#35 煉獄前域
 僕の生まれた国は狭い国土に一億以上の人口を抱える先進国だ。根幹産業は工業品の輸出。治安は良く、教育も進んでいて、識字率も100%だという。一般的に見て裕福な国だと他国からは思われている。
 でも、外見だけだ。僕は仕事をするたびにそう思う。確かに割と安全は保障されていて、食うには困らないし、不況と言ったって餓死したりはしない。暖かい地域ならホームレスになったってなんとか生きていけるだろう。間違ってはいない。でも、当たってもいない。
 実際は全ての人が裕福ってわけじゃないし、運が悪ければ死んだりする。一部の富裕層や人口の多さが自国の幸福度を底上げしてるだけなんだ。
 僕は点けたばかりのタバコを一度、口から離し紫煙をくゆらせる。夜闇に赤く燃ゆる火からは甘い香りの副流煙が香った。薄く立ちこめる煙。それに群がる人々……これがこの国の本質だ。その身体には既に尻ではなく、頭に火が付いている。
「これから定例報告かぁ。鬱だ……」
 ため息とともに両肺を満たしていた主流煙を吐き出す。副流煙の香りとは裏腹に口に含んだ煙は苦い。マイルドなんて銘打ってはあるが、気休め程度の差だ。
「あの人苦手なんだよなぁ」
 暗闇にさんざんときらめく摩天楼の中、ひときわ大きくそびえたつビルを眺めながら、一人ごちる。時計を見ると約束の時間まであと五分のところまで来ていた。仕方なく、まだ半分以上も残っているタバコをコンビニに備え付けられた灰皿に押し込む。慣れた喫煙のはずが、少し頭がくらくらした。これから起こる気苦労のせいだろうと勝手に決め付ける。
「間に合うかなぁ……」
 走ればぎりぎりで間に合うかもしれない時間だったけど、僕は歩くことを選択した。どうせ走ったって間に合わないかもしれないし、多分あのエレベーターは僕の目の前で行ってしまうような気がしたからだ。きっと時間きっかりに彼女からの電話があるだろう。もちろん恋人からのラブコールなんかじゃない。同僚からの催促の電話だ。
「怒ってないといいけど」
 半ば分かっていながらも、せいぜい半ギレ程度で済めばいいななんて思いつつ、人波をかき分けて目的のビルを目指す。
「あ」
 なんて言い訳しようと考えている内に歩行者用の信号が赤に変わってしまっていた。
「参ったなぁ……」
 これは五分遅刻じゃ済まなそうだ。僕はおもむろにシガ―ケースに手をかけたところで、遅刻をとがめるような電話の着信音鳴った。

*

「これで何回目ですか! 転んだおばあさんのために葬儀屋を呼んでたなんて言い訳が通用するわけないでしょう!?」
 至近距離で怒鳴られ、思わず耳を塞ぎ、まばたきしてしまう。彼女は同業者にしては珍しく、時間に厳しくて、とにかく真面目だ。その剣幕に僕はいつも通り平謝りするしかない。必死に頭を下げて、許しを懇願するのだ。
 結局、あの電話の直後、僕は街中を全力で走らされた。鼓膜が破れるかと思った怒鳴り声は他の信号待ちの人にも聞こえていたみたいで、酷く気まずい思いをした。おまけに走ったせいでスーツは乱れ、汗でぬれた背中にシャツが張り付いてしまっている。
「もう、次に遅刻してきたら、タバコ全部取り上げますからね!」
「それだけはご勘弁を」
 恐ろし過ぎる脅しにたまらず、すがりつくように土下座をする。彼女なら今すぐにでもやりかねない。そういう性格だってことは短い付き合いながらも熟知していた。
「アトリちゃん、その辺にしといてあげて。彼、泣きそうだわ」
「はッ、リーダー殿!」
 見惚れんばかりの礼儀正しさで敬礼をするアトリ。その類稀なる敬意の先には窓辺にたたずむリーダーの姿があった。彼女をあそこまで完璧に律することが出来るのはリーダーだけだ。僕は助け船を出してくれたあの人に簡単なお礼を言い、ポケットにしまっておいたメモ帳を取り出す。
「ありがとうございます。えっと……今回の報告ですけど」
「葉月、ちょっと」
 僕がメモ帳を読み上げようとしたところで不意に名前を呼ばれ、急に襟首を掴まれる。彼女はびっくりして身構えた僕を上目遣いで見やり、言った。
「ネクタイ曲がってる」
「あ、うん」
 てっきりアッパーでも食らわされるのかと思った。ネクタイを直す彼女の後ろで一つに結った髪からシャンプーの匂いがした。髪の隙間から覗くうなじは季節は秋なのに日焼けしたような褐色で、なんだかとても艶かしい気がする。
「これでよし。さっさと定例報告して」
 彼女は僕のネクタイがちゃんと直ったのを確認すると、部屋の脇に引いた。変なことは言うなよとしっかり釘をさしていった辺りは実に彼女らしい。視界の隅でリーダーが退屈そうにあくびをしてるのが見えた。
「すいません。お待たせしました。今回の任務の定例報告をします」
「うん。良い結果は出たかな」
 リーダーは祈る様に両指を絡め、俺の動向を見ている。下手に失敗しましたなんて言ったら何て言われるんだろう。そんなことは一度もないけど、あの表情を見るとやりづらいったらありゃしない。
「えーと、多分、大丈夫です。まず、あの汚職政治家の件ですが、愛人を誘拐したらようやく首を縦に振りました。マスコミ関係者に圧力をかけるように言ってあります。それと、ウチの組織をコソコソ嗅ぎまわってた刑事は始末しました。試験体二番の件では接触自体は出来たのですが、曖昧な返事をされました……が、もうひと押しだと思います」
 試験体二番の話をしたところで、アトリの眉がピクリと動くのが見えて、慌てて嘘をつく。リーダーにはお見通しだろうけど、どちらにしても任務は継続するつもりだから、問題にはならない。
 僕が報告書とは程遠い手書きのメモを手渡すと、リーダーは満足そうにそれを眺め、腰かけた椅子を転がして僕の頭に手を伸ばす。それにつられるようにして僕は片膝をつき、王女様にするようにひざまずく。
「ごくろうさま。あなたのおかげで全部予定通りよ。優秀な部下を持つと幸せね」
 伸ばした手はそのまま僕の髪の毛に乗っかり、くしゃくしゃと頭の上あたりを撫でる。
「……」
 僕はそれが終わるのを黙って待った。僕はこうされるたびにすごく複雑な気分になる。それがどんな感情かと言われても言葉にはできないけれど、とにかく苦手だった。
「報酬はいつものでいいかしら?」
 手が止まり、突如報酬の話になる。それに対する答えは既に用意してある。考え抜いた末に出した至高の答えだ。
「あの、クールブーストの5ミリと、マルボロのアイスミントにしてもらえないですか? 前のよりちょっと高いですけど」
 リーダーは大きくうなずき、にっこりと微笑む。その隣にはうらやましそうに僕を見ている同僚の姿が目に入った。彼女はタバコを吸わないから、報酬のことではなくて、僕がされたあの行為のことだろう。僕はいつもの「いい子いい子」よりも、報酬をもう1カートン増やしてくれた方が嬉しいのだけれど。
「アトリちゃんの報告は先に聞いたから、これで全部ね。それと、ついでで悪いのだけれど、新しい任務があるの。受けてくれるかしら?」
 纏った衣服をたおやかになびかせ、この街の半分は見渡せるような大きな窓の前に立つリーダー。その先には星空にも似た夜景が広がっている。
 リーダーはいつも依頼の内容を言わない。それは僕たちが任務の内容に関係なく受けることを知っているからだ。一応、その依頼は疑問の形を取っているが、実質それは命令に近い。
「”鳥籠”でお祭りがあるらしいの。そこにいる月の欠片たちを連れて来て欲しいんだけど」
「はい」
 二つ返事で了承する。”鳥籠”。その言葉が出たときに僕の胸は高鳴った。ついに今の今まで眺めているだけだった”鳥籠”の戸を開けるときが来たらしい。
 あそこには十一番がいる。他にも僕の同類が何も知らずに平穏な日常を送っている。いつかは行ってみたいと思っていた所だ。受けないわけがない。
「計画ももう終盤に差し掛かってるのですね」
 アトリが髪を掻き上げ、嬉しそうにそう言う。彼女の手は固く握りしめられ、喜びに打ち奮えていた。
「月が私にそう言ったのよ。きっと鍵も手に入るわ。私の先見は外れたことが無いもの」
 僕たちに背を向け月を見上げるリーダーの姿は、月明かりを受け神々しく、この世のものでは無いように見えた。いや、実は本物の神様なのかもしれないと半ば本気で思う。
「零音はどうしますか?」
 アトリはもう一人の同業者の名前を口にし、指示を仰ぐ。答えはすぐに返って来た。
「彼にはもう伝えてあるわ。暴走しないようにあなたたちでフォローしてあげて。他に二十人くらい構成員も呼んであるから」
「了解しました」
月のように明るい笑顔を見せるリーダー。
「それじゃ、ほどほどに頑張ってきてね。あと、一般の人には迷惑をかけないように」
 リーダーはお決まりの平和主義を口にし、それに対する僕たちの返事も決まっていた。
「御意。我ら”第五の季節”を導くものなり」
 二人揃って口にする合言葉。僕は吸ったことのないタバコの味を想像するように、まだ見ぬ十一番はどんな人なんだろうと胸をときめかせていた。
 
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