#39 僕の中のサタン
 僕は理科室が苦手だ。整然と並び立てられた机も、安全のために複数ある換気扇も、微かに残る実験の臭いもなぜか肌に合わない。薬というものに過敏になっていると言えばそれまでだけど、それがどれだけ人間の役に立つ実験だったとしても、僕はそれを好きになれなかった。
 とはいえ、僕が呼び出され、集合するように言われたのがここだから帰るわけにはいかない。たとえここがどれほどあの場所に似ていようとも、それは別物なのだと自分に言い聞かせる。
 ふと視線を泳がせてみると、この高校の催し物の一つだと思われる、科学部がやった実験のレポートらしきものが大きめの模造紙にまとめられていた。科学の授業では絶対にやってはならないことを一通り試してみたという内容だ。混ぜてはならない薬品を混ぜてみたり、熱し過ぎると危険な薬品を限界まで熱してみたりと失敗談などを織り交ぜて楽しげに書かれている。
「バカじゃん」
 自分一人しかいない理科室に僕の声がこだまする。人はやるなと言われたことほどやりたくなるバカな生き物だ。でも、ここに書かれている程度のことなら何の問題も無い。せいぜい火傷するか、失明するか、軽い中毒で病院に搬送される位のものだ。誰も死んだりしない。
 どうせやるなら人一人死ぬくらいの実験をやって欲しいものだ。そうすれば、科学部の歴史に残る一大事になることはまず間違いないだろう。もっとも、そんなことをすれば科学部なんてものは永久に廃部になるに違いないのだけれど。
「それにしても、遅いな」
 人気のない理科室の机を一つ占領し、仰向けになる。生気のない蛍光灯。また嫌なものを見てしまった。これも全部あの月読とかいう男のせいだ。思えばのこのことこんな辺鄙な場所まで来てしまったけれど、怪しいことこの上ないメールだった。そもそも、どうやって僕のアドレスを知りえたのかすら、謎のままだ。
 携帯を開き、月読からのメールをもう一度だけ読み直す。昨日の夜、突然来たメールだ。見知らぬアドレスだったから迷惑メールだとばかり思っていたのだけれど、内容を見るやそれは一個人からのメールのようだった。
「水無月麗音覇瑠斗三世。君の周囲は危険に晒されている。一生、研究室のモルモットになりたくないのなら、冬海高校の理科室に来い。朝九時、時間厳守だ。月読燦」
 脅迫文とも取れるそれは今や懐かしいチェーンメールの類かと思った。ただ、気になったのは知らないメールアドレスから届いているのに、僕の名前を一字一句間違えずに名指ししていること。そして、研究室に関する記述だ。明らかに僕のことをよく知っている人物からのメール。普通なら無視するメールでも、どうにもそれが気になってしまい今に至るというわけだ。
「はぁー」
 声に出して大きなため息を吐く。完全に予想外の出来事でありながら、それを甘んじて受け入れている自分が嫌だった。もし、これがただのいたずらか何かならすぐに帰ろう。九時二十分。時間はとっくに過ぎている。なんなら今、帰ってもいいくらいだ。
「月読先生ー」
 鞄を持ち上げ、帰り支度をしようとしていたところで、一人として興味を持たないだろう理科室に闖入者が現れた。先頭は派手な眼鏡をかけた男。その後ろに長身の無表情男と小柄な少女が続く。どの顔も見たことが無いが、月読という名前を口にしたことで、僕と同じ境遇にいるらしいことはわかった。
「月読ならまだだよ」
 三十分近くここで待ちぼうけを食わされている僕が言う。眼鏡の男は僕の顔を見るなり怪訝そうな顔をした。不快な奴だと直感的に思う。
「なんで他校の生徒がいるんだ?」
 冬海高校の制服を着た男が言う。僕の制服を見てわかったのだろう。
「月読って人からメールをもらった」
 なんでと聞かれてもそれ以上答えようがない。こっちが説明して欲しいくらいだ。
「ふーん。一斉送信に見慣れないアドレスがあると思ったら、お前か。名前は?」
「お前から名乗れよ」
 メガネの馴れ馴れしい態度に腹が立ち、棘の付いた言葉が口から出てくる。男はむっとしたようだったけれど、こっちだって同じ気持ちだ。僕はこっちからは意地でも言うまいと腕を組んで、そっぽを向く。
「こいつ、南高だからってバカにしやがって」
 よほどカルシウムが足りてないのか、それとも単なる脳味噌筋肉野郎か知らないが、赤メガネはつかつかと僕に近付いてきた。それを長身の男が羽交い絞めにして何とか抑える。小学校低学年に見える少女は僕のことを恐れるかのように長身の男の影に隠れていた。
『楽弥。落ち着け』
 長身の男がなぜかスケッチブックに書いた文字を赤メガネに見せる。喋ればいいのに、なんとも奇妙なことをするやつだ。やはり、冬海には変な奴しかいない。ウチも大差ないが、素養のなさはやはり学歴に依存するのだろう。こいつが同じ高校生だと思うと腹立たしくて、帰りたくなる。
「用が無いなら帰るよ。お前みたいなやつと同じ空気を吸っていたくないからね」
「奇遇だな、チビ。中学生は家に帰ってママのミルクでも吸ってろよ」
 売り言葉に買い言葉。こんな奴に構っていても仕方ないとはわかっていても、頭に来るものは来る。僕は念のために持ってきた鞄の中に手を伸ばし、ゴツゴツとした秘密兵器を掴む。一瞬即発の空気。それをかき消すかのように、今まで存在感を消していた理科準備室のドアノブが回った。
「黙れ、貴様ら。騒々しい」
 白衣にクシャクシャの髪をした男がぬっと出て来た。高校生ではなさそうだから、多分教師か何かだろう。男は一言で場を制すると、無言でチョークを取った。一面の濃い緑色に特徴的な字で何かを記していく。確率の計算、それも高校生レベルではまず教わることのない高度な計算技法を用いたもののようだ。
「急に呼び出したのは他でもない。昨日の計算である程度のことが予測できたからだ。貴様らに理解できるとは思っていないから、分かりやすく言おう。貴様らは今日、この場所でテロリストに襲撃される」
「は?」
 意味不明なことを断言する白衣の男。テロリストって数か月前にメディアを騒がせたアレのことだろうか。メールで言っていたこととはテロリストのことだったのか。だが例え本当だとしても到底納得できる内容ではない。
「あり得ないとか、証拠を出せだとか、お前らの屁理屈に耳を貸す気はない。私は忠告ではなく警告をしに来たのだ。もう一度言おう。お前たちはテロリストに襲われる。恐らくは薬か何かで眠らされ、誰にも気づかれること無く拉致される。九割九分九厘、この予兆は外れない。疑う暇があれば、受け入れて次の行動をしろ」
 何か言おうとしたところで完全に遮られる。それもこちらが言わんとしたことすべてに答えるつもりはないと、明示して。安穏とただ与えられた責務を事務的にこなしている他の教諭たちとは次元が違うように感じられ、喉まで出かけていた言葉は内腑へと落ちて行った。
 男は続けて、チョークを黒板に走らせる。今度は文字ではなく人数。20〜24人、感覚を開けて大文字のエックスらしいものを書く。
「襲撃者の数は恐らく20〜24人。文化祭という行事を最大限に利用して、一般人の姿で校内に侵入している。ちなみにそれは工作員の数だ。それを監督、コントロールするために幹部クラスも侵入している。一人当たり分隊一つ、つまり三名はまず間違いなく来ているだろう」
 エックスの隣に=3と書く。と言われても僕にはさっぱりな内容だ。さっきの無礼な奴も含め、他の三人もちんぷんかんぷんといった様子。でも、その目は白衣の男の言葉をまるで疑っていなかった。いや、疑っていないというよりはまるで、ゲームの予行演習でも受けているようだ。あたかも、今から戦争ゴッコでもやるというように。
「月読先生、質問いいですか?」
「何だ、師走生徒」
 手を挙げたのはさっきのガラの悪いメガネ。師走というらしい。珍しい名前だが、どこかで聞いたことがある気がする。
「僕たちの勝率は何パーセントですか?」
「勝利の定義にもよるが、ほぼゼロだ。だが、私の協力と戦略次第でその確率を10パーセント程度上げることはできる」
「10パーセント……!」
 握った拳を見つめる師走。その確率の低さに絶望しているわけではないようだ。瞳に宿った炎に曇りはない。その極めて困難な状況に、むしろ燃えていると言った方がいいかもしれない。
 一方、完全に蚊帳の外の僕は気分が悪くて、軽い閉塞感まで覚えつつあった。やはり学校というものは合わない。それも理科室だなんて最悪だ。いつまでもここに居続けなければならないのなら、ゴッコ遊びのテロリストに拉致された方がまだマシに思える。
「意味がわからない。僕はそんなゲームに参加する気はないので帰ります」
 机の上から飛び降り、後ろで鞄を掴む。付き合ってられない。朝から本当に無駄な時間を過ごした。一刻も早く家に帰ろう。
 制止の声も無く、僕は黙って理科室のドアに手をかける。しかし、それが開くことはなかった。鍵はかかっていない。さっきの三人が入った時からそのままなのだから、勝手に閉まることなどあり得ない。僕は扉を壊すつもりで思いっきり腕に力を込めたが、それでも扉はびくともしなかった。
「かえっちゃだめ」
 下の方から声が聞こえて、ようやく気付いた。一般的に見ても背の低い僕よりももっと小さな女の子が片手でドアを押さえていたことに。
「どけよ」
 動揺を隠せず、震えた声で言う。しかし、少女は手をどけようとはしなかった。頑ななまでの強烈な意志。意地でも僕を帰らせるつもりはないというのが、ドア越しに伝わってくる。
『君、逃げるのか?』
 僕の視界の前にすっと差し込まれたスケッチブックにはそう書かれていた。長身の男の目は全く笑っていない。挑発ではなく、単純に聞いているだけのようだった。僕は一瞬その場に立ち止まって、鞄を床に置く。言葉は違えど、ある男のことが頭によぎった。
「僕は、いや……俺は逃げない」
 霜月聖。あの男と出会ってから、僕は変わった。逃げたって無駄なら、立ち向かうしかない。
 僕は振り返って、黒板の前の男の前に堂々と立つ。背が低くて迫力に欠けることはわかっている。だが、人は見た目じゃない。見た目はただのガキでも心で負けるわけにはいかないんだ。
「あんたが月読か」
「先生を付けろ。水無月麗音覇瑠斗三世」
 不機嫌そうに言う月読。この胡散臭い男の話が本当かどうかもわからない。だが、僕の心はもう決まってしまっていた。例えどんなものが襲ってこようとも逃げない。テロリスト? 笑わせてくれる。
「月読。10パーセントじゃ不服だ。俺が100パーセントにしてやる。あんたのプラン、聞かせて貰おうか」
 僕の覚悟を感じ取った月読は深く笑い、もう一度「先生を付けろ」と繰り返した。
 
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