#30 ハートレスガール
  霧隠研究所に侵入した直後、大勢の警備員が押し寄せる。俺はそれをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、そのあまりの物量作戦に悪戦苦闘しながらも、目的地を目指して懸命に……なんてことはまるでなく、ごく普通に、いや、むしろすんなり生体実験室と書かれたプレートの前まで辿り着いていた。
 あれだけ派手に出入り口を破壊し、正面から堂々と入ったというのにだ。警備はおろか、人の気配すらしない。侵入して置いて言うのもおかしいが、警報すらならないのはセキュリティに問題があると思う。
 目的の部屋の位置は楽弥から渡された地図のおかげで侵入前から把握していたので迷うことは無かった。真っすぐ行って、つきあたりを左にといった感じで難なく進む。初めは監視カメラやトラップを警戒していたのだが、あまりの無防備っぷりに、いつしか通路の真ん中を歩くようになっていた。
 しかし、問題なのはここからだ。弥生に告げられたこの部屋には、確実に何かしらの罠があると思って間違いないだろう。そもそも、関係者以外立ち入り禁止の文字がドアの中心に大きく描かれているし、研究員にしか支給されていないカードキーが必要らしく、その上、隣には電話のような数字盤まである。
「パスワードだよな、これ。誰かを脅して開けさせるしかないか」
 相変わらず楽弥との連絡は取れないままだし、鉄製のドアは壊して開けられるようなものではない。しかし、人影一つないこの研究所で鍵とパスワードの両方を持っている人間を探すのは骨が折れそうだ。
 考えていても仕方ない。とにかく生体実験室付近でカードキーを必要としない部屋を探す。もしかしたら存在しないかもしれないが、楽弥のような特殊技術の無い俺は足を使うしかない。

 鍵の無い部屋は三つ目のドアで早くも見つかった。この部屋はなぜかカードキーをスキャンする機械もなければ、先ほどの文字盤もなく、普通にドアノブがある。
 俺はドアノブを掴む前に、握りしめていたナイフを注意深くドアノブに当てた。何しろ誘拐を平然とやってのけるような人間が管理する施設だ。何の変哲もないドアノブに高圧電流が流れていてもおかしくは無い。
「……っ」
 小さな金属音。何も特別な反応は無い。その後も念のためにあらゆる角度からナイフを当ててみたが、やはり何も起こらなかった。ナイフごとの感電を警戒して、右手を上着のそでで覆うまでしたのに、なんだか拍子抜けだ。
 俺はどうしてこんなに不用心なんだと内心思いつつも、音を立てないようにゆっくりとドアノブをひねる。ドアの隙間から、パソコンに向かって何かしている白衣の女が見えた。どうやら、俺に気付いた様子は無い。絶好のチャンスだ。
「あ、コーヒー持って来てくれた? 砂糖とミルクアリアリのやつ」
 忍び足で侵入した直後のことだ。不覚にも気付かれていた。俺は冷静かつ迅速に女の背後に走り寄り、後ろから抱きすくめるようにしてナイフを喉笛に添える。
「振り向くな。そのまま、黙ってパソコンの画面を見てろ。要求に従えば、手荒な真似はしない」
 冷たいナイフの感触に女の身体が硬直し、小さく震え出すのがわかる。鍵を手に入れるためとはいえ、これではどちらがテロリストか分からないが、今はこうするより他になかった。
「生体実験室の鍵を寄越せ。パスワードもだ。おかしな真似をしたら、すぐさま殺す」
 我ながらぞっとするような低い声で冷酷に告げる。無論、殺すつもりなど初めからないが、騒がれても困るので気絶くらいはしてもらわなければならない。
 女は手を震わせながら、白衣の胸ポケットにとめられていた名札を外し、キーボードの隣に置く。名札の下の方に走る、磁気のライン。どうやら研究員としての名札としてだけではなく、カードキーの役目も兼ね備えているようだ。
「パスワードはキーボードを使って入力しろ。繰り返す。おかしな真似をしたら……」
 先よりもわずかに強く、ナイフを首に押し当てる。少しでも押すか引けばすれば鮮血を散らす絶妙な力加減は、俺自身の神経もじわじわと削っていく。
「一瞬で、終わりだ。早くしろ」
 女はナイフを押し当てられたまま、右手だけをキーボードにやり、緊張で何度か間違えながらも、パスワードらしい数字を入力していく。8、4、1……そこまで打ち込んだところで、一度女の手が止まる。
「どうした?」
 たった三桁のパスワードなのかと思ったところで、女は右手をテンキーの上から離し、両手をホームポジションに移す。いつの間にか女の手の震えが収まっていることに気付かなかった。そして、俺の抑止を無視して、音楽でも奏でるかのように軽快にキーボードを叩く。そこに打ち込まれた文字列を見て、驚愕したのは俺の方だった。
『あんた、あのとき、うちの子を殴った不良でしょ?』
 何を言ってるんだ、こいつは。この場所には初めて来たというのに、カマをかけているのか。それとも何かの連絡手段なのか。とにかく、何か嫌な予感がする。
 パスワードがわからなかったのは惜しいが、俺の素性を知っているかもしれないやつを野放しにしておくわけにはいかない。気絶させようと左手を振り下ろすよりも早く、女の指が動いた。
『なふだをみて』
 変換さえ省いた神速のタイピングに、思わず名札に視線を落とす。新薬研究室担当責任者という長い肩書きの後にあったのは見覚えのある苗字だった。
「あんた、レオの母親か?」
「そうよ」
 今度はタイピングではなく、そのまま声で帰ってきた。名札に書かれていた名前は水無月騒子。以前あすかと争ったモンスターペアレントその人だった。そういえば、レオから研究所に務めていると聞いていたが、まさかこんなところで出会うとは思ってもみなかった。
「その物騒なものを仕舞って頂戴。通報したりしないから」
 前の時と少しも変わらぬ高飛車な口調で言うレオの母。一瞬どうするか迷ったが、脳裏にレオの顔が浮び、すっとナイフを下ろす。
 水無月騒子は肩の荷が下りたかのように大きく息を吐き、キャスター付きの椅子を回して、こちらに振り返る。
「ああ、びっくりした。試薬を狙ったテロリストかと思ったわ。久し振りね、えーと……」
「霜月です」
 あーと言い、両手を叩く水無月母。完全に忘れていたようだった。もう半年以上も前のことだが、覚えててくれてもいいだろう。
 だが、彼女はそんなことお構いなしに、話を続ける。
「そう、霜月君。あなたのことは所長から聞いてるわ。はい、これ」
 そう言って、手渡されたのはレオの母自身のネームプレート。奪おうとしていたものをすんなり手渡され、困惑する俺に水無月騒子は続けて言った。
「パスワードは84133150。弥生さん最高の語呂合わせよ」
 世間話でもする様に伝えられる、恐らくは部外秘のパスワード。いくら知人だと言っても、こんなふうに行ってしまっていいものなんだろうか。
「あの、水無月さん。そんなこと俺に教えちゃって良いんですか? 俺、こう見えても侵入者ですよ」
「いいのよ。所長に聞かれたら言っていいって言われたし。なにより、レオの友達だから」
 微笑んで言う水無月母。いいのかよ。不安になって聞いた俺がバカみたいだ。
 所長というのはレオの話によると、あの弥生のことだから、俺が侵入することも、鍵を探してここに来ることもあらかじめ仕組まれたことだったようだ。となると今、目の前で談笑しているレオの母も、弥生側の人間だということになるのではないか。
「あんた、弥生が何をやったのか知ってるのか?」
 口調を変え、探りを入れた俺の質問に、水無月騒子は「知らないわ」と即答する。
「私は霜月君が来たら、鍵を渡しておいてって言われただけ。所長があなたに何かしたわけ?」
 睡眠薬を飲まされて、あすかを誘拐されたあげく、眠っている間にゴミ捨て場に放置された……と喉元まで出かかったが、何とか飲み込む。水無月母が嘘をついているようには見えなかった。恐らくは本当に何も聞かされてない。弥生であれば、独断で色々とまずいことをやっていてもおかしくは無い気がする。
 何度か葛藤があったが、結局俺は素直にカードキーを受け取り、形だけでも先ほどの非礼を詫びることにした。
「いえ、知らないならいいです。さっきは危ない目に遭わせてすいません」
「じゃあ、私は仕事に戻るから。なんたってこんな忙しい時に……」
 水無月母はその後も何かブツブツと愚痴っていたが、視線は完全にパソコンの方へと戻っていた。俺はもう一度だけ礼をし、元来たドアに手をかける。帰り際に水無月母が「よくわかんないけど頑張ってね」というのが聞こえて来た。
*
 生体実験室の鍵はカードキーを通し、ふざけたパスワードを入力することで簡単に開いた。音もなくスライドするドアの向こうには実験室とは名ばかりなホールのような場所が広がっている。
 一歩足を踏み入れてみると、外から見えたのと同じで研究機材どころかテーブルの一つもない四角い空間だけがそこにある。想像出来たことだが、あすかの姿など影も形もない。
「また、嘘か」
 ここまで手の込んだことをしておいて、結局何もないとはあからさまな罠よりも陰険で性質が悪い。しかも、別の部屋を探しに出ようとした瞬間、猛烈な勢いで金属製のドアが閉め切られた。
 しまったと思っても時既に遅し。よく見るとドアの内側にはカードリーダーもなければ、パスワードを入力する機械もない。
「クソッ!」
 思いっきりドアを蹴飛ばすも扉はびくともしない。別の場所から出られないかと歩き回ってみるが、四角い部屋には窓一つなく、四方だけでなく六方を硬いコンクリートで囲まれている。探せば探すほど、出られないという確信が確かなものになっていった。
 してやられた。自分の馬鹿さ加減に頭が痛くなる。
 途方に暮れ、座り込んだ時にカバンの中で何かが振動していることに気がついた。上蓋を開けてみると、金銀との戦闘でごっちゃになった鞄の中身に埋もれ、携帯が暴れている。サブディスプレイには非通知からの着信。電波を制限されている状態で自由に電話をかけて来られるやつは一人しかいない。
「隠しカメラで全部見てたよ。あなた、テロリストの才能あるわ」
 感嘆し、小さくため息が漏らす弥生。心から賞賛する声だったが、騙され、見事に閉じ込められた俺からすれば、皮肉にしか聞こえない。大体テロリストの才能なんて要らない。
「あすかはどこだ」
 叫びだしたくなるのを抑え、要件だけ言う。自分が置かれている状況を分かっていても、俺に出来るのはそれくらいしかない。
「あすかちゃんならこの部屋にちゃんといるわよ。もっとも、貴重な研究材料をタダで渡す気は無いけどね」
 見え透いた嘘だ。電話を片手にもう一度だけ部屋内を見まわしてみるが、周囲に壁があるだけで、本当に何もない。
「テロリストめ。何が目的だ」
 弥生は小さく笑い、部屋の床。その中心を見るように言う。俺が視線を下に向けるとそれを合図にしていたのか、床の中心が丸く切り抜かれたかのように左右に開き、続く小刻みな振動で下から何かせり上がってくるのを感じた。
 ワイヤーで徐々に持ち上げられてくる床はパズルのピースがはまるように、しっかりと穴に収まる。床下から現れたのは小さな椅子と灰色のボロをまとった人のようなものだった。
「あすか!」
 直感でそう思い、すぐに駆け寄って、顔まですっぽり覆っていたフードを脱がす。だが、フードに隠れていた顔を見た刹那、俺は言葉を失った。
「誰だ、こいつ……おい、弥生!」
 クスクスと笑う弥生の声だけが、コンクリートの箱の中に響き渡る。ボロを着て椅子に座っていたのは一人の少女ではあったが、あすかではなかった。生まれてから一度も手入れをしたことが無いのではないかと思えるほど傷み、汚れきった髪。見える部分、顔や首筋、肩にある無数のあざや傷痕。そして、何より目に焼き付いて離れなかったのが、まるで光を宿していない虚ろな瞳だった。
「それはね、軍の忘れ形見。フィアレスよ」
「なんだそれは」
 聞いたこともない単語に動揺し、目の前の不気味な少女から一歩、また一歩と下がる。今まで感じたことの無い、圧倒的な嫌悪感。それはそのみすぼらしい身なりからでも、吐き気がしそうになる体臭からでもないことを本能的に感じる。この少女に近寄ってはならない。こんな存在があってはならないと。
「それは人であって、人でないもの。恐怖を感じない壊れた人形……人間兵器の先駆けであり、戦争が生んだ悲劇。もう、いいでしょ。あなたにやってもらいたいことがあるの。一度しか言わないから、よく聞いて」
 弥生は一度間を置いて、簡潔に……それでいて許しがたい言葉を一息に吐き出す。
「あなたの大切なものを守りたければ、そこの出来損ないを殺しなさい」
 戦慄。俺の手から携帯電話が滑り落ちると同時に、目の前の少女が自ら座っていた椅子を俺に振りかぶっている様子が俺の両目に映り、すぐに消えた。
 
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