#33 ラブレスガール
 弥生が開けたドアの向こう側に広がっていたのは、忌まわしい記憶の残るコンクリートの部屋だった。しかし、血のカーペットもなければ、そこに横たわっていたはずの少女の亡骸もない。まったく同じ構造の別室かとも疑ったが、次の弥生の一言でその可能性が潰える。
「実験後に環境が変わらないように洗浄設備があるの」
 死闘を繰り広げ、少女が息絶えた床に手をやり、そっと指を這わせる。少女が存在していた痕跡は何一つ残されていなかった。あるのは冷たいコンクリートの感触だけだ。
「いつもここを使ってるのか?」
 あえて殺すという単語は用いず、事実だけを確認する。弥生は左右に首を振り、答えた。
「いつもは後始末も含めた依頼しか受けないから、私は実行するだけ。今回使ったのが始めてよ。ここはあくまで動物用の実験室だから」
「そうか」
 弥生が本当のことを言っているかどうか、確かめる術はない。そもそも殺しの依頼なんてものが実在するなんて思っても見なかった。所詮はフィクションやら演出のための絵空事。陰謀説などナンセンスと以前の俺なら一蹴していただろう。
 だが、実際に俺は知ってしまった。人を簡単に殺す人間がいることを。誰もが知らないだけで、実際にはこうして依頼をこなす人物がいる。それが明るみに出ないのは、徹底した隠匿と存在して欲しくない願望の表れに違いない。
「死体はどうしたんだ」
「硫酸のプールに沈めた」
 弥生はそうとだけ言い、視線を落とす。まさか丁寧に葬式を挙げ、墓まで立てたとは思わなかったが、その処理方法はあまりにも杜撰で無常なものだ。
「家族や戸籍もない子だから、そうするより仕方ないのよ。存在しないはずのものを殺したって、殺人事件にはならない。だから、警察だって動きようもない」
 全てはなかったことになってしまうのか。少女が生まれてきたことさえも、何も残らない。せめて俺だけは目の前で散った命を胸に刻んでおこう。忘れようったって、脳裏に焼きついたそれは簡単に消えてくれそうにはないのだが。
 俺は最後に一度だけコンクリートを撫でることで別れを済ませ、立ち上がる。
「あすかのところに案内してくれ」
「わかってるわ」
 弥生はコンクリートの壁に両手のひらを擦り付けながら、何かしている。パントマイムのような動きだが、実際に壁があるので何かを探しているのだろう。
 そういえば、あすかはこの部屋にいるとか言っていたっけか。今までと同じ真っ赤な嘘とばかり思っていたが、どうやら本当のことなのかもしれない。
「あれ、確かこの辺だったと思ったんだけどな。あ、あった」
 弥生が指先で探し当てたのは指先すら入らないような小さな溝。ポケットから取り出した鍵を差し込み、ひねると小気味の良い音がした。
「忍法、隠し扉の術!」
 使った鍵をこっそりとポケットに隠し、両手の指を不思議な形で組み合わせている弥生。目を閉じているが、ちょこちょここちらの様子を伺っているのが分かる。弥生の奇行についてゆけず、黙っていることも考えたが、このまま弥生が動き出すのを待つのも面倒だったので、一言だけ声をかける。
「それ……言う意味あるのか?」
「気分が大事だと思うよ」
 ふてくされたように言う弥生。見ての通り意味はないらしい。
 その後、弥生が軽く壁を押すと、高層ビルの回転ドアのようにコンクリートの壁が回転し、人一人が通れるくらいの隙間が出来た。
「こっちこっちー」
 弥生が先に入り、暗闇の中から手招きしているのが見える。隠し部屋に恐る恐る足を踏み入れてみると、いきなり何か柔らかいものを踏みつけた。
 視界が悪すぎて、何を踏んだのかも分からないが、気にしないようにして歩く。散歩ほど進んだところで、蛍光灯の強い光が部屋全体を浮かび上がらせた。
「ようこそ、弥生ルームへ。ちょっと散らかってるけど、気にせずくつろいでいってよね」
 両手を広げ、マジシャンのように恭しく礼をする弥生。照らし出された部屋は想像していたよりも広く、ワンルームのマンションくらいはある。だが、俺が一番気になったのはそんなことではなく、足の踏み場もないくらいゴミが散乱していることだった。
「こんなところにあすかがいるのかよ・・・・・・」
 見渡す限りのゴミ、ゴミ、ゴミ。潰れた空き缶や食べ残しのスナック菓子がそのまま床に転がっている。忍者屋敷というよりも、ゴミ屋敷といった方がしっくり来る。
「ここは内緒の部屋だから、清掃の人も入って来ないのよ。面倒な仕事を押し付けられそうになったときの隠れ家でもあるからね」
 弥生はテーブルの上に積み重なったゴミを両手でざっと床に落としながら言う。話し振りからして、自分で掃除しようなどとは考えないらしい。
 俺はゴミ山を二つ踏み越え、弥生が片付けた机の上に腰掛ける。尻にスナック菓子の屑やら何かがくっついたが、他に座る場所もないので仕方ない。
「それで、あすかはどこにいるんだよ。まさか、このゴミ山に埋もれてるんじゃないだろうな」
「そんな不衛生な場所にいるわけないでしょ」
 不衛生にした張本人が言う。弥生は部屋の隅にある大きなロッカーのようなものを指差し、さっき使ったのとは違うキーホルダーつきの鍵を俺の目の前で揺らした。
「この部屋にあるって時点で十分不衛生だろ」
 弥生との価値観の違いに頭を抱えながらも、宙に吊られた鍵に手を伸ばす。だが、掴もうとした直前で、弥生が鍵を引っ込めた。
「なんのつもりだ?」
 弥生は意味深に笑い、鍵をキーホルダーごと、そのこれでもかとばかりに主張する胸の谷間に隠した。鍵だけが深い谷間に飲み込まれ、キジトラ猫のキーホルダーだけが二つの山の間にちょこんと乗っかっている。
 意味が分からず、手を引っ込めると、今度は弥生が胸を強調するように顔を近づけてくる。一体全体、どうしろというのだろうか。
「ねえ、ひとつお願いがあるの。あすかちゃんと会う前に、私の……」
「お、お前の?」
 弥生の両腕が伸び、俺の肩ごと顔を引き寄せる。困惑し、退こうとするも、弥生の力は思ったより強く、引き離せなかった。目を逸らそうにも顔の距離が近すぎて、それすらも許されない。
 至近距離で弥生は何も言わずに、俺の目だけを見ている。嫌でも視界に入ってくる深い谷間に意識ごと吸い込まれそうだ。蛇に睨まれた蛙のように硬直した俺を見て、突然堰を切ったように弥生が笑い出した。
「あははは! 聖ちゃんったら、可愛いー。何かエッチなことでもされるかと思った? 意外とウブなのねー」
 弥生の笑い声は納まらず、しまいには腹を抱えて笑い出した。俺は弥生の両腕を振り払い、思いっきり睨みつける。ぶん殴ってやろうかと思い拳を固めると、急に真剣な顔をして本題を切り出してきた。
「話を聞いて欲しいって言おうと思ったのよ。私、あなたのこと調べたの。霜月聖18才。両親二人と自分の三人家族。冬海高校二年で部活動には所属していない。ケンカ無敗の鬼。去年起こした暴力事件で入院して、留年した。あってるでしょ?」
「ああ」
 弥生は俺の経歴を読み上げ、満足げに頷く。胸元のキーホルダーを弄くりながら、上目遣いで俺を見ると、更に続けた。
「でもさ、おかしいと思わない? あなた、その事件で三十人近く病院送りにしてるのよ。内、十人が骨折、四人が内臓破裂の重傷、三人は意識不明の重態で、今も病院のベッドよ? なんでこれが退学じゃなくて、停学なの?」
 言葉に詰まる。どうしてかといわれても、自分自身がなぜそんな処遇になったのか、見当がつかなかった。もう自分はダメだと思って、ふらつく足取りで窓から飛び降りたというのに。
「まぁ、数集めてボコろうと思ったガキ共も悪いけど、普通は退学どころか少年院行きだと思うなぁー。なのに、まだ現役で高校生やっちゃってるなんて、不思議だとは思わない?」
「正当防衛……だったからじゃないのか」
 自信なく答えると、弥生は意地悪く頬を歪める。と思うと、急に真剣な表情に戻り、口を開いた。
「過剰防衛に決まってるでしょ。あなた、二階の窓から同級生を投げ落としたのよ? 一歩間違えば殺してるわ。まぁ、意識不明もある意味死んだのとそう変わらないけれど」
「だから、何が言いたいんだ。言いたいことがあるならはっきり言え」
 俺の激昂が弥生の言葉を遮るが、弥生はそれに怯んだ様子を見せるどころか、俺の焦りを逆手にとって一気に話の核心まで切り込んできた。
「あなたは、組織に守られてるのよ。テロ組織”第五の季節”に」
 なんで俺が……言いかけて、舌を止めた。あまりにも出来すぎている。だがしかし、もし弥生の言っていることが真実で、その組織にそれだけの影響力があるのだとしたら、全ての辻褄が合う。いや、合ってしまうと言うべきか。
 弥生はゴミ山の一つから缶ビールを取り出し、プルトップに爪をかける。その表情は俺の苦悩を楽しんでいるようだ。
「驚くのも無理は無いわ。なんで一個人をそんな危ない連中が擁護するのかなんて、何も知らない人に理解できるはずが無い。あなた、確か試験体なんとかっていう呼び名に興味持ってたわね。教えてあげよっか?」
 ぷしゅっという音を立てて、缶が開き、中身が溢れる前に口に運ぶ弥生。彼女はそれを口に含んですぐに、ぬるいといってテーブルの隅に置いた。
「弥生、教えてくれ。俺が一体何者なのかを」
 弥生の一言で、積年の疑問に解決の糸口が生まれていた。それがどんなに細い希望でも、手繰り寄せれば、今まで感じてきた違和感に答えが出るかもしれない。そう思うといてもたってもいられなくなった。藁にも縋る思いで、弥生に問いかけた。
「いいけど。知ったら、あなた戻れなくなるわよ。多分、あなただけじゃなくて、あなたの大事な人たちも」
「ぐっ……」
 脅しではないと弥生の目が言っている。これまでは俺の過去にまつわる戯言として片付けられたが、ここから先は俺一人の問題ではないというのか。これまでに試験体云々と呼ばれたのは何人いただろうか。俺以外にもイルカとあすかの二人は確実に呼ばれている。俺だけならまだ良い。だが、この二人を巻き込むとなると……話は別だ。
「今のは無しだ。忘れてくれ」
「知らないほうが良いこともあるわ。でも、友達を思う気持ちに免じて、ヒントをあげるわ。これなら、誰も巻き込まないから良いでしょ?」
 俺たちのためにも聞いといた方が良いと付け加えられ、やむなく承諾する。
「あなたは普通の人間じゃないのよ。だから、普通の人に違和感も感じるし、友達も出来ない。地球人というより、月の子供たちなの」
「はぁ……」
 理解しがたい文言を歌うように紡ぎ、ビールを口に運ぶ弥生。ヒントというよりも、性質の悪い厨二病の末期患者のようだ。もしくは、アルコールに精神をやられた酔っ払いか。 
 ただ、酔っているわけではないのはわかる。弥生はビールを口に運ぶ回数こそ多いが、どれも舐める程度にしか飲んでいないからだ。
「俺が宇宙人だとでも?」
「宇宙人って言うか、新人類かな。うあ、弥生さん酔ってきちゃった」
 弥生はぬるいビールを一気に煽り、わざとらしくはぐらかす。そしてそのまま、胸元の鍵に手をやり、俺に投げ渡した。
「今のこと、他言無用で。私が言ったのも内緒にして」
「わかった」
 言ったとしても、誰も信じないと思うが、あすかの耳に入るようなことだけは避けたかった。俺は妙にぬくもった鍵を受け取り、ロッカーの鍵穴に差し込む。古びたロッカーが軽く軋み、蝶番が壊れているのか、勝手に開いた。
「あす……か?」
 目の前に現れた物体に声が掠れる。ロッカーの中にあったのは水色の液体に満たされた巨大なガラスの容器。四方からのライトに照らされ、一糸纏わぬあすかが、その中心に浮かされていた。
 
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