#31 ネームレスガール
 鈍い痛み。頭皮が割れて額を伝う、焼けるように熱い赤。頭蓋が揺れ、目の焦点が定まらなくなっても、俺は直立不動で、目前の少女の動向を目で追っていた。
 殴られることは今までもしょっちゅうあった。あるときは自分の力を過信した男とのタイマンで。あるときは仲間がやられた敵討ちと証しての集団リンチで。また、素手相手ではなく、金属バットやナイフなどの凶悪な得物で武装した相手に襲われたこともある。
 だがそのどれもが所詮、ガキ同士のケンカでしかなく、ある一線を越えてしまうことはなかった。どちらかが動けなくなるまで痛めつけられ、放置される。悪くて、事後に屈辱的な仕打ちを受けるくらいだ。
 そう、俺たちは無意識に恐れているのだ。相手を完膚なきまでに打ちのめしたいと思いながらも、その次の段階にいたることをしない。いや、出来ないといったほうが正しい。ただ、優越感得たいだけ、もしくは俺のように自衛のためという、大したことのない理由では超えられるはずがない。
 殺す、死ねなどといった言葉こそ、日常的に耳にするものの、そこに明確な殺意はないのと同じだ。持てるわけがないのだ。この国では死という当たり前に起こる自称はぼやかされ、薄められ、他人事として処理されることが常となっているのだから。
 だが、俺はその一線を越えてしまいそうになることが多々ある。殴り、蹴り、動けなくして、二度と逆らう気など起きないようにすることが目的だったはずが、いつの間にか相手の首に手をかけ、あるいは敵の落とした凶器を手にして……数え上げればきりがない。その黒く渦巻く感情が俺の理性に勝ったとき、きっと俺の両手は二度と消えることのない赤に染まるだろう。他人、あるいは自分を手にかけ、殺してしまう。
 そんな危うい殺人衝動は、今年に入ってから大幅になりを潜めていた。今まで抑えられなかった感情が、誰かの手によって押さえられ、やがて拡散し、消える。衝動で爆発寸前の感情から、毒を抜き、害を無くしてくれる。
 最初は疎ましくて仕方なかった彼女が、いつしか俺のリミッターになっていた。如月あすか。彼女は今、俺の隣にいない。いるのは虚ろな目をした知らない少女だけ。俺は多分、操り人形のように襲い掛かってくる少女を……。

 灰色の少女は渾身の一撃を食らっても俺が倒れないのを見ると、もう一度古びた椅子を振り上げる。小さな木製の椅子は、かなり老朽化していたらしく、足が砕け、鋭い先端を覗かせていた。その細腕から繰り出されたとは思えないような速さで、それが振り下ろされる。
「……ッ!」
 ボタボタと大粒の雫がコンクリートの床に赤い痕を作る。直線で振り下ろされた椅子は無残に砕け、もはや原形を留めていなかった。
 だが、何より驚いたのはその腕力でも、無表情に秘めた強すぎる殺意でもなく、俺が無意識のうちに少女の攻撃を避けていたことだった。どうやって自分が移動したのか、自分でやったにも関わらず覚えていない。不可思議な力で無理やり座標を変えられた、そんな感覚だけが残っている。
 混乱する俺に向かって、今度は下からすくい上げるような一撃が飛んでくる。狙いは俺の下顎。奇怪なオブジェと化したそれは俺の鼻先三寸を通過し、空しく空を切る。これもまた無意識の行動だった。俺はただ考え事をしていただけなのに、体が勝手に動いている。さながら、門のところで戦った機械のように。
 攻撃をかわし続ける俺に痺れを切らしたのか、灰色の少女は言葉にならない奇声を上げ、椅子だったものを俺に投げつけてくる。あちこち砕け、棘だらけになったそれを、なんと俺は左手で受け止めていた。無数にささくれ立った木片が手の平を抉り、深々と突き刺さる。痛みは感じなかった。代わりに感じたのは爆発的な速度で押し寄せる感情の奔流。すなわち、敵を殺せという抗いがたい衝動が、俺の意識を支配した瞬間だった。
 投擲してきた椅子に小さな身を隠し、特攻してきた少女に向けて、受け取った椅子を思いっきり叩きつける。肉を砕き、骨をへし折る感触。飛び散る破片が左目を抉っても少女は止まることを知らず、椅子を受けた右手を捨て、左拳を突き出して来る。それを俺は右手のナイフで受けた。鋭利な刃先が少女の拳を容易く切り裂き、赤い飛沫が俺の頬を濡らす。
「ぐがあっ」
 少女の悲鳴も俺の耳には届いていなかった。赤く染まった刃がきらめき、俺の表情を映す。虚ろな瞳だ。だが、少女のように死んだ目ではなく、残酷なまでの殺意が宿っている。口角は吊りあがり、血が付着した歯が覗いている。
 自らが見せた壮絶な笑みに身体の芯が疼くのがわかった。
 少女は両手を負傷したためか、一旦距離をとる。右腕は力なくぶり下がり、左拳からは白い骨が顔を出していた。それでもなお、少女は俺の全身を見据え、わずかな隙をうかがっている。
 かくいう俺は、もう何も考えてはいなかった。本能に従い、目前の少女を壊し尽くす。二度と立ち上がらないように、全身を細切れにした後で心臓にナイフを突き立てる。ついでに首から上を胴体から切り離して踏み砕く……それだけだ。
「はは……はははははははは」
 口からあふれ出す哄笑。先に動いたのは俺の方だった。傷だらけの身体は羽のように軽く、足取りは風のように速い。ナイフは血に飢え、刀身を唸らせているようだ。
「死ねッ!」
 デタラメに切りつけたナイフが少女を掠め、まとっていてボロごと肉を切り裂く。初めて見せた苦悶の表情。少女は一度退くかのように思えたが、取った行動は真逆だった。灰色のボロを赤く滲ませながらも、裂けた左拳を突き出してくる。
「遅すぎ」
 俺は左手で少女の攻撃を掴み取り、握り潰す。そして、腕ごと一気に曲げてはならない方向へと捻じ曲げた。少女の細腕が軽い音を立てて、完全に動きを止めた。
「ああああ……ッ!」
 限界を超えた苦痛による悲鳴。へし折った腕を強引に引き寄せ、力づくでその場に組み伏せる。声にならない絶叫ですら、俺には極上の音楽に聞こえていた。
 全身を痙攣させ、弱々しく体を揺する少女。それを見て満足した俺はナイフを半月状に回転させ、逆手に握り直す。握りすぎた右手はミシミシと音を立てて軋み、少女の背に返り血を滴らせた。
「背骨……邪魔」
 確実に刺せる肝臓にしよう。場所は良く分からないが、当たるまで繰り返せばいい。立てたナイフ軽く振り上げる。その拍子に指先で何かが弾けた。
『コラーッ!!』
 突然大音量の怒声が血みどろの密室に響き渡る。その声は今まさに少女を殺さんと振り上げたナイフから聞こえてきた。幻聴なんかじゃない。確かに聞こえた……聞き違うことなどあるはずもない、甲高くて迫力に欠けるその声。あすかの声を。
「俺は……一体なにを。痛っ」
 悪い夢から覚めるように我に還ったと同時に頭と左手が焼けるように痛んだ。しっかりとあざが残るほど強く押さえつけた灰色の少女の左腕。うつ伏せになり、呻く少女。血と汗でぐちゃぐちゃになったナイフ。自分が今まさにやろうとしていたことに気付き、血の混じった脂汗がこめかみから噴き出す。
「うわっ」
 慌てて少女の腕を放し、少女の上から跳び退く。ここ数分間の記憶がまざまざと蘇り、胃の内容物が逆流しそうになる。あとほんの数秒遅ければ、確実に俺はこの少女を殺していた。先までの凶行とはうってかわって純粋な恐怖が体中を駆け巡り、手足が震える。だが、殺さずに済んだだけでも僥倖だ。
「楽弥の秘密兵器ってこれかよ……クソッ、死ぬほど効いた」
 ピンチのときに使えっていうから、てっきり飛び出しナイフのような機能とばかり思っていたが、まさかあすかの怒声がインプットされているとは。だが、楽弥の機転が俺と少女を救ったのは確かだ。あとで礼を言わねばならない。
 フィアレス。弥生がそう呼んだ少女は俺に解放されてすぐに動き出していた。何と折れた腕を杖のように使い、立ち上がろうとしている。弥生はあの少女を殺せといったが、冷静になった今、あんなボロボロの少女に手をかけることなど、出来るはずがない。
 何か他の手段を考えなければ。しかし、考えがまとまる前に少女が立ち上がってしまった。両腕はだらりと痛々しげに垂れ下がり、想像を絶する苦痛から肩で息をしている。あんな状態でも戦う意思があるというのは、異常としか思えない。
 しかも、助けるために少女の動きを止めようにもこれ以上の攻撃は致命傷になりかねない。恐らくだが、会話も通じない。どうすればいいのか見当もつかないまま、時間だけが無常に過ぎていく。弥生の出した条件もある。何か上手い方法はないのか。
「くっ……」
 何も思い浮かばない上に、動かなくなった両腕をぶら下げた少女が真正面から突撃してきている。灰色だったボロはおそらく俺のナイフによって、すでに半分近くが黒く染まっていた。しかし、少女は止まらない。ほんの少し動くだけでも全身に激痛が走っているはずなのに。
 無造作に振られた腕が俺の頬を掠める。伸び切り、割れた爪が引っかかり、血が滲んだ。よけられると思ったのだが、肩が外れたことで思った以上にリーチが増していた。
「無茶苦茶だ……ッ」
 壊れた両腕を無知のように使い、襲い掛かる少女。左手が俺の腕に引っかかり、少女自身の爪が数枚吹き飛んだ。攻撃を受ければ受けるほどに少女の身体は削れ、失われていく。ナイフの傷も開き、胸から、指先から赤い飛沫が待った。このままでは俺が手を下さなくても、いずれ出血多量で少女は動かなくなる。
 時間がない……焦る俺の脳裏に一筋の閃光が走る。
「うおおおお!」
 猛然と叫び、少女の足元目がけてナイフを投げつける。突然の暴走に少女の意識がほんの一瞬だけナイフに向く。その一瞬の内に俺の左手はポケットの中に。光明……俺は偶然ジャケットに刺さっていたもう一本の針を引き抜き、絶妙な力加減で少女の頚動脈に突き立てた。
「……!」
 鋭い痛みに少女が目を見開く。これは一種の賭けだ。”銀”の放った針が麻酔針ではなく、毒針だったとしたら少女は確実に死ぬ。だが、弥生は俺のことを「生け捕り」にするつもりでいたということは、その可能性は低い!
「うあ……」
 小さく呻き、首に刺さった異物を抜き取ろうとする少女。しかし、針を抜こうにも少女の両腕は俺の手によって使い物にならなくなっていた。次第にその動きは緩慢になり、ついには膝を突いて前のめりに倒れそうになったところを、俺が何とか抱きかかえる。
「大丈夫……じゃないよな」
 すぐに針を抜き、首筋を押さえる。幸い、傷が小さかったことと、刺し過ぎないように加減したことによって、大量出血は免れているようだった。口元に耳を近づけてみると、浅く、弱ってこそいるが、呼吸は止まっていないことが分かる。がむしゃらな作戦だったが、どうやら上手くいったらしい。
「ふぅ」
 小さなため息。ついさっきまで自分が殺そうとしていたらしい相手を殺さないで済んだことに対してなのかはわからないが、とにかく一度胸をなでおろす。完全に矛盾した二つの感情が入り混じり、複雑な気分だったが、すくなくとも今の俺はこれ以上この少女を痛めつけずに済んだ事で安堵していた。
「あんた、なにやってんのよ」
「!?」
 いつの間にか、弥生が俺の背後に立っていた。その表情は影になってよく見えない。次に俺の目に映ったのは弥生の右手にある黒い物体だった。音もなく弥生の右手が上がり、手に握ったそれを眠れる少女の額に押し当てる。
「やめろ!」
 視線が合った直後に、弥生の裏拳が俺の顔面をしたたか打った。吹き飛ばされ、無様に倒れながらも叫ぶ。
「やめ……」
 俺の声は乾いた銃声にかき消され、灰色の密室には赤いカーペットの上でもう二度と目覚めることの無い眠りに就いた少女だけが残された。

 
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