#36 イルカの門
 僕はイルカ。と言っても優雅に水中を舞うあの哺乳類のことじゃない。僕にはあんな風に人を喜ばせたりは出来ないし、実のところ泳ぐこともできない。文月イルカという名前を持つただの人間だ。
 けれども、一つだけ彼らと似ている部分があるとするならば、ぼくも彼らも言葉を発することができないということだろう。同じだと言わなかったのは、イルカは超音波で話すことができると聞いたことがあり、どちらかというと僕の方が劣っていると思ったからだ。
 僕は生まれた瞬間から声を出す事が出来なかった。産声すら上げなかったと言うのだから、両親もさぞ心配したに違いない。後で調べてわかったことだけど、僕の声帯は他の人たちとは構造そのものが違うらしく、普通の人のように話すことはできないと見てくれた医者に、そう言われた。原因も病名もまだ存在しない、きわめて珍しいケースらしい。
 喋ることが出来ないことを不便に思うことは何度かあった。それでも、それは日常生活にそれほど影響は無いと僕自身そう考えていた。なぜかと言われても、うまくは説明できない。僕にとっては喋れないことが当たり前で、喋ることが出来る人の気持ちなんてわからないのだから。

 ここから、少し昔の話をしたいと思う。僕が彼女と運命的な出会いをした、あの時の話だ。
 僕の実家はまちの小さなペットショップを経営していた。扱っている動物はハムスターやフェレットなどの小動物から、番犬用の大型犬までとあまり多くない。店の大きさに比例して客足も少なく、両親は他にいくつもの仕事を抱えていた。本業であるはずのペットショップよりも副業の方が家計を支えていると父が笑いながら話していたのを覚えている。
 喋るという人間としての必要最低限のコミュニケーションが取れない僕は、必然的に学校でも浮いていた。初めは面白がって筆談に応じてくれるクラスメイトもいたけれど、それも一時的なものでしかなく、すぐに飽きられることを幼いながらも理解してしまっていた。もちろん、友達なんていなかったので、僕は暇潰しがてらペットショップの店番をするのが日課となっていた。
 転機は突然訪れた。忘れもしないあの日。冬海中学の特別クラスへの編入が決まった日の昼下がりのことだ。
 いつも通り店番をしていた僕は客が来ないのを良い事に、売り物の動物たちに話しかけていた。もちろんそれは本当に会話しているわけじゃない。普通の人たちが話すように口を、舌を使って発声するフリをしていただけだ。周囲の人たちには動物に向かって口パクしている変人に見えたに違いない。
 それでも僕は満足してそれを続けていた。音も動きもなく、誰にも迷惑をかけることのない遊び。喋れない者同士の不思議な供感覚というか、僕にはペットたちがただの動物ではなく、友達以上のかけがいのない存在のように感じていたのだ。
 話を戻そう。その日、僕は店で一番高い猛禽類、シロハヤブサに向かって話しかけていた。狭い籠に閉じ込められて可哀そうだなと声をかけていたときに、ハヤブサが何かの気配を感じたのか、ほんの少し首を傾げた。それにつられて僕も振り返ると、小動物のコーナー、うさぎのケージの真ん前に、赤いランドセルを背負った女の子がしゃがみ込んでいるのが目に映った。どうやら、喋ることに夢中でお客さんが来たことに気付かなかったらしい。
 僕はお客さんに話しかけようとして、その時になっていつも使っているスケッチブックを部屋に置き忘れてきてしまったことに気が付いた。よく使う接客用語や、お会計の時に使いう定型文が綺麗にページ分けしてあったそれが無いと、僕は店番をすることが出来ない。にもかかわらず忘れてきてしまったのは、あまりにもお客さんが来ないからに他ならない。
 とんでもない失態だった。でも、その数秒後にはそんなちっぽけなミスは気にならなくなっていた。赤いランドセルの女の子はハヤブサと喋る僕以上に集中していたのだ。物言わぬうさぎを愛おしそうに眺める少女。一目で動物好きだとわかるその表情に、僕は生れて初めてその少女に恋をした。
『あの』
 何故あんなことをしたのか、今でもわからない。僕は感情の赴くままに彼女に話しかけていた。その時だけ話すことが出来るようになったなんて、都合のいいことは起こらない。いつもと同じミュートで固定された声で、彼女の背中に向けて声をかけていた。
「……!」
 少女は僕がそこにいることに今気づいたらしく、すごく驚いた顔をした。でも、一番驚いたのは他でもない僕の方だった。僕がしたのは聞こえない声で、それとなく彼女を呼んだだけ。肩を叩いたり、大きな音を立てて歩いて行ったりしたわけでもない。
 けれど、彼女は僕に気付いた。彼女は僕の”声”に反応して、こちらを向いたのだ。
「……」
 痛いほどの沈黙。彼女が僕に対して初めて見せた表情は驚き。それに続いて見せたのは眉をハの字にして怯えた表情だった。うさぎを見ていた時のこちらまで安心するような表情とは違う、純粋な恐怖。悪いことをして起こられる直前のような顔と言えば、わかりやすいかもしれない。
 一方、僕はというと突然訪れた初めての体験に固まってしまっていた。生まれて初めてやった言葉でのコミュニケーション。日々、動物たちとしていたゴッコ遊びとはまるで違う感覚。その衝撃は計り知れないほど大きく、もとより何か考えて行動ではなかったにせよ、それ以上何も話すことが出来なくなってしまった。
 狭い店内でかすかにざわめく動物たち。少女は両手を固め、小さく震えていた。一切音を発することのない二人の間、時間が止まったように感じたのを覚えている。
 止まった時間のなかで、僕は必死に次の言葉を探していた。もっと話をしたい。そんなごく当たり前の感情に強く突き動かされるように、どうすれば彼女を安心させられるかを考えていた。でも、肝心の言葉は何一つ出てこない。言葉でのコミュニケーションの経験が圧倒的に不足していた。長い沈黙に彼女の表情は次第に固まっていき、ついにはそのつぶらな瞳に涙まで浮かべている。
 硬直した僕に代わって先に動いたのは彼女の方だった。
 彼女は口を真一文字に結び、直後ペコリと頭を下げた。それも一度ではなく、何度も。謝っているのは分かったけれど、どうして謝られているのかはわからなかった。
 彼女は何も悪いことなんてしていないのに、どうして謝っているのだろう。何故だか僕も申し訳ない気持ちになり、とめどなく続く謝罪を止めるために彼女の手に手を伸ばした。
「……!」
 指先が触れた瞬間、熱いものに触ってしまった時のように、彼女の身体が小さく跳ねた。そのあとは一瞬の出来事だった。少女は両目を見開き、目にもとまらぬ速さで店の出口へと駈け出したのだ。
 呼びとめようとしたときには、既に幻のように姿を消していた。その時、僕の目に焼きついたのは赤いランドセルに書かれていた彼女の名前。手書きで書かれたひらがな五文字。
『うづきうさ』
 彼女にしか聞こえない言葉で、その名を呼ぶ。これが僕の世界をがらりと変えた彼女との、初めての出会いだった。

*
 楽弥からのメールが来たのは午前三時の丑三つ時に差し掛かる頃だ。内容は明日の文化祭についてで、要約すると良かったら遊びに来ないかというものだった。
 文化祭当日、特別クラスは休日となっている。いわゆる普通ではないクラスに位置する僕たちの中には脳に障害を持った生徒や、いろいろな問題点からクラス行事に興味を持つことが出来ない生徒も多いので、文化祭は任意参加の形を取っているのだ。
 僕は一言、行くとメールを返した。光の反応で楽弥からうさも誘ってくれという旨のメールが返ってくる。うさは携帯を持っていないことを知っているから、最初からそのつもりで僕にメールしたのだろう。そんな下心丸出しのメールだったけれど、そんなに嫌な気分ではなかった。
 むしろ、こんな僕たちをわざわざ気にかけてくれる当たり、ついでとはいえ嬉しかった。
 うさは両親が刑務所に入ってから、ずっと施設に入っている。僕はうさの過去を聞いてからというもの、その方が良いと思っているし、そっちの方がうさにとって幸せだろうと思っている。
 僕はベッドから上半身だけを起こし、電気は点けずに机の上にあるケージを眺める。その中で目を閉じ、眠っているのはあの時のシロハヤブサ。家のペットショップで売れ残っていたのを、父から誕生日にプレゼントされたものだ。
 うさと巡り合わせてくれた彼女のことを僕は本当の親友だと思っている。
『アイリス』
 無音の闇に彼女の名前を呼び掛ける。吉報を意味する花言葉から取った名前。聞こえるはずのない僕の声に反応して、わずかに羽ばたく音が聞こえた気がした。
 充電していた携帯を取り、楽弥にメールを打つ。内容はこうだ。
『文化祭にペット連れてっていいか?』
 
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