#40 僕の中のベルフェゴール
 僕の身体は生まれつき変だった。ありとあらゆる病気にかかり、その度に母さんに迷惑をかけた。死ぬような病気も何度か経験しているし、死にたいと思うような激痛も一度や二度じゃないくらい体験している。
 それでも、僕は死ななかった。医学的にはあり得ないほどの回復力で、迫りくる病魔を撃退していった。けれど、それは僕が強いってわけじゃない。実際、腕力はからっきしだし、高校生になった今でも体格は下手をすると小学生にも劣る。第一、誰かに立ち向かうほどの勇気もなければ、目的もない。
 僕は何のため生まれて来たのだろう。それがわからないから、勉強ばかりしていた。力にものを言わせる奴らには極力かかわらず、病気で寝込んでいる時も枕の傍らには教科書や書籍があったくらいに。
 今思えば僕は傲慢で、その上自分の意志では何もしていなかった。それを目ざとく見抜いた同じクラスの女子に馬鹿にされ、それに追従した同じクラスの男子から無視され、元々孤立していたのに僕の周りだけ深い堀になってしまったかのように暗闇の中で立ち尽くす羽目になった。
 守ってくれるのは母だけ。その母に優しさに甘んじ、僕は何も考えず口をつぐんで俯いていればよかった。それが一番楽だったから。ただ、それだけの理由で。
 今思えば、怠惰の極み。防戦一方の人生だったと思う。誰にも挑まず、高みにいるような気になって見下ろして、なんと無能だったのだろう。傍観者を気取って、逃げていただけだ。……そう、あの不良のような男と会うまでは。
 ただの言葉なのに胸元にナイフを突き付けられたような感覚だった。ただの暴力なのに、どんな難しい参考書よりも勉強になった。生まれて初めて、自分の名前を呼ばれた様な気がした。その瞬間から僕は臆病な猫から、猛獣の王になれたのだ。
 だから、僕は逃げることをやめた。眼前に迫る驚異にひるまず、研ぎ澄まされた牙を剥く。防戦一方の負け犬人生から、生まれて初めて攻勢に出る。遅すぎるなんてことはない。初めての敵にしてはなかなか骨のある奴らしいが、関係ない。僕はこの皮肉な運命から、イニシアチブを取り戻す。
*
 共闘戦線。聞こえはいいが、実際はただの素人集団の集まりだ。聖ちゃん不在の今、まともに戦える仲間はほぼいないと言えるだろう。僕のケンカスキルは人並以下、イルカもタッパはあるが恐らく戦力外の文科系。異常に名前の長いチビもデカイのは口だけで使えそうにない。月読先生に至っては初めから自分抜きで闘うことを前提に話を進めているという始末。
 男が四人もいながら、紅一点でしかもロリで超絶可愛いうさちゃんが一番の戦力というのは悲し過ぎる。しかも相手はプロ集団が二十人以上。現状、勝つ見込みはほぼゼロだろう。だが、いきなり現れたウザいチビは勝率100%を主張した。ゲームのやりすぎだ。頭が沸いているとしか思えない。
「おい、チビ助。今何て言った?」
「メガネは黙ってろ。負け戦をするつもりはないって言ったんだ」
 ダメだこいつ、早く何とかしないと。戦争における定石、数の優位を全く理解していない。戦場で真っ先に死ぬタイプだと僕の中で決めつける。
「水無月。まずはお前のプランを言ってみろ。もし、それが私のプランを凌駕する内容であれば、採用しなくもない」
 月読先生は相変わらずの無表情でチビガキを見下ろす。僕はふんと鼻を鳴らし、どんなキチガイ戦略を吹聴するのかと耳をそばだてていた。
 水無月麗音覇瑠斗三世は月読にチョークを借り、敵の人数、幹部の数が書かれた場所に白い線を走らせた。
「学校という閉鎖的な環境に置いて、脅威となるのは敵の人数だ。僕たちが戦う相手は二十数人。総力戦となれば絶望的に不利なのは目に見えている。だがこの二十人を戦闘不能に出来るとしたらどうだ?」
 幹部以外の場所を丸で囲う水無月。そして、わざわざ書いた丸を敵の人数ごと黒板消しで拭った。
「残るは幹部三人。こちらの人数が上回る結果になるな。あくまで、出来たらの話だが」
 肯定するわけでも否定するわけでもなく、ただ冷静に結果論だけを言う月読先生。そんなものおとぎ話にすぎないというのに、まず前提を否定しないのは研究者の鑑だと思った。
「その雑魚全てを僕が引き受ける。これが出来たとして、月読……先生。あんたの計画での勝率はどうなる?」
「ちょっと待てよ!」
 自信満々に言ってのける水無月を見て、思わず喰ってかかる。叶わない夢を語るのもいい加減にしろ。どうやってお前が大人に十人を相手にするんだ。即殺されるのがオチだ。……と、ここまで言ってやろうとしたところで、月読先生に口を塞がれた。口を挟むなと耳元に小声が聞こえてくる。
「甘く見積もって五分五分だ。勝利を期待できるほどじゃない」
「二十人以上削ってそんなものか。後50%はこれから考える。先生のプランを聞かせてくれ」
 生意気な態度を変えようともしない水無月に怒りが募る。そこをなんとかこらえたのはただの意地だった。先生がわざわざ僕の批判を制してまで水無月の話を聞くことを選んだのは、怒りからの無意味な批判なんかよりよっぽど建設的だと思ったからだろう。
 悔しいが、正しい。問題点は後々指摘すればいい。まずはどんな意見でもいいから、上げていくべきだと考えて、理科室特有の座りにくい椅子に黙って腰かける。
「水無月生徒の話は一度置いておく。貴様らがテロリストに対抗する上でのポイントをいくつか知っておくことで、わずかではあるが戦局を有利に進めることが出来る」
 先生は青いチョークを取り、いくつかの事柄を書きすすめる。黒板にすっと線が引かれ、ナンバリングされたチェックポイントが示された。
1.    テロリストは普通の生徒を攻撃しない。
「彼らの目的は今ここにいる貴様らだけだ。一般人には手を出さない。これはテロリストの規則、およびポリシーの問題だ。これまでのテロ行為全てに一貫している」
2.    テロリストは貴様らを殺さない。
「彼らの目的は襲撃と銘打ってはあるが、実際のところ誘拐だ。死に直結する銃火器や刃物の類はまず使用されない。多少の怪我をすることはあっても、死ぬことはないだろう。このポイントは非常に重要だ。胸に刻んでおけ」
3.    テロリストも生身の人間である。
「貴様らはテロリストと聞いて、どう感じるだろうか。自分たちの思想に傾倒した狂人集団? 否、彼らとて人間だ。そのほとんどは一人の巨大過ぎる思想に乗っかっただけの一般人であり、多少の訓練は受けていても本質的な部分は貴様らとそう変わらない。戦意を失わせることが出来れば、無力化は容易い」
 「効果的な戦略を取れば、水無月生徒の話もあながち不可能ではない」と付け加え、一度チョークを置く。気づいた時には赤いチョークに持ち替えていた。
「ここで工作員の数を間引いた時の話をしよう。数の優位が入れ替わってなお、勝率が五分だというのは幹部の存在がそれだけ大きいからだ。幹部の一人は師走生徒、文月生徒共に知っている人物……うさぎ小屋事件の犯人だと伝えておこう。他二人の幹部も彼と同等、またはそれ以上の実力を持っていると推定できる」
 危険を知らせる赤で示される幹部の情報。確か、皐月とかいう奴だ。あの聖ちゃんだったからこそ勝つことが出来たが、僕がもし聖ちゃんの立場だったとしたら瞬殺されていただろう。実在の人物を上げられ、襲われる恐怖がより鮮明なリアルとして僕に重くのしかかって来る。実際に襲われた経験のあるイルカならその重圧も半端なものではないだろう。
「……」
 相変わらずの無言。顔面蒼白で尻込みするイルカを想像してそちらを向くと、僕が思い浮かべた姿とは真逆の表情をしたイルカが立っていた。彼は思いつめた顔つきでスケッチブックを取ると、いつもの筆ペンではなく赤いサインペンで何かを書き殴った。
『皐月は僕がやる』
 猟奇殺人の現場に残された犯行声明のような鬼気迫る文字でそう書かれていた。胸の内に秘められた怒りがたった七文字に集約されているようにも見える。
「いるか……」
 漢字をほとんど読めないうさちゃんもその筆跡からイルカの覚悟を読みとったらしく、心配そうに呼びかける。不安を隠しきれない様子で見上げるうさちゃんの髪をイルカは空いた手で撫でた。一点の曇りもない眼差しに、逃げ腰になっていた僕まで勇気づけられる気がする。
「皐月か、嫌な名だ。雨で見えない月を射止めるのは文月生徒、貴様の役目にしよう。残る二人は卯月、師走。貴様らの役目だ」
 ごくりと飲み込んだ唾が僕の胃に落ち、大きな音を立てる。あの傘男に匹敵する、まだ見ぬ敵。僕やうさちゃんにそれを倒すことなど出来るのだろうか。腕っ節では敵わない相手に勝つためにはどうすればいいのか。
 先の格ゲーでの屈辱が甦る。敵わないと分かった瞬間、僕は逃げた。それも策があったわけではなく、ただの恐怖心から。イルカも水無月もやる気になっているというのに、僕だけはまだ逃げることを考えている。
「師走生徒。怖ければかくれんぼでもしてろ。霜月生徒からの連絡はないが、じきに駆けつけて来るだろう。それまでの時間稼ぎをすればいい」
 先生の言葉は心を読まれたと思ったほどに正確に僕の芯を射抜く。僕が危ない時はいつも聖ちゃんがいた。頼り、守られるだけの関係。聖ちゃんがいないとき、僕はこうも矮小な存在に成り下がる。
「……くっ、ふふふふ。ははははは」
 身体の奥から笑いが込み上げて来た。弱い、弱い、弱過ぎる自分。聖ちゃんがいないと何もできない自分。泣きたいくらいダメなのに、僕が取った反応は笑うことだった。
「おい、レオ。お前のプランは穴が多すぎる」
「何が言いたいんだ。お前気持ち悪いぞ」
 いちいち癇に障る言い方をする水無月だったが、意外にも僕の視界は隅渡っていた。絶望的な状況に置かれて、ようやく気付いたのだ。今までにないピンチはこれまでの不甲斐なさを払拭する絶好のチャンスだということに。
「勝ち戦にしたいのなら、作戦を固め、溝を埋める策士が必要不可欠だということさ。聖ちゃんを最強にしたのは僕の緻密かつ時に豪快な戦略があってこそ。月読先生、うさちゃん、あとおまけ二人。この作戦のオペレーターは任せてくれ!」
 吹っ切れたように胸を張って言う自分。客観的に見てもなんて人任せな発言なのだろうと思う。けれども、月読先生は僕の目を真っ直ぐ見て言った。一言「適任だ」と。



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