#25 シャドウレスガール
 目が覚めた時には見知らぬ路地裏に打ち捨てられていた。付近はすでに薄暗く、時折吹く隙間風が俺の顔を煽る。無意識に伸ばした腕の先には白いビニール袋のようなもの。これが生ゴミだと気付き手を離すまでに相当時間がかかった。
「何が、起こったんだ……」
 記憶の欠落。暴力にまみれ、飲まない酒で泥酔した時とも似た感覚。何も思い出せず、空を見上げると、一面の灰色が広がっていた。全身に痺れたような感覚が残り、頭も鈍器で殴られたような痛みがある。
 俺は少しでも今の自分が置かれている状況を把握するために、ポケットの携帯の手をやる。携帯電話画面には楽弥からのメールが表示されたままだ。画面の隅に追いやられたデジタル時計は角ばった文字で19時を知らせていた。
「確か、俺はファミレスで……」
 誰かと話していた。それは他校の不良でも、教育指導の教諭でもない……他の誰か。
 ほんの数時間前の記憶だと思うのに、頭痛と倦怠感が邪魔してか、はっきりと思い描くことができない。
 俺はしばらくの間、ぼやけた頭で携帯の画面だけを見つめていた。バックライトが暗くなり、その内何も表示されなくなる。黒い画面に反射した自分の姿は、全身ゴミにまみれた散々なものだった。
「ケンカでボコボコにされたときみたいだ」
 死んだ目をした自分に苦笑し、携帯を折りたたむ。なぜか感じる何もかも失ったような感覚は、今の自分の格好にピッタリ過ぎて少し笑えた。
 俺は重い身体をゆっくりと起こし、体中に付着したごみを無造作に払う。足元をよく見ると自分の鞄が落ちているのが目に入った。中身は数冊の教科書と財布、くしゃくしゃになったたばこの空き箱など。いつからここにいたのかは分からないが、何も盗られてはいないようだった。
 ならば、この喪失感はなんなんだ。記憶の奥にもやがかかったように思い出せない部分がある。何か大切なものを失った時の苦い記憶。思い出そうとするたびに視界が揺らぎ、頭痛がひどくなる。
 気がつくとポケットに入れた携帯が震えていた。しばらく、そのままにしておくが、振動は一向に収まらない。メールではなく着信のようだ。仕方なく取り出し、画面を見ると見知らぬ番号が並んでいた。気が進まないが、留守番電話に切り替わる直前に通話ボタンを押す。
「誰……ですか?」
「月読だ」
 明らかに苛立った声が聞こえてくる。今一番聞きたくなかった声を聞いて、無意識に通話を切りそうになるが、わざわざ俺にかけてくる用事などロクなことではないとわかっているので、我慢して通話を続ける。
「なんで俺の電話番号、知ってるんですか」
「そんなことはどうでもいい。用件だけ言おう。如月生徒に電話が通じないので、居場所を知ってそうな奴にかけた」
「如月!?」
 耳に入ったわずか四文字の単語に驚き、思わず叫んでしまう。突然目の前の霧が晴れたかのように、もやに覆われていた記憶が鮮やかによみがえってきた。あすかのことだけではなく、文化祭についてのやり取りやコーヒーを飲んだ瞬間に眠気に襲われたことも、あの見知らぬウェイトレスのことも。
「大声を出すな。貴様、如月生徒と一緒にいるのか?」
「あすか……如月は何者かに連れ去られた。それも、俺の目の前で……」
 重い沈黙。俺を嘲るようなカラスの鳴き声が闇ぞらに響き、何もできなかった惨めさと迂闊だったことへの後悔が胸を締め付ける。
 永遠に続くかと思われた静寂は、月読の失望を吐き出すようなため息で破られた。
「……無様だな。貴様はゴミだ。今すぐ死ね。生きている意味がない」
「くっ……コーヒーに薬を盛られたんだ。それで眠らされて、さらわれた。ウェイトレスの『やよい』とか言う女が」
 黙れ。聞き苦しい言い訳をやめろ。そんな月読の言葉が鋭いナイフのように胸を抉り、鈍い痛みに奥歯を噛みしめる。
 腹立たしかった。月読の態度ではなく、何より自分自身の無能さが。
「いいか、良く聞けカス。私の言ったことを覚えていなかったのか? とんだ鳥頭だな。貴様らは狙われてるんだ。今すぐ家に帰って、そのまま閉じこもっていろ。如月生徒はこちらでどうにかする。負け犬は何もせず、じっとしていればいい。じゃあな」
「待て、月読。教えてくれ……あすかはどこに!?」
 月読からの返答は無かった。スピーカーから聞こえてくる、通話の終了を知らせるツーツーという電子音。いつになく焦った様子で感情まで剥き出しにした月読の声が脳内で繰り返し再生され、俺はもう何も喋ってはくれない携帯電話を力なく地面に落下させた。
 悔しいが月読の言う通りだ。頭で否定しようとしても、心の奥底では認めてしまっていた。結果がすべて。その過程がどんなものであっても、現実は変わらない。如月あすかを失った。その事実は揺るがないのだ。
 握りすぎた拳が軋み、手のひらから血が滲んだ。小汚い地面に視線を落としていたところで、数人の話し声が聞こえてきていた。
「ゲッ、霜月聖……!」
 横目で見ると、三人組の男たちが遠くから俺のことを見ていた。着崩した学ランにくわえタバコ。名前を呼ばれた気がしたが、見たことの無い顔だ。
「あいつ、なんか弱ってねえか? これはもしかして、もしかすると、チャンスなんじゃ」
 一人の男が俺を指差し、その後三人でこそこそと話し始める。久しく感じていなかった不穏な空気。奴らの言うことはいつも同じだ。意味の無い相談はものの数秒で終わり、一番正面にいる男が白い歯を剥きだして、言った。
「今日が年貢の納め時だぜ、霜月聖。今からお前をぶっ殺して、俺たち春高の名をあげてやる」
 わざとらしく指を鳴らし、狭い路地を悠然と歩いてくる三人組。俺はそれらを完全に無視し、落とした携帯を拾い上げて鞄の中に突っ込み、帰り支度を始める。
「おい、聞こえてんだろ。無視するんじゃねえ!」
 多勢に有利を過信した一人が拳を振り上げ、俺に跳びかかってくるのが横目に見えた。こいつらは何も考えてなんかいない。ただ、己の欲のためだけに動き、その時だけをただだらだらと生きているだけだ。あすかのような信念も何もない。
「邪魔だ」
 警告。小さすぎたそれは奴らの耳には届かない。届いたところで何も変わらないだろうということもわかっている。俺はまっすぐ打ち出された拳を蝿でも払うように左手一本で受け止め、そのまま押し潰さん限りの力で握った。
「ぐああ……いてえ」
 俺は痛みに顔をゆがめた不良の一人に冷ややかな視線を送り、さらに力を込める。限界以上に折り曲げられた関節からの悲鳴が、左手の指越しに聞こえてくる。
「あ、ああ……やめ、やめてくれ。折れる。折れる!」
 情けない悲鳴。涙まで浮かべて懇願する男の顔が今の俺と重なり、その直後に不良の骨が限界を超えてへし折れる音が聞こえてきた。絶叫を上げるのとほぼ同時に左手を振り、裏路地の壁に叩きつけて強制的に黙らせる。
「あ、あいつ……なんなんだよ。やりすぎだよ……絶対、頭おかしいって!」
 今度は俺の凶行を見て尻込みする二人に向かって、無言で歩を進める。右手の指先から血が滴り落ちていたが、指をへし折られ伸びている不良の男に対する感慨と同じく、何も感じなかった。
「退け」
 出口を塞ぐ二人に感情のこもっていない声で告げると、自動ドアの如く二人揃って俺に道を譲った。仲間が手酷くやられているというのに、何の抵抗もない。それどころか、自分が痛い目を見なくてよかったとさえ思っているのだろう。
 こいつらはカスだ。生きている価値が無い。いまだに耳に残り続ける月読の言葉を胸の内で燻らせながら、おぼつかない足取りで、恐らく二度とあすかの訪れることの無い家への帰路に就いた。
*
 俺は家に帰るなり、板張りの玄関に座り込んだ。電気の付いていない家は真っ暗で、空虚な俺の心を暗示しているように感じる。鍵を閉める気力もない。いっそ、強盗でもテロリストでもやってきて、俺を殺してくれればよいとさえ思った。

 胸にぽっかりと空いた空洞を満たせぬまま、俺はいつまでも、誰も鳴らすことの無い呼出しベルの音を待ち続けていた。

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