#37 僕の中のルシファー
 うさが住む児童養護施設は僕の家から歩いて二十分。学校を挟んで真反対の立地に存在するそれは、雑木林の奥で人目を避けるようにしてひっそりと建っている。
 名前は「堂本養護園」。延長が熱心な宗教家で、市の援助だけでなく私財を投じてまで、孤児や家庭内の問題で両親と一緒に暮らすことが出来なくなってしまった子どもたちを自立できる年齢まで養っている。
 そんな人格者の経営する養護施設ではあるのだけれど、正式名称で呼ばれることは滅多にない。堂本という園長の名前と、その園長の無類の動物好きにちなんで地域の人たちからは「動物園」という通称で親しまれている。
 一見、蔑称とも取れるあだ名ではあるものの、そこに住む児童や養母さんは人柄も良く、優しい人達ばかりで、評判もいい。何度か通ったことのある僕からみても、辛い思いをした子どもたちにとっては楽園のような場所だと思うくらいだ。
 雑木林を抜けたところで、僕の方に乗ったアイリスが小さく羽ばたくような素振りをした。園の門の上に乗ったペロを見つけたからだろう。
『おはよう。ペロ』
 動物に話しかけるのは癖のようなものだ。ペロは返事をするように「にゃあ」と鳴き、手の甲を舐めるような仕草をする。言い忘れたがペロというのは狗では なく猫だ。いつも同じ場所で登下校する児童を眺めていることから、番犬ならぬ番猫として子どもたちから可愛がられている。
 僕は神経質なアイリスを手でなだめ、動物園の門をくぐる。その途中でランドセルを背負った子どもたちとすれ違った。子どもたちはみな僕のことを知ってい て、元気よく挨拶してくれる。幸せそうな笑顔を見ていると、この子たちを捨てた親たちはなんて馬鹿なのだろうと思うのだった。
 スケッチブックと笑顔で子どもたちを見送り短い階段を登った僕は、園のインターホンを一度だけ押した。出迎えの言葉の代わりに大きなドアの向こうから聞 こえてくるドタバタと誰かが走り回るような音。きっと、職員さんと子どもたちの両方だろう。朝に弱い子どもたちを送り出すために職員総出で駆け回ってい る。その目の回りそうな忙しさに誰もインターホンには気づいてくれることはなかった。
 少し待てば園も落ち着くだろうと思い、遅刻ギリギリで飛び出してくる子どもたちの邪魔にならないように、玄関の階段の隅に腰掛ける。しばらくアイリスと 他愛のない話をしたところで、名案が浮かんだ。四年前のあの日に起こった奇跡をもう一度起こせないか試してみようと思った。
『うさー! 卯月うさー!!』
 両手をメガホンのように使い、ありったけの声量でうさの部屋へと呼びかけてみる。普通であれば確実に近所迷惑になるこの行動も、僕なら誰の迷惑にもならない。
 無音の大声のあと、僕は奇跡を願ってじっと身を潜める。うさの部屋は二階の突き当たり。窓はピタリと閉じきられ、白いカーテンが引かれている。もし、僕の声が届いているのなら、窓が開いてうさが顔を出すかもしれない。
 そんな淡い期待を胸に、しばらく待ってみたが、うさが顔を出すことはなかった。
 それはそうだろう。僕の声は誰にも聞こえないのだから。僕が諦めて、もう一度インターホンを押そうと手を伸ばしたとき、まだボタンに触れてもいないのに、突然動物園のドアが開いた。
「うーん……。いるか、おはよ」
 ドアの向こうに見えたのは、パジャマで眠そうに目をこするうさの姿。目をこすっていたかと思えば、あくびをこらえきれず口をあけ、それを隠そうともしない。いかにも寝起きですといった様子だ。
『うさ、もしかして僕の声が』
「遅刻、遅刻っ!!」
 慌てて聞き返した僕の声に、数人の男の子たちの声が重なった。一心不乱に飛び出していく男の子たちはうさの両脇を華麗にすり抜け、ランドセルを揺らしな がら駆けていった。のんびりあくびをしていたうさはといえば、急なことで体勢を崩して、頭から僕の胸に寄りかかり、僕はとっさにうさの身体を支える。か弱 くも、温かい感触が薄い布越しに伝わってくるのがわかった。
「いるかから、あまいにおいがする」
 寄りかかったまま、うさは鼻をくんくんさせて言う。多分、朝食べたフレンチトーストの匂いだろう。甘く、柔らかくなったパンにメイプルシロップをたっぷりかけたのを覚えている。
 その一言でうさがなんともないことに安心したのも束の間。僕が彼女を抱きしめるようにしていたことに気づき、うさの肩を掴んで、適度に距離を取った。頬から耳にかけてかあと熱くなるのが自分でもわかる。
 まだ寝ボケているうさは僕の気持ちなど全く気に止めず、しきりに目をこすっている。僕もうさも本当なら今日は休日扱いだったのだから、昼まで寝ているつもりだったのだろう。
 思いがけぬハプニングに動揺した僕だったけれど、当初の目的、楽弥からの誘いをうさ用にひらがなにして書き写したスケッチブックを開き、うさに見せる。僕がそれを見せた途端、閉じがちだったうさの目が大きく見開かれた。
「ん、おまつり? いく!」
 そういった直後、うさはくるりと回転し、自分の部屋へと飛んでいった。ドタドタと階段を上がる音が聞こえ、次の瞬間にはうさの部屋のカーテンが開く。
「いるかー。これとこれ、どっちがいい?」
 パジャマを脱ぎ捨て、下着一枚になったうさが窓辺に立っていた。右手には白いブラウス、左手にはピンク地のフード付きパーカーが握られている。僕はほとんど凹凸のないうさの身体を見ないように顔を伏せ、後ろ手で彼女の左手を指さした。
「ちょっとまってて!」
 うさはそう言うと、驚いたことにその場で着替え始めた。インナーのシャツを着るときに頭がつかえ、へそから上や身体のラインが見える。すぐに目を逸らし たけれど、うさはそんなことを気にも止めていないようだった。思春期の少年からしてみると喜ぶべき光景なのかもしれないけれど、僕はどちらかというとそう いうのは苦手だし、なにより他の人に見られるかもしれないことを思うと、気が気ではない。
 嫉妬するかのように肩を強くつかみ、しきりに頭を振るアイリスをなだめることで、不純な感情を相殺していると、着替え終わったうさが階段をかけ降りてくる音が聞こえて来た。
 もし、僕が選んだ服が気に入らなくて、さっきと同じように肌着のまま降りてきたらどうしようなどと頭を抱えていると、後ろからポンと肩を叩かれる。振り 返ると、僕の選んだ服を羽織ったうさが上目遣いで僕のことを見ていた。小さなプリント付きのシャツにピンクのパーカー。下はプリーツ入りのミニスカート に、膝まである靴下を履いている。
「どう?」
 胸を張って言ううさの姿は可憐そのもので、多少子どもっぽいコーディネートとはいえ、すごく可愛かった。僕はすぐに胸ポケットからペン取り出し、「かわ いい」と素直な表現をぶつける。うさは少し歯を見せて笑い、今度はおもむろにパーカーのフードを被る。見るとそれはただのフードではなく、頭頂部でピンと 立つように作られたうさぎの耳がついていた。その小さな体格や愛らしい笑顔も相まって、本物のうさぎ以上に可愛らしい。
 あの時と同じように僕が彼女に見惚れていると、うさが不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。心の内を読まれてしまうような気がして目をそらそうとすると、それに合わせてうさも顔をずらしてくる。みるみるうちに顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。
「いるか、ぐあいでもわるいの?」
 心配そうな顔で見上げるうさ。僕は震えるペンをなんとか動かし、『げんきだよ』と伝える。
「そう? じゃあ、はやくいこうよ」
 ぴょんぴょんと飛び跳ね、うさは全身で嬉しさを表現する。僕はといえば、顔の火照りを覚ますので精一杯だ。でも、最初にあった時のようなよそよそしさがなくなり、こうやってたくさん話せるようになったのは素直に喜ばしいことだと思う。聖たちには本気で感謝している。
「ねえってば」
 ようやく顔の赤みが引いてきたところで、しびれを切らしたうさが僕の手をつかんだ。前よりもずっと人懐っこくなったうさの手の柔らかい感触が伝わり、ま たも頬に朱が差す。駄目だ、このままだと何時まで経ってもうさの顔を見れない。肩の上で暴れるアイリス。それに呼応するように、くぅと何かが抜けるような 音が聞こえてきた。
「あさごはん、まだだった……」
 僕の手を離し、お腹に手を添えるうさ。助かった。今の内に僕はスケッチブックに手をやり、待ってるから朝ごはんにしておいでと書く。
「うん。うさもフレンチトーストにする」
 そう言い残して、うさは園の中へ戻っていった。僕はほっと胸を撫で下ろして、不機嫌そうなアイリスを腕に移動させる。そして、そのときになってうさが言っていたことのおかしさに気づいた。
『朝ごはん、フレンチトーストって言ったっけ……?』
 甘い匂いだけでフレンチトーストだとわかったのだろうか。メイプルシロップの匂いは特徴的だとしても、正確な料理名まで特定できるとは思えない。うっか り独り言で行ったとしても、普通は聞こえないはずだ。気になってスケッチブックのページを捲ってみるが、やはりフレンチトーストなんて語句は見当たらな い。
『となると、やはりうさには聞こえている……?』
 今まで他に誰ひとりとして聞きとることのできなかった僕の声を。
 うさはものの十分ほどで戻ってきた。手には焼いたばかりのフレンチトースト。熱くないようにラップで包まれたそれを頬張るうさを見て、結局僕はうさに真 実を聞くことなく、学校へ向かった。甘く香る朝食とそれを夢中で食べるうさの隣にいられるだけで、今の僕には十分だと思った。
*
 休日に来た僕らの高校はいつもとは違う浮かれた雰囲気をまとっていた。校門には生徒が作ったらしいアーチがかけられ、冬高祭20周年と書かれている。
 門をくぐるとさらに空気が違った。何より違うのがその賑わいだ。始まったばかりというのに全校生徒はそわそわし、既に一般の人も何人か見える。
 また、玄関へと向かう道の脇にはいくつもので店、どこかの部がやっているブースなどが作られていた。いつもは割と規律の厳しい学校なのだけれど、今日だけは服装の乱れやなんかも割と容認されているようだ。
「みんな、たのしそう」
 学校に来ると無口になることが多いうさも、今日ばかりはいつもと違うようだった。学校全体を包み込む楽しげな空気に酔い、うさだけではなく僕の気分まで軽くなった気がする。
 楽弥との待ち合わせ場所は校門のアーチ下のはずだったが、そこに楽弥の姿はなかった。少し遅れているのかと思って見渡してみると、うさがいち早く部活のブースの一つを指さす。電脳研究会という怪しげな看板の前で、熱心に何かをしている楽弥がそこにいた。
「らくや!」
 僕たちに気づかないほど集中している楽弥に僕に変わってうさが声をかける。楽弥が握っているのはゲームのコントローラー。普通の家庭用ゲームとは異なるそれは、部員の私物と思われるノートパソコンに接続されている。
 隣には同じ冬海高校の生徒らしい男がコントローラーを握り、脂汗をかきながら画面を凝視している。
 楽弥はといえば目にも留まらぬ指さばきで自分のキャラクターを操作していた。うさの呼びかけに答えない楽弥を物珍しそうに僕とうさが見ていると、突然周囲の歓声が上がる。
「師走選手、五人抜き達成!! 一見卑怯にも思えてしまうほどの強さ! 彼に勝てるチャレンジャーは果たして現れるのでしょうか!?」
「ふっふっふ。この楽弥様に挑もうなど、一億光年早いわ!」
 負けた少年を見下ろし高笑いする楽弥。どうやら格闘ゲームの勝ち抜き戦をやっているらしい。僕もゲームはするけれど、主にRPG専門なので、タイトルやキャラクターを見ても、そのゲームのことは何もわからない。
「お。イルカとうさちゃん、来てたのかい。聖ちゃんもあすかちゃんも来てないから、遊んでたよ」
 いつになくテンションの高い楽弥はゲームのシステムらしい専門用語を矢継ぎ早に口にし、その素晴らしさ、ゲーム性の高さ、そして自分の強さを教えてくれた。無論、僕もうさも全くなんのことだかわからなかったし、興味もなかったのだけれど。
「この高慢極まりない選手を打ち負かせる猛者は現れないのでしょうか!? 挑戦者求ム!」
 電脳研究会の人がメガホンを使って、さらに周囲の人を煽り立てる。しかし、我こそはと名乗り出るものは皆無だった。みな、楽弥の圧倒的な強さを目の当た りにしているのだ。経験者なら、なおさら名乗り出ないだろう。余裕しゃくしゃくの楽弥に皆ムカついているだろうけど、手出しはできない。負けるのがわかっ ていて挑戦しては楽弥を調子に乗らせるだけだ。
「僕、やってもいいかなぁ」
 その言葉とともに参加料の百円玉をテーブルの上におく男。その無謀とも取れる行動に周囲の観客は息を飲んだ。そして、その直後、爆発的な歓声が巻き起こる。
「いいぞー! やれー! あの野郎をケチョンケチョンにして泣かしちまえ!」
 熱烈な応援、というよりは野次に近い歓声。それを一身に受け、小さくピースサインをする少年。見ると、野次に紛れて、遠くから気持ち悪いものを見るように避けていた女子たちが、ざわざわと集まってきていた。男だけのムサい空間が一気に女子率高めの空間と変わる。
「くっ……何も知らん女子どもめ。イケメンだからってあまり調子にのるなよ」
 いかにも負け犬らしいセリフを吐き、楽弥が対戦相手を睨みつける。たじろぐ少年は見たところ高校の生徒ではなく、一般の人だと思った。何しろ金髪碧眼でモデルのような甘いマスク。服装も制服ではなく、襟付きのシャツをカジュアルに着こなしている。
「チャレンジャー。お名前を伺ってもよろしいですか?」
葉月煉司はづきれんじです。あの、このゲームやったことないんですけど、操作の仕方教えてもらっていいですか?」
「え……?」
 申し訳なさそうに頭を掻く挑戦者を見て、凍りつくメガホン男。隠れた猛者の出現かと思い、熱気に包まれていた場内が急激に冷め、少年目当ての女子以外は ヒソヒソと影口をたたき始めた。素人が勝てるはずがない、イケメン爆発しろなど、そんな感じの暗い言葉が僕たちにも聞こえてくる。
 そんな中、ひとりだけ違う反応をした人がいた。僕の袖を引っ張る女の子。うさだ。
「あのひと、ちのにおいがする」
 拳を握り締め、僕に真剣なまなざしを送るうさ。嘘をついているようには見えないけれど、僕にはどうみても彼が普通の人にしか見えなかった。なんども首を振るうさのことは気になったけれど、楽弥がいることもあり、この場を離れるわけには行かない。
 煉司と名乗った少年は係の人から一通り説明を受けると、わかりました。ありがとうと礼を言い、楽弥の隣で同じようにコントローラーを握る。
「金髪野郎。いいか、俺の信条ってやつを教えてやる。第一に女キャラを使う。第二に強キャラを使う。そして、第三にどんな卑怯な手を使っても勝つ。わかったか」
「はは……お手柔らかに」
 口での牽制が終わり、両者使用キャラを決めて決定ボタンを押す。楽弥は凶悪な武器を片手で持った女の子のキャラクター。挑戦者は火を操るいかにも主人公っぽいキャラを選んでいた。一瞬の静寂。ゲームの効果音が鳴り、戦いの火蓋が切って落とされた。
 
目次 #38