#34 エンドレスガール
 それは、よく理科室とかにある小動物の標本に似ていた。生命をホルマリンにつけて、保管、観賞用として半永久的に生き物の姿を固定する。彼らはまるで生きているかのように生前の肉体を保ち続けるが、それを生命とて意義付けるために一番大切なものが失われている。
 そう、彼らはもはや生命ではなく、魂の抜けた器だけの存在に過ぎない。人の手によって、言い換えれば薬の防腐作用によって、”死んだ”瞬間を保ち続けるのだ。
*
「あすか!」
 俺が助けに来た少女の名を叫び、人一人がすっぽり入る容器を両手でガタガタと揺するが目を閉じた少女は何の反応も示さず、水色の液中に漂っている。容器が振動した拍子に試験管の中の気泡があすかの髪の毛をわずかに持ち上げただけだ。
「クソッ!」
 透明なケースに両手を強くたたきつけ、悪態を吐く。激情が全身を駆け巡り、それを抑えきれず、何度も容器に怒りをぶつけた。何に対して怒っているのか、 自分でも分かっていた。今までに感じたことの無かった平穏に警戒心が薄れ、あすかのことを守れなかった自分自身に対してだ。
「弥生」
 今にも爆発しそうな感情の矛先をあすかをこんな目に合わせた張本人に向ける。弥生は俺が声をかけるよりも先にこちらに歩みだしていた。何をされるのかと一瞬身構えたが、弥生は黙ってしゃがみこみ、ケースの土台部分からなにやら複雑な装置を引き出す。
「乱暴しないで。今、排水するわ」
 いくつかに色分けされたボタンを素早く押し込み、最後に脇にあった小さなコックをひねる。さっきとは比べ物にならないほどの泡が生じ、土台に繋がっていたホースを通じて、少しずつ水色の液体が排水されていった。
「あすかは、生きているのか?」
 謎の液体につけられ、身動き一つしないあすかが、水の流れと共にケースに背中を預けてへたり込む。濡れた髪が肩にかかり、目を閉じたままの彼女は生命の無い人形のように見えた。
「生きてるかどうか、直接触って確かめてみたら?」
 弥生は完全に排水されたことを確かめると、再び装置をいじり、容器の前半分を横にスライドさせる。開いたと同時に容器の内側から、甘い香りと生暖かい湯気のようなものがあふれ出してきた。
 丸一日ぶりに、あすかが手の届く距離にいるのだが、俺はどうしてか手を伸ばすのを躊躇ってしまう。彼女が衣服を着ていないからというのもあるが、一番の理由は他にあった。
 フィアレスの少女を殺そうとした俺にあすかに触れる資格があるのか。また、我を忘れてあすかを傷つけてしまわないか。俺の迷いが伝染したかのように俺の右手は動こうとしないのだ。
「意識ないから、どこ触っても平気よ?」
「そういう問題じゃない」
 弥生の茶化しを片手で払い、大きく深呼吸する。だらりと垂れ下がり、無造作にひざの上に置かれたあすかの右手。俺のものより一回りも二回りも小さいそれに手を伸ばし、指先だけで触れる。
「温かい」
 指先から伝わってくる体温。どこか安心させてくれるような感触に、胸の奥が微かに痛んだ。
 今度は右手全体を両手で覆うように優しく握り、そっと目を閉じる。小さくも絶えず続く脈を手のひら全体で受け取ったようで、心から安堵した。
「死んじまったかと思った……」
 確かな生を感じ、同時に抱き寄せたいという感覚に襲われるが、ぐっとこらえる。
 もし、あすかが目を覚ましていたとしたら、そんなことは望まないだろう。俺がこの短期間で経験したことを知らず、今まで通りの俺だと思っていたとしてもだ。
 今はただ、あすかと話がしたかった。怖い思いをさせてごめんと一言謝りたい。そんな思いを胸に、あすかの手を握り続ける。
「意外と紳士なのね。じれったくて、ちょっと妬けるわ」
 その一言で、弥生にことの一部始終を見られていたことに気付き、慌てて手を放す。あすかの手は重力に引かれて元と同じところに収まり、あすか本人も昏々と眠り続けていた。
 俺は上着の脱ぎ、寒そうなあすかの肩からかけてやる。誰にもこんな無防備な姿を見せたくなかった。無論、女である弥生にさえも。
「あすかが無事なのは分かった。だが、いくつか聞きたいことがある。まず、あすかに何をしていたんだ? あの機械は何なんだ? どうして、あすかは目を覚まさない?」
「そんないっぺんに言われても答えられないってば」
 弥生は大きなあくびを手で隠し、眠たそうに目をこする。本当にアルコールに弱いのか、ほんの少しだけ身体が上気しているようにも見えた。
「一個ずつなら答えてあげる。まずはあすかちゃんが入ってた装置についてだけど、簡単に言うとケースが母体で溶液が羊水のようなものよ。あの試薬が口から 入って、肺を満たせば同時に水中でも呼吸が出来るようになるの。栄養とかも取れるから、意識がない以外は健康体を維持できる」
 LCLのようなものよと付け加えたが、どうもよくわからない。科学的な話はついていけないと思うので、目的はと質問を変えた。
「目的は……ちょっとあすかちゃんの記憶を洗ってたのよ。一応、私の先輩でもあるし、何か知ってるかなと思って」
「そりゃ、どういう意味だ」
 記憶を洗う……なんとも非人道的な響きに、声を低くして言う。洗脳という言葉が頭に浮かんで、背筋が冷えた。
 一方、弥生はというと……俺の凄みなどどこ吹く風で、深刻な様子は一切なく、何度も欠伸を噛み殺している。弥生は俺が怒っているのにようやく気付くと、俺が想像してるのとは違うとはじめに断った。
「要するに、あすかちゃんの脳に色んな質問をしたのよ。あすかちゃんは分かる範囲で質問に答えるだけ。洗脳とかそういうのじゃないの」
 弥生は二本目のビールをゴミの山の下から発見し、喜んでそれに爪をかける。そして、それを見せ付けるようにして続けた。
「本人は覚えてないと思っても、人間の記憶は消えたりしないものだから。記憶が増えて探しづらくなっているだけで、絶対になくなることはない。ちょうどこの部屋みたいなものよ。最近のものは意外とすぐに目に付くけど、一ヶ月前のものはどこにいったか分からないって感じ」
 弥生の話し振りからあすかの人格そのものを変えてしまうようなものではないということは分かったが、どうにも引っかかった。どうして弥生があすかの記憶 を覗き見るようなことをする必要があったのか。あすかは警視総監の娘であることと少し変わった性格を除けば、普通の女子高生に過ぎない。
 試験体二番。俺と同じ呼称を持つことと何か関係があるのかもしれない。
「さっき言ってた先輩ってのはどういう意味だ? どう見てもあすかはお前より年下だぞ」
「あー、口が滑ったみたい。聞かなかったことにしてよ」
 右手をひらひらさせ、はぐらかす弥生。その質問は弥生の言う” 聞かないほうが良いこと”に当たるのだろう。どうやら、俺の勘は当たっていたらしい。他の仲間にも危険が及ぶ、そんな弥生の言葉も蘇り、その質問に対してはそれ以上言及できなかった。
「……わかった。あすかが目覚めないのは、どうしてなのか教えてくれ」
 動かないあすかに目をやり、もう一度問いかける。俺がそれを口に途端、弥生は待ってましたと言わんばかりに目を輝かせた。
「ふっふっふ、それは私があすかちゃんが勝手に起きて騒がないように、深ーい暗示をかけたからなのです。じゃーん」
 弥生は自らの声で効果音を付け、ポケットの中から透明なビニール袋に包まれた何かを取り出す。袋の中に入っているのは白い陶器。よく、刑事ドラマや何かで使われる証拠品のようだった。
「それがなにか?」
 温いビールを多めにあおってから、ニシシと笑う弥生。よく見るとそれは使用済みのコーヒーカップであることが分かった。内側には茶色い線が残り、飲み口についた汚れもはっきりと見えている。
「実はあのレストランであなたが使ったコーヒーカップを回収しておいたのです。これがどういう意味か分かる?」
 俺は皆目見当がつかず、二度首を横に振る。たかがコーヒーカップとあすかに関係があるとは思えない。あるとしたら、俺たちを眠らせるのに使った睡眠剤の 薬効成分が残ってるくらいだろう。だが、弥生がやけに嬉しそうなのを見ると、それだけではないという予感がヒシヒシと感じる。もちろんそれはいうまでもな く嫌な予感だ。
「もう、鈍いなあ。このコーヒーカップからあなたの唾液を採取したのよ。我ながら気が利くと思ったわ。さすがにもう分かったでしょ?」
 不敵な笑みを見せ、俺の顔を覗き込む弥生。この変人が喜びそうなこと、あすかにかけた暗示と俺の唾液。ただの予感がほぼ確信めいたものに変わっていく。
「おい、まさか……」
「はい、時間切れー。正解はあなたの体液があすかちゃんの身体に入り込むと目が覚めるでしたー」
 なんてこった……半ば予想できただけに、その衝撃はとてつもなく大きい。それと同時に怒りだかなんだかわからないが、とにかく眩暈と頭痛がした。
 このバカはそんな高等な技術をどうしてここまで頭の悪いことに使えるんだ。もっと世界中で役に立つようなことに使えよ。
「王子様のキスで目覚めるなんて、ロマンチックな演出でしょ? あ、別に唾液じゃなくても良いのよ。あなたのDNAであればね。ついでに言えばキスじゃなくて、下のく……あ痛」
 皆まで言う前に、弥生の頭を平手で軽く殴る。断じて照れ隠しではない。俺とあすかの名誉を守るためにやったまでだ。
「頼むから死んでくれ。じゃなければ病院に行ってくれ。そして、そのまま永久に出てくるな」
「ヤダ。私、健康だし」
 バカは死んでも治らないと言うが、バカというのはいたって健康なやつが多いのが困り様だ。弥生はいたずらっ子のように、カタカナ二つの言葉を連呼する。それは性質の悪い飲み会で繰り返される、拷問のようなコールに似ていた。
 そんな様子に嫌気が差して、やむなく俺は決断する。いずれはしなければならないのなら、今やろうという単純な結論だ。
「……目を塞いでろ。何なら抉ってくれても良い。すぐに終わるから」
「だが、断る。私には愛し合う二人の初めての瞬間を目に焼き付ける義務があるわ!」
 誰かこいつを殺してくれ。弥生のニヤニヤ笑いの成果、これからやらねばならない重大な責務からか頭痛が鳴り止まない。
 この茶番は一体何なのだ。俺がしなければならないことも、それをした後にあすかが目覚めてどんな反応をするかも、全てが憂鬱だった。それらを全部ひっくるめて、弥生はニヤついているのだろう。そう、いくら考えても俺に出来ることは一つしかないのだから。
「あすか、これは巧妙に仕組まれた罠なんだ。他意はない」
 眠れる姫に語りかけるように自分に言い聞かせ、そっと両肩に手を添える。あすかの表情は先ほどとほぼ変わらないが、心なしか何かを待ちわびているようにも見えた。こんな事故のような状況なのに、自然と鼓動が早くなっていくのを感じる。
 すまん、他意はないと言ったが、俺は弥生に引けをとらない大嘘つきだ。自分でも分かる。その証拠にあすかの濡れた唇から目が離せなくなっている。
「……ん」
 その声が聞こえたのは、ちょうど俺が目を瞑り、鼻がぶつからないようにわずかに首を傾げた頃だった。あすかの吐息が俺の口に触れ、思わず目を開けた瞬 間、限界近くまで見開かれたあすかの瞳と俺の目が合った。その瞳に移った勘定は驚き、次に恐怖、最後に怯え混じりの恐怖の順だ。
「――ッ!?」
 それは悲鳴というよりは絶叫に近いものだった。何が起こったのかわからず、俺が我に還った時には、既に頬を鳴らした後だ。その一撃は、丸一日以上意識がなかったとは思えないほど鋭かった。
 完全な不意打ちに、あすかが収まっていた容器の内側に頭を強打し、遅れてやってくる鈍痛に頭を抱える。
「聖の大馬鹿者っ! 強姦魔っ!」
「あすか、これは……」
 慌てて弁解しようとするも、ああなったあすかに話が通じるわけもなく、殴る蹴るなどの暴行を受けながら、「あーあ」と弥生があきれた声で呟くのを聞き取るだけで精一杯だった。
*
 あすかが完全に落ち着くまで、十数分かかった。その間、俺の受けた仕打ちはそれはもう酷いもので、俺の両頬には大きなもみじが鮮やかに咲いている。
 結論から言うと俺の体液云々は弥生の吐いた真っ赤な嘘だった。またも弥生にしてやられたわけだが、自分の非もあってか怒る気にもなれなかった。多分、あすかが想像以上に元気だったことも怒らなかった理由の一つだと思う。
「まぁ、無事でよかったよ。うん」
「……」
 ジト目で俺のことを睨めつけるあすか。気休めにこんなことを言ってもまったく許してくれる素振りはない。俺が事情を説明しても、聞く耳もたずもいいとこだった。
 それはというのも、弥生の軽はずみな一言のせいだ。
「倒れた聖君を一生懸命看病したの。二人、同じベッドで一夜を共にしたわ」
 勝手に腕を組んで言う弥生を見て、冷や汗が出た。あれを看病というのなら、俺は二度と病院には行かない。
 弥生が看病という言葉を使った時に、あすかが何か言いかけた気がしたが、俺と目が合うとすぐにそっぽを向いてしまった。そんな態度を取られ続けては、さっきとは別の意味で参ってしまう気がする。
 気まずい沈黙。弥生は自分の作戦が上手くいってやけに上機嫌だったが、これ以上俺と弥生が話しているところを見られると、あすかの機嫌がどんどん悪くなるのでそれもできない。
 俺は手持無沙汰に、しばらく放置していた携帯電話を開く。落としたりしていたので壊れていないか心配だったが、細かい傷こそあれ機能は正常に動いていた。意外と丈夫なものだなと感心する。
 だが、その直後ある異変に気付き、タブーだと知りつつも弥生に向かって叫んだ。
「おい、俺は一体何日寝てたんだ!」
「二、三日くらいかな」
 なんてこった。一瞬時計が壊れたのかと思ったが、そんなことはなかった、今の今まで気づかなかったのもおかしいが、そんなに時間が経っていただなんて。光の入らない研究所にいたせいもあるが、問題はそこではない。
 あすかを救出しに行った日の二日後、それは奇しくも文化祭の当日だったのだ。
「あすか、ヤバイ。今日が文化祭だ! すぐに出るぞ」
「ケンカしてる場合じゃない、か」
 さすがのあすかも今日が文化祭だということを知ると、慌てて立ち上がった。その拍子に俺が被せておいた上着が落ち、局部だけを隠したあすかの裸体が露わになる。
「え、なに……これ……」
 俺は一応顔を逸らして見ないようにしたが、あすかはすぐに自分があられもない格好をしていることに気付き、顔を真っ赤にしてその場に座り込んでしまった。気のせいか、少し震えているようにも見える。
「弥生、制服はどうしたんだ?」
「ないよ。処分しちゃった」
「……」
 いくら文化祭があすかにとって大事だとはいえ、あんな格好ではあすかも動けないだろう。弥生の服を借りるというのも考えたが、明らかにサイズが合わな い。弥生に用意させるにも、時計は既に昼休み近くまで針を進めていた。打つ手なし……文化祭は諦めるかというところで、弥生が思い出したとばかりに両手の 平を合わせる。
「そういえば、あすかちゃんの私物に可愛らしい服があったわ。あれを着れば良いんじゃない?」
「それだ!」
 二人でファミレスに行った時、あすかは俺に見せるために作りたてのメイド服を持ってきていたのだ。格好がどうとか言っている場合ではない。ほぼ全裸よりは遥かにマシだろう。
「あすか、それでいいか?」
「うん……」
 膝を抱えながら恥ずかしそうに頷くあすか。その様子はなんとも愛らしく、目が逸らせなかった。思わず見入ってしまった俺の肩を弥生がぽんと叩く。
「あなたもそんな血だらけの服じゃまずいでしょ。部下のスーツがあるから、着て行きなさい。男の戦闘服といえば、やっぱりアルマーニよね」
「ああ。恩に着る」
 弥生は目元だけで微笑み、着替えが終わったら送ってあげるわと言って、どこからか黒い通信機のようなものを取り出した。
「私よ。至急、黒鷹君を用意して。運転? 私がするわ」
 手短に連絡し、一方的に通話を終える弥生。俺がどうしてそこまでしてくれるんだと尋ねると、弥生は一言で答えた。
「こっちの方が面白そうだから」
*
 俺とあすかが着替えを終えた後、俺たちは弥生に連れられて研究所の屋上に向かった。そこにあったのは黒く洗練されたフォルムの軍用ヘリ。ブラックホークの巨大なプロペラが唸りを上げて、砂塵を巻き上げている。
「一時間もかからないと思う。シートベルトはしっかり締めてね。思いっきり飛ばすから」
「飲酒運転じゃないのか?」
 冗談っぽく言ったつもりだが、あすかの視線が強まる。だが、弥生は怯むどころか挑発して言った。
「捕まえられるものなら、逆に捕まってみたいくらいよ」
 笑いながら操縦席に乗り込む弥生。続いて俺が乗り込み、メイド服に着替えたあすかを引き上げる。ヘリコプターで文化祭に行くとはなんて重役出勤だと思い つつも、隣りにいる少女の存在と、操縦桿を思いっきり倒している酔っ払いを見て、願わくばこんな時が永遠に続けば良いのにと考えていた。


 俺が月読からの着信に気付いたのは、ヘリに乗って数分経った頃。留守電に残されていたメッセージは簡潔なもの。だが、それでいて俺たちを戦慄させるに十分な内容だった。
「文化祭に乗じてテロリストが襲撃してきている。至急、私の元へ来い」

 
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