#38 僕の中のレヴィアタン
 たかがゲーム。されども男同士のプライドをかけた真剣勝負。一方は無敗の王者こと楽弥。それに挑むは金髪碧眼、誰もが振り返る完璧美男子、煉司。勝負前のオッズは圧倒的なまでの楽弥優勢。それもそのはずだ。楽弥が国内王者だとしたら、相手はグローブのはめ方も知らないド素人なのだから。
 だが結果はといえば、ゲームを前にしてただずむ二人の表情を見れば、一目瞭然だった。コントローラーをテーブルに置き、涼しげな表情をしている勝者と、勝負が終わった後もコントローラーを硬く握り締めたまま、半開きの口を閉じようともせず、自らに刻まれた敗北という名の刻印を凝視している……楽弥。
 その予想だにしなかった決着を目にした観客は、この世に存在してはならないものを見たかのような顔で、固まっていた。奇跡が起こった時、人はこんな顔をするのだろう。
「勝った……?」
「うそ……だろ?」
 困惑と興奮の入り混じった声が徐々に漏れ出し、それが現実と分かったその直後、大歓声が巻き起こった。勝者の周りに群がる観客。今さっきまでは散々な物言いだったというのに、ほんのわずかな違いでこうも待遇が変わるとは。今では胴上げのひとつも起こりそうな気配だ。
『楽弥』
 聞こえない呼びかけに続き、いまだ現実を受け容れられない楽弥の肩に手をやる。反応はない。だが、肩越しにかすかに震えているのが分かる。
「ありえない……なんなんだよ、あれ。人間技じゃない」
 楽弥は目を見開いたまま、何かを小声で繰り返している。ありありと見える恐怖の感情に当てられ、気づいた時には一歩退いてしまっていた。
「もう一戦、やりますか?」
 声をかけたのは先の対戦相手、煉司だった。いつの間にか人波を抜け出してきていたらしい。それはとても誰もが安心するような優しげな語りかけだったけれど、隣にいるうさは何か別のものを感じているようだった。
 楽弥は無言でポケットに手をやり、そして財布を取り出したところで、動きを止めた。
「いや……やめとく。勝てる気がしない」
「そうですか。楽しかったです。また機会があったら……」
 煉司が言い終えるよりも早く、楽弥は背を向けその場から去っていった。天狗の鼻が折れたというよりも、心の芯を折られたようで、隣にいた僕やうさのことも置いて、ふらふらと歩いていく楽弥を、慌てて追いかける。
「らくや! どんまい!」
『ラッキーパンチが当たっただけだよ』
 僕たちを一瞥し、すぐに顔を伏せる楽弥。僕たちがかけた慰めの言葉も届かないようだった。ぎこちない足取りで人波を抜け、人気の少ない広場へと進む。そして、突然何かにぶつかったように立ち止まり、空を仰ぐ楽弥。
「イルカ。格ゲーにラッキーパンチなんてものはない。相性は少なからずあるけど、今回のは別だ。完敗だよ、マジで」
 完敗に乾杯なんてギャグを付け加えるけれど、いつものようなキレはまるでない。空元気を隠すつもりだったのだろうけれど、完全に裏目だと思った。
 その証拠にそう言った直後、楽弥は魂でも抜けたかのように、階段に腰掛けた。肩を落として、大きなため息をつく楽弥。彼がこんなに落ち込んでいるのは初めて見たかもしれない。泣いているのかと思ったほどだ。
「らくや……」
 沈みきった楽弥を直視して、うさが隣に腰掛ける。励ましてやりたいが、かけるべき言葉が見つからない。何を言っても逆効果になるような気がして、僕もうさも楽弥が自分から話したくなるのを待った。
 楽弥を挟むように三人で座って、少しした頃。楽弥はもう一度だけ大きなため息を吐き出し、ポツリポツリと話し始める。
「手加減したわけじゃなかったんだ。むしろ、いけ好かない面に泥でも塗ってやろうと思って、いつも以上に本気だった。なのに負けた。見せ付けられたよ。格の違いってやつを」
 いつもは軽やかに語られる楽弥の口も、今は鉛のように重い。自らの敗因を語るのは誰にだってつらいに違いないだろう。
「お前らには難しいかもしれないけど、聞いてくれないか?」
 手を組み、力なくうなだれた楽弥が言う。僕は大きく頷き、うさもすぐに同調する。
 そこから楽弥がゲームの画面の中に見た、怪物への考察が始まった。
*
 一戦目。開始の合図と共に一直線に走り、キャラ一体分の距離まで接近したところで、範囲の広い攻撃を繰り出す。スピードは中の上、攻撃力が高く、先端当てすればガードされても隙がほとんど無いという狂い技。遅いジャンプくらいなら余裕で叩き落す初撃を相手はひとまずガードした。初心者だからこその選択ながら、リスクの最も少ない良策と いえる。
 無論、ガードされることも想定の内だった。僕の使うキャラクターの恐ろしいところのひとつ、攻撃範囲の広さを利用して、ガードしているのも構わずに大降りの攻撃を重ねる。そして、それをキャンセルしてのコマンド技を続けて繰り出し、多少の体力を削りながら、今度はジャンプ、最速エアダッシュ攻撃に繋げて、難なく距離を詰める。
「オラオラオラオラオラーッ!! 裁くのは俺のスタンドだ!」
 怒涛のラッシュで相手に休む暇をあたえない。開戦直後、格闘ゲームにおける、いわゆる「固め」の状態に持っていくのが僕の得意とする戦法のひとつだった。ガードしていても奪われていく体力。もちろん、相手もそれをそのまま受け続けるのは好ましくなく、ほんの一瞬の隙を見逃さずに逃げ出す、または発生後無敵のある技や発生の早い攻撃を差し込む「暴れ」など、俗に言う「固め抜け」をするのが一般的だ。
 しかし、相手は逃げ出すことも反撃することもせず、ガードに徹していた。「見」というにはあまりに長すぎるその防御策を崩すべく、下段攻撃や、中断攻撃を織り交ぜて、「固め」を続けているのだが、相手は一度もミスすることなく、僕の猛攻を受け続けていた。
 「ガードばっかしてても、勝てないぜ!」
 僕は隙の少ない下段を、これまでの硬めで蓄積された必殺技ゲージを消費することで、無理やりキャンセルし、調子近距離まで接近し、密着状態でしか使えないガード不能攻撃「投げ」を使う。いじめられる亀のようにじっと攻撃に耐えていた相手は、自分よりもずっと小さな女の子に片手で放り投げられた。
「へえ、そんな攻撃もあるんだ」
 僕の対戦相手は中空を舞うキャラを眺めながら、そんなセリフをはく。ガード一択の相手を潰すための最も初歩的な手段すらも、相手は知らないようだった。どうやら今やっているゲームの初心者というよりは、格ゲー全般の初心者といった方が正しいかもしれない。
 僕は涼しい顔をしてそんなことを言う対戦相手を無視して、ダウンした相手の上に、すかさず拷問具の形をした飛び道具を放つ。この攻撃は大きな隙を伴うが、相手にヒットするとガードの可否を問わず、多段ヒットして相手を拘束する技だ。いわゆる「起き攻め」において最大の効果を発揮する。
 それに対する相手の選択はまたしてもガードだった。ガシガシと体力を削る必殺技を自慢の焔で受けきる主人公っぽい男。ガードしたというよりは、そうせざるを得なかったと言った方がしっくりくる。なぜなら、ガードすることこそこちらの思惑通り。今後も執拗に「固め」を行い、相手が動いた瞬間には必殺のコンボをくれてやる。
「時間稼ぎばっかじゃ興冷めだぜ。攻めて来いよ」
 相変わらずガードし続けている相手を言葉で挑発する。しかし、相手は動じることなく、無言で僕の攻撃を性格に受け続けていた。挑発に乗ってくるような奴ではない。
 ……なんてこった。思う壺とはこのことだ。相手の体力はわずかずつではあっても減っていくし、このゲームには時間制限もある。もし、ゲーム画面の中心上部にある時間が無くなれば、体力が1ドットでも多いほうの判定勝ちとなるからだ。
 相手の体力はもはや半分を切っている。このキャラの攻撃力なら、一度コンボを決めてしまえば、そのまま勝負も決まるだろう。相手は防戦一方。僕としては時間が掛かりすぎているとは思ったが、圧倒的な体力差を見て、かすかによぎった疑念をすぐに打ち消す。
「大体分かった。そろそろかなぁ」
 対戦相手が一言つぶやき、なんと……右手をコントローラーから離した。直後、僕のキャラクターの攻撃が始めてクリーンヒットする。
「待ってました!」
 のけぞった相手に肉薄し、調子近距離からのコンボを繰り出す。近接攻撃から出せる最大ダメージのコンボ。弱、中、強の三連撃からの下段に必殺技を最速で繋ぐことで相手のキャラクターをわずかに浮かし、すかさずキャンセルしてそのまま空中コンボへとシフトする。体力差で防御力に補正が掛かることを考えたと しても、十分に削りきれる体力だ。コンボの最後に放つ鈍器でのアッパーカット。成すすべなく打ち上げられる敵キャラの体力は残り1ドット。どんな攻撃を受けても落ちるそれを見て、駄目押しの超必殺技を空中で発動する。
「死ぬぇぇぇえええ!!」
 僕の正確なコマンド入力の後、画面が一瞬暗転し、画面の中心に突然異形の拷問具が出現する。拷問というよりは明らかに処刑向きのそれは中空に浮かされた男を地面に叩きつけ、無数のアームで拘束し、凶器やら電気やらで一斉に攻撃した。相手キャラの絶叫と共に体力がゼロになり、完全に倒れてからも、激しすぎる攻撃はやむことなく続く。バシバシという似つかわしくない効果音が数秒間続き、時間切れ寸前でぼろきれのようになった相手キャラが画面中央に仰向けで倒 れた。
「You Win!」
 防衛王者の特権。勝者にのみ与えられる栄誉が画面に表示される。それを見る前からスタンバイしていた研究部のメガホンが高鳴る。
「師走選手、またも勝利! なんと初心者相手に高等技術の応酬! 全く容赦がありません!」
「当たり前だろ」
 余裕しゃくしゃくにそう言うが、内心では他のことを考えていた。コンボの起点となった攻撃が何故クリーンヒットしたのか。あれだけガードしていて尚、なぜ、あの攻撃だけはガード出来なかったのか。一縷の望みにかけて、反撃を試みたのか?
 否、そんなはずはない。攻撃を繰り出せば、それに応じたモーションが必ず発生する。僕は全てのキャラのモーションがどの攻撃に連結しているのか暗記して いるからわかる。あれは棒立ちの状態、つまり何のコマンド入力もされていなかった。つまり、相手は意図的にガードを外したことになる。
「ふざけやがって」
 勝ちを譲られた。あれだけの圧倒的勝利にもかかわらず、そう感じた。
「はは。次は勝ちますよ」
 コントローラーを握りなおし、肩を鳴らす挑戦者。絶対に潰すと胸の内で誓う。
 二戦目。今度も僕は自キャラを敵の前に突っ込ませた。さっきと変らぬ戦法だが、ガン攻めを得意とする僕ならば、それが最良の策になる。
 僕の操るキャラは一分の狂いもなく一歩だけ踏み込み、相手の鼻先にちょうど掠るように凶器を振り回す。先とまったく同じ初撃。一つだけ違うのは相手も踏み込んで来ていた所だけだ。
 ようやく、やる気になったのか、こちらの攻撃をわずかに近づいて受けられたことで、状況は五分になる。ここからは反射神経と読みあいの勝負になる……そう思った刹那の出来事だった。
「なっ!?」
 続けて放った攻撃が当たる直前に、敵のジャブ。いわゆる弱パンチに相当するものを刺しこまれた。発生は早いがその分当たり判定と威力に劣る攻撃。だが、それもコンボの起点になりうる一発だ。僕の知っている最難コンボであれば、体力の四分の一位は軽く奪われる。
 それなりのダメージを覚悟した僕だったけど、予想に反して相手はそれ以上何もしてこなかった。咄嗟に防御態勢を取った僕がバカみたいだ。
「ヤロー!」
 こちらも負けじと隙の少ない攻撃で返す。発生フレームも判定もわずかではあるがこちらが上。同時に出せば負けない……少女の拳が相手の顔面にめり込む一歩手前、またも相手の攻撃が一瞬早くこちらに当たっていた。
 ありえない。ガード合戦の合間、感じた疑念が一層色濃く、存在感を増していく。そんなことが出来るはずがないと理解しているからこそ、言い知れぬ恐怖が僕の頭の中をじわじわと蝕んでいった。
「くっ……」
 得体の知れない何かを感じ、いったん距離を取る。考える時間が欲しい。しかし、相手はこちらが下がると同時に距離を詰めてきていた。さっきカウンターを食らった時と寸分違わぬ距離。自らの放つ、苦し紛れの攻撃は何なく相手の拳にからめとられ、一方的にこちらの体力が削られた。
「なんだよ、それ……!」
 攻撃が当たったのにコンボをするわけでもなく、ただ黙って僕の攻撃を待ち、それに合わせてカウンターを入れる。それだけのことだけど、僕にしてみれば悪夢を見ている様だった。もしも、僕の仮説が正しければ、僕はとんでもない化物と対峙している。システム上、勝つことが不可能な強者に。
 相手の戦略がわかってしまった僕は無言で壁際まで距離を取った。もしも相手が僕の想像通りの化物ならば、僕のキャラの得意分野で挑むしかない。相手が攻めてこないのを承知での敗走。それは屈辱の極みでありながら、僕にはそれ以外の選択肢が与えられていなかった。
 相手が追いかけて来たのは言うまでもない。そして、僕の攻撃範囲の一歩手前で立ち止まる。さっき僕が言ったセリフをそのまま返された様だ。すなわち、攻めてこいよ」と。
 相手の無言の圧力に押され、無意識に攻撃を振った。空振りだ。攻撃を放つ前から理解していた。誰がどう見てもわかるほどに大きな隙。そこから、ダッシュで近付かれて空を舞う自キャラの姿がありありと想像できる。相手が本当に人間離れした芸当をやってのけているのかどうか試してみたい。そんな好奇心から無意識にそうさせられたのかもしれない。
「その手には乗らないよ」
 完全に見透かされている。募る焦りに発狂しそうだった。僕は叫び出す代わりに、指先が覚えてしまっている「固め」を繰り返し、その度にカウンターを貰う。半分自棄で、半分諦めの決定的な愚策。
 三回ほど同じことを繰り返したところで、試合終了のゴングが鳴った。結果は相手の判定勝ち。ジャブ一発でもこちらに一発も有効打が無ければ勝てない。実際は弱パンチだけで体力の半分近くを持っていかれていたわけだけど。
 三戦目のことはもうほとんど覚えていない。無我夢中で攻撃を繰り出し、それを一瞬先に狩られ、あまつさえ勝ち目などないというのに、見よう見真似のコンボで僕のキャラはノックアウトされた。人生初のパーフェクト負け。その頃には既に疑念が確信に変わっていた。
「1フレーム差だ……」
 煉司と名乗る人の皮をかぶった化物は、火の付いていない煙草をくわえて笑っていた。
*
「フレームってのは格闘ゲームにおける速度の単位みたいなもので、1F=六十分の一秒のこと。秒に換算すると単純計算で0.016秒。相手はこれを計算して、僕の攻撃を正確にカウンターしていた。まず間違いないと思う」
 楽弥があり得ないと言うのも無理はない。人間の能力の限界をはるかに超えてしまった反射速度、一ミリの狂いもない正確さ。以前、如月さんから聞いた月読先生の話を思い出したのも、自然なことのように思う。それは、人間にはまず、間違いなく不可能なこと。それでありながら、それに出会ってしまった楽弥の怯えも紛れもなく本物だろう。
「メールだ」
 楽弥の震えを隠すように携帯が鳴った。同時に僕の携帯も。噂をすれば影、どちらの携帯に表示された名前も同じ、月読先生からのものだった。
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