#42 僕の中のベルゼバブ
 放送室。様々な放送機材、防音設備、そして一番重要な鍵。それらが全ての整った環境は今の僕にとってとても好都合な場所だった。
 文化祭の時期になると放送室の出番は急増する。普段は昼休みの放送や業務連絡などにしか使用されないこの場所だが、今日の限ってはオフのようなものだ。生徒が自分の催し物を宣伝したり、普段は何が起こっても流れないような音楽を学校中に聞かせたりすることが出来るのだ。
 だから多分、僕が学校中に「今、テロリストに攻撃されてます。助けてください」と放送したところで誰も気にしないだろう。そんなことをするメリットは何一つないと分かっていても、想像するだけで少し楽しめる。
 僕はこっそり作っておいた放送室の合鍵を使い、堂々と入り口から侵入する。照明のスイッチは入ってすぐ左の壁にあるということは事前の調査でわかっている。まさかこんなことに使用するとは思っていなかったけれど、一見無意味に見えることでも後々役に立つこともあるんだなと思った。
「さてと、反撃開始だ」
 ヘッドフォンのマイクに手をやり、空いた手で放送室の機材に自前のツールを接続する。獰猛な獣のように唸りを上げるファンをそっと撫で、深く笑った。
*
 荒い呼吸に、悲鳴を上げる横隔膜。息が切れ、思わず膝に手をやった。運動が得意とは決して言えない僕がこんなにも必死になって走っているのには訳があった。
 無線で楽弥に指示された場所に向かっている途中でテロリストを発見したのだ。それも探していた復讐相手、皐月零音をだ。彼は前と似たような格好、黒いフード付きのパーカーにビニール傘という異様な格好でグラウンドをふらついていた。
 僕は本能的に走っていた。人波をかき分け、皐月がいるのとは反対方向に。見つかればあいつは間違いなく僕に攻撃を仕掛けてくるだろう。月読先生が言っていた、一般人には手を出さないといったルールも僕は信用していない。あいつはなりふり構わず僕に襲いかかり、あの傘を振りかざすに違いない。
 今すぐにでも楽弥に連絡したいと思ったが、残念なことに僕の頭についている高性能な機械はお飾りに過ぎなかった。指示は貰えるが、レスポンスは返せない。しかも、電波を使用することから携帯からの連絡も禁じられていた。
 ならば、どうやって彼に今の状況を知らせることが出来るだろう。今朝、うさの住む施設での出来事が頭をよぎる。不規則な呼吸、震える膝、こめかみを伝う汗。それらを全て無視して、僕は本校舎側に向けて絶叫した。すなわち、「特別学級方面に皐月がいる」と。
 無音の絶叫を発した直後、盛大に咳きこんだ。限界を超えたオーバーワークに喉が悲鳴を上げたのだろう。しかし、僕はまだ戦ってすらいない。だから、こんなところで倒れるわけにはいかない。
 スケッチブックを取り出し、改めて確認する。皐月を見つけた直後に書いた、僕と彼だけに通じるメッセージ。雑に破かれたページには赤い文字でこう書いた。場所と時間、僕の名前、そして「うさぎと同じ目に遭わせてやる」という勝利宣言。それを僕は皐月に紙飛行機にして投げつけたのだ。
 投げた瞬間に、僕は脇目も振らずに駆け出した。指定の場所、この時期人のほとんどいない僕たちだけの校舎に向けて。
 僕は汗を袖で無造作に拭い、深呼吸して息を整える。来たるべき戦闘に備え、これからのプランを頭の中で整理した。無手の戦闘に勝機は無い。計画のどれか一つにでも支障が出れば、僕は負ける。
「アイリス」
 肩の友人に向かって、声をかける。それを合図に彼女は僕の方を蹴って、風に乗った。アイリスはジェット機のようにほんのわずかな時間で加速し、後者に翼をひっかけないよう器用に上昇する。翼が風を切る音。学校の中にいることなどほとんどないであろうハヤブサは僕の頭上で大きな輪を作り始めた。
 次に僕は学生鞄のチャックを開けて、中身を覗いた。最初に目に入ったのはラベルの無いペットボトル。中には無色透明の液体が入っている。それを僕は片手で地面にぶちまける。飛沫が舞い、乾いた地面に液体で弧を描いた。
 僕の行動に呼応するように、アイリスの旋回がその領域を広げる。まだ皐月はこちらに来ていない。彼女は僕の場所を知らせる囮であり、僕が彼を見張る監視者でもある。怪しい影、無人の校舎に誰かが攻めよればすぐにでも彼女は僕に知らせてくれるだろう。それまでに僕は打てるだけの策を講じる。
 バッグの中に手を突っ込み、自分自身を傷つけないように気を付けながらそれに触れる。月読先生に借りた皐月を倒すための切り札。勝負は一瞬だ。これを逃すわけにはいかない。
 空を滑るアイリスが片翼を逸らし、わずかに下降する。狭まっていく輪。それに伴い僕の緊張感も増した。回るスピードが加速度的に上がっていくのがわかる。
 実はというと彼女の合図よりも早く、僕はその存在に気付いていた。ビニール傘を引きずりながら、ふらふらとこちらに歩いて来る男の姿。同じ人間の姿をしていながらも、その中身はまるで違う。冷酷なテロリストが僕に向かって真っすぐ向かってくる。
「よう。会いたかったぜ、負け犬の七番君。元気してたか?」
 うすら寒い笑みを見せる皐月。僕は無言で皐月を睨みつけた。まだあいつの射程距離には入ってない。しかし、わざわざペンを走らせて返事をするような隙は見せられない。
「俺のことを覚えててくれたのか。ありがとう。まぁ、これから仲間になることだし、仲良くしようじゃないか。変な抵抗はするなよ。手荒な真似はしたくないからな」
 皐月はくくくと押し殺すように笑い、手首の力だけで持ち上げた傘を僕に向ける。見え見えの嘘というよりは、初めからバレるつもりで言っているのだろう。前の時もそうだった。この会話に意味なんてない。あいつは僕が何をどうしようと僕を痛めつけて、拉致するにつもりなのだから。
 一筋の風が吹き抜け、僕の髪を揺らす。つい口から飛び出しそうになる、呪いの言葉を冷たい意思で次のステップのための行動力に変える。僕が皐月の射程距離に入っていないのと同じように、彼もまた僕の射程距離には入っていなかった。僕は開いたスケッチブックを皐月の前に投げ捨て、うさには絶対に見せられない禁断のページを皐月に見せる。
『殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる』
 ページ全体を埋め尽くすように書かれた赤い文字が露出し、皐月の顔が一瞬引きつった。スケッチブックの最後のページに書き連ねた呪詛の言葉。それを見た途端、皐月は両目を覆って高笑いし、傘の先端に付いた土を払った。
「男にこんなに想われてるなんてな。嬉しいぜ。……お望み通り、殺してやるよッ!」
 皐月の足が一歩踏み出され、スケッチブックを足蹴にする。ページが踏みにじられ、破れる直前に僕はアイリスに右手で合図を送っていた。右手の手刀を袈裟状に切る動作……攻撃開始の合図だ。
 地面を蹴り、真正面から弾丸のように踏み込んできた皐月の後頭部にアイリスの急降下からの蹴りが直撃する。体重差は数倍もある鳥と人間だったが、踏み込んだ皐月を後押しするように蹴りつけたこともあり、バランスを崩した皐月が前のめりに倒れ込む。
「いきなり後ろからかよ。見た目通り卑怯だな」
 いきなり土を舐めさせられた皐月は、土の混じった唾を吐きだしてから悪態を吐く。何とでも言え。初めから真っ向勝負をしようなんて思っていない。僕はアイリスに上昇の指示を送り、左手でバッグの中から取り出した新しいペットボトルを皐月に浴びせる。黒い液体がフードにかかり、皐月が小さく呻いた。
「てめえ……なんだこれ、コーラか? うわっ」
 頭を上げようとした皐月に向けて、空になったペットボトルを放り投げる。うつぶせの体勢になった皐月は避けることもできず、顔面にペットボトルを食らった。しかし、これだけやっても決定的なダメージはまるで与えられていないことはわかっている。僕はこのまま踏み込んで皐月を踏みつけてやりたい欲求をこらえ、これまでの距離を維持し続ける。
「俺のパーカーが台無しじゃねえか。乗り気じゃなかったが、本当に殺したくなってきたぜ」
 腕をびしょ濡れの地面に付け、立ちあがろうとする皐月。その動作は素早いものだったが、こっちの方が早い。僕の後方から弾丸の如く飛び来るアイリスの姿を背中で感じていた。
「目玉を抉れ」
 拳銃を向けるように皐月の右目を指差す。避けようとした皐月だったが鋭い嘴が皐月の眉間を抉り、追い打ちするように両目にアイリスの鉤爪が突き刺さった。苦鳴を上げながら今度は仰向けに倒れ、頭をしたたか打つ。
「クソッ!」
 両瞼から流れる血を拭い、頭をさする皐月。まるでピエロのような顔になっていたが、追撃の手は緩めない。起き上がられたら負けだ。そろそろ、先に打っていた策がじわじわと効果を発揮してくる頃だろう。
「絶対に殺す。もう計画とか関係ねえ……ん、なんだこれ」
 黒いパーカーが陽炎に照らされたように蠢きだす。黒い何かが皐月の身体を覆い尽くそうとしていた。皐月はそれに気付き黒い影を払おうとするが、じわじわと染み入るように青白い皮膚を黒が貪欲に浸食していく。
「つっ……!?」
 今まで聞いた事の無いような絶叫。合図はなかった。それぞれがバラバラに自分のタイミングで噛みつく。全身の表皮を炙られるような痛みに皐月は悶絶し、地面の上で左右に転がった。僕が最初に打った布石、撒いた砂糖水を求め湧いてきた大黒蟻だ。駄目押しのコーラも大変よく効いているようで、皐月の肌という肌に黒い点が蠢いていた。
 僕は全身を齧られる地獄を味わう皐月のそばに歩み寄り、スケッチブックを拾い上げる。端が少しコーラで滲んでいたが気にせず、赤ペンを手にとった。
『僕は君を殺さないことにした。その代わり苦しんで生きてもらう』
 声にならない声を上げながら悶え苦しんでいる皐月に僕からのメッセージは届いていないだろう。僕は冷酷に見下ろし、鞄の中から月読先生から借りた注射器を取り出す。注射器の中に入っているのは黒く変色した血液。針には痺れ薬が塗ってあり、中にはHIV感染者から採取した血液が入っている。
「死ぬまで苦しめ」
 風の音だけが聞こえる。緊張はしていなかった。注射器の底を叩き、空気を抜く。あとはどこでもいい、刺して全部入れてやれば普通に死ぬだろう。血液型が違おうと空気が入ろうとそれこそどうでもいいことだ。
 悶え苦しむ皐月の首筋に針を伸ばす。その時、透明な何かが僕の手に点を作った。その点は少しずつ数を増やし、次第に地面にも黒点を穿っていた。皐月はその一瞬の隙を見逃さず、全身を噛まれながらも傘を振り払い、僕の切り札を払い落とす。
「いてえ、いてえ、いてえ……が、運が俺に味方してきたみたいだな」
 発狂しそうなほどの痛みをこらえているとは思えないほど冷静に皐月はそう口にする。僕の判断をわずかに遅らせた雨。土の匂いが鼻腔を満たし、アイリスが僕の敗色を匂わすように高く鳴いた。


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