焼き殺せ』
 僕の合図を待ち切れず黒い蟲の群れが僕の耳元を通り過ぎる。大小様々な彼らは羽虫のような小さなものもいれば、甲虫のようなものもいる。続けて足元から滅多にお目に書かれないような大きなムカデや大量のヤスデが湧きだしてきた。そして、ほんの少し遅れて、虎のような模様をした下腹部を持つ最強の殺人虫が放射状に現れる。
『そういや、こないだスズメバチの巣が出来たから、休日中に業者を呼ぶって言ってたっけな』
 独り言のように呟き、黒に覆われ何者か分からなくなった皐月を傍観する。計画が台無しになった代わりに、僕は力を手に入れた。いや、力に気付くことが出来た。僕は喋れないわけじゃない。僕は”人”と喋ることが出来ない代わりに、”動物”と喋ることが出来る。
『うさぎは腹を突き刺されて死んだ。三十一匹中、三十匹。皐月、貴様には三十回分死んでもらう』
 報いだ。僕は皐月がいた場所に背を向け、スズメバチに指示する。「君たちの新しい巣はそこのゴミに作るといい」と。
「……!!!」
 喉が破れ、絶叫の代わりに風の音が漏れる。それさえも、大量の羽音にかき消され僕の耳には届かない。背中で受ける断末魔。振り向くつもりは毛頭ない。僕はズボンに付いた泥を払い、びしょ濡れになった鞄を拾い上げ、未だ空で待機しているアイリスを呼ぼうと合図を送る。その時だった。
 瞬間、音が消し飛んだ。羽音、雨音、生きながら食われていく最後の声さえも吹き飛ばされた。そして、背中に受けた猛烈な衝撃。僕は予期せぬ攻撃に体勢を崩し、前のめりに倒れ込む。
『なんだ……?』
 反射的に振り向くと、地面に大量の蟲が落ちているのが見えた。それも、全てが握りつぶされ手足を毟られたような無残な姿で転がっている。中には焼け焦げているようなものまでいた。そして、それを踏まないように佇んでいる一つの影。見上げると、金髪碧眼の男が真黒な犬の首を片手で掴んで立っていた。
「この国は汚れている。雨なんかじゃ洗い流せないほどに」
 雨の中、タバコを燻らせる男。見覚えがあった。あのとき楽弥とゲームしていたあの男、煉司だ。
 僕はアイリスを腕にとめると同時に目を見開く。聴覚はいつの間にか正常に戻っていた。恐らく、さっきの衝撃と地面の虫たちから察するに、爆発物か何かを使ったのだろう。もし、あの時僕が後ろを向いていなかったら今頃どうなっていたかわからない。
「知ってるかい? 火には浄化作用があるんだ。だから、僕は火を選んだ。汚れたこの国を燃やし尽くし、新しい季節を迎えるために」
 煉司は一度大きくタバコを吸い、フィルターまでほど近くなった火種を気絶した黒犬の口内へと放り込む。そして、喉を無理矢理傾け、それを嚥下させた。おぞましい光景に息を飲み、背中に冷たいものが走るのを感じる。
 煉司は特に感慨も無くその犬を片手で放り投げ、全身傷だらけで倒れていた皐月を両手で抱きかかえ、言った。
「ねえ、文月イルカ。君は失敗作だと思ってたけど、どうやらそれは僕の思い違いだったみたいだね。素敵な力を持ってるじゃないか。皐月も君みたいにもう少し頑張ってくれないかなぁ……」
 苦笑し、携帯電話でどこかに電話をかけ始める金髪の男。僕はそれをやめさせなければと本能的に思ったけど、なぜか手が動かなかった。頼みの綱のアイリスも絶対的な強者を感じてか、羽根をすぼめている。
「これでよし、と。この勝負は君の勝ちだ。そうそう、自己紹介がまだだったね。僕は葉月煉司。革命家集団、『第五の季節』の幹部だよ。今回は皐月がいるから一旦引くけど、またすぐ戻って来るからね」
 嫌みのない笑みを見せ、手を振る煉司。いつしか雨は上がって、灰色の空から陽光が差し始めている。彼が去り際にパチンと指を鳴らした直後、黒犬の身体が膨張し、爆散した。
『うわっ』
 黒犬の皮膚が弾け、飛び散る血と腸。僕がそれに目を取られていたわずかの間に葉月煉司と皐月零音は姿を消していた。


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