#26 ホープレスガール
 初め、幻聴かと思った。無音の闇に響き渡る呼び出しベル。息を殺し、自分の存在ごと消えてしまえばよいと考えていた矢先の出来事だ。
 反射的にあすかのことを思い出した。そして、すぐさまその甘い考えを自ら打ち消す。あすかは何者かによって連れ去られ、俺の前から姿を消した。それなのに、こんな夜遅くに俺の元へ訪れることなど出来るはずが無い。別の誰かだ。
 俺が片手を突いて立ち上がろうとしたところで、もう一度チャイムが鳴り、荒々しくノックまでされた。あすかではない誰か。鳴らない携帯を右手に握りしめ、無言でドアノブをひねる。
「あんたは……」
 逃げ出した世界に立っていたのは俺の知っている人物。怒りとも蔑みとも取れる硬い表情をした壮年の男。以前、カッとなり足蹴にしたこともあるあすかの父親。如月警視総監その人だった。
「話がある。上がらせてもらうぞ」
 俺の返事も待たずに如月父は明かり一つ無い俺の家の敷居をまたぎ、勝手に玄関の段差に腰掛ける。ドアは開け放たれたまま、外の冷たい空気が入り込んでくるのもおかまいなしに、ただ突っ立ったまま俺は如月の親の言葉を待っていた。
「私の娘をどこにやった?」
 たった一言、されど確かな重みを持ったその言葉に、思わず言い訳しそうになる。月読に叱責されたときと同じように何も出来なかった自分への嫌悪感から、衝動的に口が動いていた。
「俺じゃない。俺たちは睡眠薬を盛られて、それで……」
「知らないか。お前の個人的な話を聞きに来たわけではない。わずかでも情報があればと思ったのだが、やはり無駄足だったようだな。少しでも期待した私が馬鹿だった」
 無表情で俺を見上げる如月父だったが、その物言いは遥か高みから見下され、唾棄されたように感じた。無駄、無意味、無用……それら全てが俺を表しているようにさえ思え、月読が打ち込んでいった楔をより深く打ちつける。
「ちょっと待て。帰らないでくれ」
 失望の眼差しを送るあすかの父に食い下がる。不必要なほど慌て、何かに怯えた俺に対する如月警視総監の反応は冷ややかだ。おもむろに両手を組み、わずかに間を置いてから重い口を開く。
「まだ帰らんよ。お前には二つばかり話がある。結論から言おう。私の娘がさらわれたことは早いうちから分かっていた。GPSを仕込んだ携帯の通信が途絶えた時点でな。警察も件のテロリストの仕業と見て、既に動き出している。貴様の出る幕は無い」
「あすかは……あすかはどこにいるんだ?」
 理性を失いかけた俺に対し、如月父は一言「黙れ」と言った。月読のときと同じ、怒りを内に秘めたその一言に気圧され、二の句が次げなくなる。
「娘の所在は警察の総力を挙げて捜索中だ。だがしかし、分かったとしても貴様に伝えることは無い。何もせず、自分の家に閉じこもっていろ。警察はお前を重 要参考人および要注意人物に指定した。出歩いているのを発見しだい、拘束しろとも伝えてある。わかったら、大人しくしていろ。これは命令だ」
「なんで俺が警察にマークされるんだよ。説明してくれ」
 如月父は何も言わずに懐に手をやり、折りたたまれた書類を俺に投げつける。慌ててキャッチして、中身に目を通そうとするも、暗すぎて内容までは分からな かった。無意識に玄関の照明スイッチに手を伸ばし、押す。照明に照らされ浮かび上がった書類が何であったか理解した瞬間、愕然とした。
「これ、うちの親か?」
 つい数ヶ月前まで同じ屋根の下で同じ飯を食っていた両親の顔写真に出生から今に至るまでの個人情報が記された履歴書のようなもの。履歴書と違うのは書か れた身体的特徴や顔写真ではなく、その経歴の部分。そこに書かれていたのは俺の聞かされていた職業とはおおよそ似付かない、聞き慣れない組織での役職名 だった。
「テロ組織“第五の季節”の研究員だということがわかった。名前も年齢も偽造されたものだ。何種類かの偽造パスポートが見つかっている。簡単に言うと……お前の両親はテロリストだということだ。それも筋金入りの」
「嘘だ」
 信じられるはずが無い。こんな身近にテロリストがいるなんて、それも俺の両親がテロリストの仲間だなんて。好きでもなんでもなかった両親とはいえ、曲がりなりにも一緒に生活し、ここまで育ててくれていたんだ。
「お前が信じるか信じないかは勝手だが、証拠は上がっている。お前を拘置所に放り込んだときに、いくつか証拠となる書類を押収させてもらった。お前を捕えた直後に、母親が姿を消したのも証拠の一つだとは思わないか」
「……嘘だ」
 段々と声が小さくなっていく。上手い切り替えしどころか、返す言葉も思い浮かばない。警察がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。如月の父親も俺に対する私怨か何かで口からでまかせを言っているわけではないのは分かる。
 信じたくなくとも、これは現実であることを思い知らされ、怒りとも悲しみとも似付かない闇が胸の奥底に落とされたような気がした。沈み、折れた心に、如月父は容赦なくきつい言葉を浴びせてくる。
「警察としての話は以上だ。もう一つは私の個人的な話。包み隠さず言おう。私は霜月聖、貴様のことを良く思っていない。如月あすかの親として言おう。金輪 際、娘には近寄るな。お前がテロリストの息子だと言うこととは関わりなく、心からそう言っている。お前は娘を不幸にする。害悪だ」
 如月の実の親にそこまで言い切られ、目の前が真っ暗になる。一人ならば、この場に突っ伏して吐いてしまうかもしれない。好かれているとは全く思っていな かったとはいえ、ここまで嫌われているとも思っていなかった。あすかはきっと、父に従うだろう。受け止められないほど重く耐え難い衝撃に、眩暈がした。如 月父はその後も俺に対する嫌悪感をぶちまけているようだったが、それも耳に入ってこない。身体が拒否反応を示しているようだ。
 しばらくそのまま耐えていると、唐突に如月父が立ち上がり、俺に手を伸ばす。殴られる、そう思った。そうされても仕方ないとも思う自分がいた。無知であることも、無力であることも罪だと頭のどこかで分かってしまっていた。
 身構え、歯を食いしばった瞬間。如月父は無言で俺の手の書類だけを引っ手繰った。
 実際には何も言わなかったが、その仕草だけで俺には殴る価値も無いと言われたような気がした。
「失礼する」
 そう言い残して足早に去っていく如月父の背中を視線で追い、見えなくなったところでその場に膝をつく。胃の奥から込み上げて来るものの他はもはや何も感じられなかった。
 考えることを、感じることを脳が全て拒否している。終わった……ただそれだけを悟り、両手を床につく。涙は出なかった。空虚。自分自身を保てない。消えて無くなりたい。あすかのいない世界に、価値なんて無い。
 気がつくと、俺の足はキッチンへと向かっていた。おぼつかない足取りではあったが、身体の記憶だけで台所への道乗りを辿る。テロリストだと言われた母親が蒸発してからと言うものの、そこに立つ人はいなかった。
 無意識のうちに引き出しの上段を開け、一番手近な包丁を手に取る。いつかと同じ気分だ。あの時は失敗した。だが今度は失敗しようが無い。銀の刃が反射し、俺の顔を映し出す。
「死んだ魚のような目だ」
 あるいはもう既に死んでいるのかもしれない。俺は出刃包丁の先端を自分の胸にあてがい、ほんの少しだけ反動をつけ、一思いに突いた。
 ぞぶりという、刃に血と肉の繊維が絡みつく感覚。完全に貫くはずだった刃は一センチほどで止まり、俺の胸板を軽く抉っただけだった。俺はもう一度包丁を持ち上げて自分を殺そうとしたが、血に濡れた刃が妖しく光ると同時に耳元で何者かが叫んだ。
「やめろよッ!」
「……!?」
 振り返ると必死な形相をした楽弥が俺の両手を背中越しに掴んでいた。いつからそこにいたのか全く気付かなかった。意外な来訪者と二度も死に損なったことに力が抜け、出刃包丁がキッチンの床に落ちて、転がる。
「聖ちゃん、いきなり何やってんだよ! 勝手に死ぬなんて僕が許さないからな。ぶん殴ってでも止めてやる!!」
 いつものふざけた態度ではなく、本気で俺を殴ろうとして振りかぶる楽弥。それを見て急に思い出したかのように胸の傷が痛み、包丁を握っていた方の手でシャツ越しに胸を押さえる。
「なんで楽弥がここにいるんだ……?」
「ちょっと通りかかったら、なんかもめてるみたいだったから……ってそんなことはどうでもいいよ! それより聖ちゃんこそ何があったのか説明して!」
 強い剣幕で怒鳴る楽弥。説明しろと言われても、焼けるような痛みと自分の行動の意味不明さ、そして何よりそれを自ら制御できなかったことに対する恐怖で胃の内容物がせり上がり、それどころではなかった。
 台所のシンクに手をつき、荒い呼吸をする俺を見た楽弥は、反射的にそこにかけてあった布巾を俺の胸にあてがい、強く押し当てる。傷口が刺激され、俺の口から弱々しい声が漏れた。
「ごめん、楽弥……大丈夫だ。そんなに深い傷じゃない。あすかがまた誰かに連れ去られたんだ……俺、ショックで」
 赤く染まる布巾を楽弥からそっと奪い、血のついてないほうの手の平を見せて、大丈夫だと伝える。心配そうに見やる楽弥をよそに、力なくソファーに寄りかかり、深呼吸して息を整えた。
「どうかしてた。でも、楽弥だってあるだろ? 自分を自分自身で、存在ごと無かったことにしたい時が」
「いや、無いよ。何それ怖い。僕は死にたいと思ったことなんて一度もないよ。本当にどうかしてるって!」
「そう、なのか」
 楽弥は心外だと言うような目つきで俺を見ている。もしかしたら悪い冗談だと思ったのかもしれないが、俺としては半分以上本気だった。自殺しそうになった こともこれが初めてじゃない。初めてやったのは覚えてる限り小学校高学年のときだ。理由は覚えていない。今日を除いて一番最近だと、去年だ。
 感情が高ぶると誰かを殺したくなり、気持ちが沈むと自分を殺したくなる。異常だと思っていても、止められない。思考は消し飛び、理性は塗りつぶされ、常 識は通じなくなる。自分が自分でなくなってしまう。楽弥にも、あすかにも、他の正常な奴らにも理解できるはずが無い。
 またも深い闇に沈み、自分の殻に閉じこもろうとした俺を楽弥が慌てた声で呼び止める。
「わ、わかんないよ。もしかしたら、そういう人もいるのかもしれないし! でも、死にたくなるほどショックなことがあっても、自分の出来ることがある限りはさ、諦めるのは早いんじゃない?」
「出来ることがあったらやってる。月読からも如月の親からも俺は関わるなといわれた。外を出歩いてるのを見たらしょっ引くとも言われた。あすかがどこにいるかも分からない。俺にはあすかを助けることなんて……出来ない」
 うつむき喋る俺を見た楽弥は、一度大きなため息をつき、いきなり俺の胸襟を強く掴み上げる。
「ふざけるな! 大人が関わるなって言ったら何も出来ないのか!? 誰がそんなことを決めた? 聖ちゃんの意思は? ッ、あすかちゃんを助けたくないのかよ!!」
 襟首を引き、目と鼻の先まで顔を引き寄せられる。間近で見た楽弥の表情は声の大きさとは対照的に、今にも泣き出しそうだった。俺を掴んでいる両手は小刻みに震え、いつしか両目も堅く閉じられている。
「楽弥……」
 ごめん。でも、ありがとう。そんな言葉が浮かんでは消える。楽弥はいつもそばにいてくれた。その結果、俺の暴挙を一番目の当たりにしているのも楽弥だっ た。無抵抗の不良を踏みつけたり、泣いて許しを請う不良の顔面を叩き潰したり……楽弥自身も俺に食ってかかる事の危険さを一番理解しているはずなのに、こ うまでして俺を説得してくれている。
 今までなかった経験に胸の奥がチクリと痛んだ。基本、平和主義な楽弥にここまでさせているのは俺が弱音ばかり吐いているからだと気付いた。
「ありがとう。お前のおかげで落ち着けた」
 俺は親友の肩に手をやり、謝る代わりに礼を言う。言葉だけでなく、俺の胸中まで伝わったのか、楽弥の手から力が抜け、自然と離れていった。
「次は殴るぞ」
 素直に頭を下げた俺を横目で睨み、すぐに笑う楽弥。楽弥は俺が落ち着いたことを確認すると、事の詳細を改めて説明するように言った。
ファミレスで起こった誘拐騒ぎのこと。電話で月読が言ったこと。最後にあすかの親が来ていたこと。俺の親がテロリストだと通告されたことを除いて、俺の知っていること全てを楽弥に伝えた。
 俺とあすかの身に起こったことを最後まで聞き終えた楽弥は、口を開くよりも先に携帯を開き、神妙な顔で操作し始める。目にも止まらぬ早撃ちを黙って見守っていると、両目を携帯のバックライトで輝かせながら、楽弥が言った。
「あの船越○一郎みたいなのがあすかちゃんのお父さんなんだ。ちらっと見たけど全然似てないな」
「俺もそう思ってた」
 高難易度のゲームを楽しむように、まるで無駄の無い操作をしながら無駄口を叩く楽弥。目まぐるしく動く指と移り変わり続ける携帯の画面からは、何をしているのか全く想像できない。
「聖ちゃんは、何か怖いものってある?」
 急にそう問われ、一瞬のうちに幾つかの答えが浮かぶ。銃をバンバン撃つテロリストのことや、ついさっき自分が試みたばかりの死、大量兵器による世界の崩 壊……自分で考えておいてなんだが、どれもイマイチ実感が湧かない。怖いというよりは、単純に嫌だというだけでそれ以上でもそれ以下でもなかった。
 俺が答えずにいると、楽弥は少し笑い、とめどなく動かしていた指を一度止める。
「僕は怖いものがいっぱいある。こないだのテロリストも怖かったし、それをなんだかんだやっつけちゃう聖ちゃんも少し怖い。お化けも怖いし、ゴキブリとか 足の長い虫とかも怖い。死ぬことも凄く怖い。でも、一番怖いのは……独りになることだ。どんなに権力があっても、一生かかっても使い切れないような大金が あっても、独りになるくらいなら、僕はいらない」
 そこまで言って、楽弥は携帯の操作に戻る。いつもふざけてばかりいる楽弥。それを見て、あすかのことや、つい最近知り合ったばかりの仲間たちの顔が脳裏に浮かんで来る。
「……俺は、実を言うと何も怖いものなんて無いと思ってた。格好つけてるわけじゃなくて、本気で。ずっと一人だったし、誰も信じられないと思ってた。それ で良いとも思ってたし、それが最良だって信じてた。誰とも関わらなければ楽だって。でも、俺はあすかに出会ってしまった。今は……あすかや楽弥、俺の仲間 たちがいなくなるのが唯一怖い」
 心のそこでわだかまっていた気持ちを全て楽弥にぶちまけた。俺の恐怖の対象、弱さとも取れる唯一つの感情を。
 それに対する楽弥の反応は言葉ではなく、照れたような笑顔だった。戸惑う俺に楽弥は携帯の画面を突きつけ、言った。
「なんか、聖ちゃん変わったね。人間らしくなったって言うかさ。あすかちゃんの居場所、突き止めたよ」
 楽弥の携帯に表示されていたのはどこかの地図。その中心に点滅する赤い印。驚き、言葉の出ない俺を楽弥は小さく笑い、さらに言葉を続ける。
「二度も同じ手を食うようじゃ天才がすたると思ってね。知ってる? 最近のピーチ姫は超小型発信機付きなんだぜ」
「お前、何者だ?」
「神童改め、聖ちゃん専属オペレーターってとこかな」
 皮肉っぽい笑みを見せる楽弥。いとも簡単に行方不明のあすかの居場所を見つけ出す親友の存在は、何よりも心強い。それが普通に犯罪だということを除いて。
「楽弥、恩に着る」
「お安い御用さ。でも、今回は一筋縄じゃ以下無そうだ。ここ、見て」
 楽弥は携帯の地図の一部分を指差す。あすかが拉致されているらしい場所は、ひとつの巨大な施設のようだった。名前は霧隠研究所と書いてある。
「ここ、国営の研究施設だよ。一般人の入場は禁止されてるし、関係者であっても許可が要る。セキュリティも万全だし、おいそれと入れる場所じゃない……普通は」
 イタズラっぽく笑う楽弥。不可能を可能にする策がある。そう思わせるだけに十分な不敵さだ。楽弥は人差し指を立てて言った。
「十二時間、いや八時間ちょうだい。なんとかするから。それまで聖ちゃんは家で休んでてよ」
 楽弥は手首のスナップで携帯を折りたたみ、すっと立ち上がる。背も体格も頼りない楽弥の姿がいつもより何倍も大きく見えたのは、決して気のせいじゃないと俺は思った。

 
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