#41 僕の中のマモン
 僕が自分の意志で何かと戦おうと思ったのは、今日この時が初めてだったかもしれない。いや、戦いたかったわけではない。正直戦うことは恐怖でしかない。殴られれば痛いし、殴った方だって痛い。誰かが痛い思いをすると想像するだけでも、僕は苦手なのだ。
 けれども、その恐怖を超越する何かが確かにあった。それは怒りに似ているが、僕が殴られたことへの復讐というわけではない。確かに痛かった。悔しかった。殴り返してやりたい気持ちも嘘ではなかったように思う。でも、それはただ僕が我慢すればいいだけの話だ。何より許しがたいことは他にある。
 彼は僕を痛めつけた後、うさが大事にしていたうさぎ達を一匹ずつ刺し殺していった。それも心底楽しそうに。檻の中で抵抗することもできず、散らされていくうさぎ達が何を思ったのかは定かではない。しかし、うさぎ達を心底可愛がっていたうさの気持ちは痛いほどに分かった。
 強がっていても、彼女の心の傷は大きい。誰かに泣きついたり、黒い感情を吐き出したりしなくても僕にはわかる。証拠と言えるか分からないけれど、うさぎが一匹残らずいなくなった後も、うさは何度かうさぎ小屋へと足を運んでいた。亡きうさぎを悼んでの行動かどうかは分からない。ただ、僕にとってその寂しげな姿を見続けることは酷く辛いものだった。
 その元凶となった人間が僕のすぐ近くにいる。うさのためではなく、僕のため。単なるエゴだ。それであっても、僕は奴を痛めつけようと思う。あわよくば、うさぎ達と同じ目に遭わせてやりたい。そんなことをしてうさが喜んでくれるかどうか、そんなことは問題ではなかった。僕は僕自身の欲望を満たすために皐月零音を叩き潰す。
*
 楽弥から手渡されたそれは、スパイ映画で見たことのある小さな機械。ヘッドフォンと小型マイクが一つになったような形をしている。楽弥の説明によると、これで僕たちに指示を送るらしい。見た目だけで言えば、普通に電器屋に売ってそうなものだけど、完全ハンドメイドの自信作だと言われた。
「無線式インターカム。ようは繋ぎっぱなしの電話みたいなもんだよ。携帯と違って使用範囲は限られるけど、特製の暗号で変換してるから盗み聞きされることはまずない」
 僕に渡したのとまったく同じものを他の三人にも配り、自分は色違いのインカムを着用して鞄の奥から取り出した小さな端末のスイッチを入れた。
「あーあー。ただいまマイクのテスト中。テロリスト共をぶち殺すぞー」
 楽弥は気のない声でマイクに向かって喋り、その音声がヘッドフォンを通して僕たちの耳にも伝わってくる。うさは急に耳元へ楽弥の声が聞こえて来たことにびっくりしてインカムを外してしまったほどだ。
「問題ないようだね。まぁ、この距離なら普通に喋った方が早いんだけど」
 楽弥はにやりと笑い、感度が良好であることを喜ぶ。確かに通信用としては申し分ない性能だ。自分がスパイになった気分になれる。ただ、一つ気になることがあるとすれば、僕の端末にマイクは必要ないということだ。なにせ、聞こえない声で喋ったところで誰にも届かないのだから。
「それでは僕はこれから放送室に陣取る。テロリストの位置はわからないけど、こちらが行動を起こせば相手も何かしらのアクションを取るだろう。そこで、全員の役割をここで決めたいと思う。まず、うさちゃん。遊撃手」
「ゆうげきしゅってなに……?」
 聞いたことのない単語に戸惑ううさ。文字で説明しようにも上手く伝えられなさそうなので、楽弥に任せることにする。
「簡単に言うと、怪しい奴を見つけたらやっつけるのがうさちゃんの仕事ってことだね。うさちゃんに襲いかかって来る奴がいたらそれは敵だからね。見た目が怪しいからって月読先生とかやっつけちゃだめだよ」
 楽弥の説明に一瞬月読先生の顔が歪むが、楽弥は気にせず中腰になって、うさと同じ視線で話す。うさには難しそうだったけれど、とりあえず頷いていた。
「レオは……そうだな。雑魚を一掃するって言ってたが、具体的にはどうするつもりなんだ?」
 レオは一瞬考えたような表情をし、答えた。
「僕はここで敵を待つ。メガネはテロリストをここに誘導してくれ。そこから先はまだ言えないが、必ず成功させる」
「メガネじゃなくて師走楽弥だ。上手く誘導するから、しっかりやれよ」
 当たり前だとでも言うようにそっぽを向くレオだったが、楽弥はそれ以上何も云わず、今度は僕の方を見る。いよいよ僕の役が割り振られる番だ。
「イルカは……皐月とやりたいんだよな。性的な意味じゃなくて。勝算はある?」
 生身でやれば、勝算どころか逃げる算段すら立たない。だが、いくら僕だって勝てる見込みのない相手に突撃するほど馬鹿じゃない。
『一対一なら、ある』
 僕は肩にとまったアイリスの目を見てスケッチブックにそう書く。実際は勝算というにはとても心細いものだけど、僕にとっては頼みの綱と言っても過言ではない。
「わかった。イルカは皐月を倒す役、それとおとり役を頼みたい。敵を引きつけ、撹乱する……割と重要な役目だ。うさちゃんとイルカにはかなり動いてもらうことになると思うけど、頑張ってね」
「うん、がんばるよ」
 小さなこぶしを握るうさを見て、僕も左こぶしを固くする。うさのためにも負けられない。戦略というほどのものはなくても、気持ちでは負けない。
「大方決まったようだな」
 ずっと無言で事を見守っていた月読先生が久々に口を開く。まだ何か言おうとしていた楽弥だったけど、先生の方を見て一度言葉を止めた。
「先ほども言ったが、私はこの戦争に参加しない。何故なら、私は現状傍観者だからだ。よって貴様らには加担しない。自分の身は自分で守るから、私のことは気にするな」
「わかってます。これは僕たちの戦争なんでしょ?」
「そうだ」
 先生は僕らの意志確認を一言で済ませ、ずれたメガネを直す。先生も戦ってくれたらと思うのは僕たちの甘えでしかない。何しろ先生は狙われていないのだから。
 だが、そこで一つ疑問が浮かんだ。先生は狙われていない。一般の生徒も狙われていない。だったら、何故僕たちが狙われなければならない?
 最初に疑問を持つべきことなのに、急激に展開される緊急事態に本質的なことを確認することを忘れていた。僕はとっさに声を出そうとして、慌てて自分の口を塞ぐ。仕方なしに筆ペンを手に取った直後、月読先生は僕の目を覗き込んだ。
「文月生徒。貴様はなかなか見どころがあるな。何故、自分が狙われるのか疑問を持ったのだろう? 貴様の冷静さに免じて情報をやろう。狙われる人間は二十数年前から決まっている。ルナチルドレン計画。月に愛された子供が世界を変える……と銘打った計画だ」
「ルナチルドレン……何ですかそれ?」
 僕が書き終えるよりも早く、楽弥が口を出す。ルナチルドレン……聞いたことのない単語だ。それと僕たちが狙われる関係もわからない。
「貴様らの姓に疑問を持ったことはないか? 文月、師走、卯月、霜月、如月。四季市……いや、冬海高校というごく狭い地域において、陰暦の姓を持つ人間がこれだけいる。別の高校ではあるが、水無月。貴様も陰暦の姓を持っている。何か出来過ぎているだろう?」
 じっと黙る楽弥。うさはというと陰暦が指す意味すらもよくわかっていないようだった。
 でも言われてみれば確かにそうだ。十二の月のうち、半分がこの地域に住んでいる。そして、テロリストである皐月も陰暦の名を持つ一人。出来過ぎているというより、何か作為的なものを感じる。
 言い知れぬ不安を感じ、自らの姓に疑問を始めた僕らを見て月読先生はこほんと咳払いをする。
「本当はこのことを貴様らに伝えるのはもっと先にすべきだったのだが、事情が変わった。今言わなければ、最悪の場合四つの月を失う羽目になる。貴様らは知っておくべきだろう。テロリストは陰暦の姓を持つ人間を集めている。その十二カ月の中に世界を変える鍵を持つ人間がいるからだ。それが誰だかはまだわからない。だから、彼らはその全てを手中に収めることにしたのだ」
 それがルナチルドレン計画。この強行策の全貌だ。最後にそう締めくくり、背を向ける先生。陰謀説とも取れる突飛な計画を説明され、言葉に詰まる。世界を変える鍵……漠然としていて全くその全容がつかめない。以前、病室で言っていたことも意味深だったけれど、今回のはもっと難解だ。
「その”鍵”ってのは具体的に何なんですか?」
「わからない。思想とも言われているし、兵器とも言われている。とにかく、その鍵を持つ人間を奴らは喉から手が出るほど欲している。テロリスト集団”第五の季節”はな」
 先生はそこで言葉を切り、腕時計に目をやった。時間が無いと一言呟き、僕たちのことを見やる。
「それでは私はこれで失礼する。諸君の健闘を祈る」
 それだけ言うと先生はこちらの返事も待たず、理科室を後にする。残された僕たちは今聞いたばかりの情報を胸にしまい、それぞれ与えられた役割を果たすために、レオ一人を残して教室から飛び出した。
*
「アトリ。そろそろ時間だけど、準備はできた?」
「大丈夫。さっき使われた不審な無線も無事傍受できたし、暗号も解読したわ」
 電話口から聞こえてくる声に、心から安堵する。アトリは仕事に関しては完璧な人間だ。頼りになる相棒だと周りにも自慢できる。
 僕は電子タバコをくわえ、特殊なフィルター越しに空気を吸う。わずかな味はするが所詮はただの空気だ。ニコチン不足にカリカリしながらも、フィルターで変換された水蒸気を吐きだす。
「それじゃ、月狩りに入るとするか」
 事前情報で十一番はいないと知ってやる気が出ない僕は、眠い目をこすりながらどこまでも青い空を疎ましげに見上げていた。


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