#23.6 少女VS夜のパトロール
 魔法にかかったような一夜は瞬く間に過ぎた。人でごった返した土手で見る花火はこの世の喧騒を忘れさせるほどに幻想的で、そこまで大きな大会ではないと はいえ、大小様々な花火の鮮やかさにあすかは魅入ってしまっていた。どちらかというと俺はあすかに見惚れていた回数の方が多かったとは死んでも言えない。
 花火を見ている最中、俺とあすかはほとんど言葉を交わさなかった。花火が奇麗だったのもあるが、なんだか気恥ずかしいというのが一番の理由だったように思う。
 花火が終わった後も俺たちはまだ夜空を眺めていた。花火の名残のような星屑が朧月に照らされ、瞬いている。右手にはあすかの左手。指の股が汗ばんでもあすかは手を離そうとしなかった。理由を聞いてもあすかは答えず、ただ「うん」と言うだけだ。
「お二人さん、そろそろ帰ろうかなと思うんだけど……お邪魔ですよね。サーセン」
 楽弥の茶化しに反応しようとすると、いつもなら怒り出すはずのあすかが、説教を始める代わりにそっと肩を寄せてきた。手だけではなく、浴衣越しに伝わる体温とかすかに香るあすかの色香に動きかけていた舌が動かせなくなる。
 それを見た楽弥は俺の方に手を置いて、何も言わずにウインクした。そして、そのまま屋台に夢中になっているうさたちの方へ走り去る。
「聖……?」
 楽弥を目で追っていたところで突然声をかけられ振り向くと、あすかが俺のことを見上げていた。意識的に合わせないようにしていた視線が合い、言葉に詰まる。熱っぽい視線に目を離せないほど釘づけになってしまった。
「実は私……わかってるかもしれないけど」
 口調がいつもとは違う。声もやる気に満ち溢れたそれとは違い、小さく震えている。言おうか言うまいか迷っている、そんな感じだ。
「聖が、聖のこと……」
 語調が強まり、だんだんとすぼまっていく。目を閉じて、俺の手を握る左手に力がこもっていく。言いかけた言葉が形になる、そのわずかな間に……俺の腹の虫が極度の空腹に音を上げた。
「……わりぃ」
 バツが悪くなり、目線をそらす。限界近くまで高まっていたあすかの手が緩み、言いかけた言葉の代わりにあすかが鈴の音を鳴らして立ち上がった。
「なんだ、夕食まだだったのか。まだやってる屋台もあると思うぞ」
 途端にいつもの口調に戻ったあすかを見上げる。心なしか強がってるようにも見えた。
「私もお腹がすいた。聖、今夜くらいは買い食いを許可する」
「なんだそれは」
 いつから許可制になったのだ。俺はズボンについた草を払い、すっくと立ち上がる。ついさっきまで見上げていたあすかも立ち上がって見れば驚くほどに小さい。
 ……夢でも見ていたようだ。あのあすかが見せた仕草も、手のひらから伝わってきた高まりも、俺のような人間に向けられるものではない。
 歩き始めるとあすかは完全にいつもと同じ調子に戻っていた。低い背丈に合わぬ大声と男言葉。その中に混じる鈴の音だけが余韻のように響き、胸の内をざわつかせる。
 あのわずかなやり取りの間にどれだけの時間が経ったのだろう。さっきまで賑やかだった夜店のほとんどは、花火の終わりと共に帰り支度を始めていた。お祭 りのような屋台がそれぞれ閉まって行くのを横目に、速足で開いている店を探す。ようやく見つけたのはたこ焼き屋。小麦粉の焼けるにおいとソースのにおいが 腹の虫だけでなく、俺の本能にまで語りかけてきているようだ。
「間に合ったみたいだ」
 右手の先のあすかが、息を切らしながら言う。既に店じまいをしている所が多い中、まだ営業を続けるこの店には、長蛇の列ができていた。付近に明かりらしいものは少なく、店だけを中心にぼんやりと並ぶ客の顔が浮かび上がった。
「あすか、ここは駄目かもしれない」
「どうしてだ? まだ営業しているようだが」
 俺は並んでいる人たちの顔をこっそり見るように耳打ちする。俺の意図に気付いたあすかははっと口に手を当て、こちらを向いた。気づくべきだった。この店は営業しているわけではなかったことに。
「テメェ、誰に断ってここで商売やってんだ? ちゃんとウチの組にショバ代納めてんだろうな?」
 前方で聞こえて来るドスの利いた声。威圧するような視線を送り、各々の得物を構え、店を囲んでいる男たち。タンクトップから見える肩には大きな刺青や刀傷の痕。中には小指の無い者までいる。
 たこ焼き屋の親父はと言えば、言葉も発生ないほど萎縮している。焼いている途中だったと思われるたこ焼きからは白い煙が上がり、いつしかソースのにおいから炭の焦げるにおいに変わってしまっていた。
「テメェ、なんとか言えや!」
 最前列の木刀を持った男が、店主の襟首をつかみ、罵声を浴びせる。店主が苦しそうにうめき、冷や汗が鉄板に落ちて蒸発するのが目に入った。
「す、すいません、知らなかったんです。ご、ごめんなさ……ッ」
 謝ろうとした店主の襟をねじり、オールバックにアロハシャツの男が唾を吐く。それを見て嘲笑するガラの悪い奴ら。あすかの手のひらが強く握られるのを感じ、顔色をうかがうと両眉が逆ハの字につり上がっていた。
「ったりめーだ。ショバ代は頂く。だがなあ、ただ謝ったくらいでウチの組が許すと思われちゃ困る。おい、お前ら。こいつを押さえとけ。わからせてやる」
「な、なにを……!」
 坊主の男と茶髪の男が、アロハシャツの男の言われたとおりに動き、店主のおじさんを羽交い絞めにする。焼け焦げたたこ焼きの臭い。アロハが怯えきったおじさんの顔を間近で眺めた後、男は心底楽しそうに言った。
「お前らみたいのは言っても通じねえ。体の芯に焼き付けてやらんとな。今からされることがわかるか?」
「お、お金なら払いますから……アッ」
 無言で男の右手が跳ねあがり、木刀の柄が店主の顎に強打される。気を失いかけた店主の横面を殴る坊主の男。店主の鼻が折れて、赤い飛沫が散った。
「この鉄板の上で土下座しろ」
 後ろから見てもわかるくらい、先頭の男の口端が吊りあがるのがわかる。店主の悲鳴が上がる前にあすかの声が暗闇の静寂に響き渡った。
「いい加減にしろ、貴様ら!」
 全員が全員振り返り、あすかの方を見る。ギラギラとした視線を一身に受け、闇夜に抜き身の刃がきらめくがそれでもあすかは堂々と立っていた。
「お譲ちゃん。誰に物言ってるかわかってないようだな。今回は見逃してやるから、さっさとお家に帰んな」
 アロハシャツが意地悪く笑い、後ろの男二人が店主さらに痛めつける。苦しくも俺とあすかが逃げられる最後のチャンスだった。あすかを止めることができる のは俺だけ。あすかがこれ以上ヤの付く自営業を刺激しないように口を塞ぎ、黙って走り去る。必要なら頭を下げる。あのおっさんは痛い目を見るかもしれない が、自業自得というものだろう。
 簡単なことだ。自分にほんの少しだけ嘘をつき、見なかったことにすればいい。
「お前たちのような……むぐっ」
 あすかの口を塞いだのはずっとつないでいた俺の右手。横目で一度だけあすかを見る。俺がどういう顔をしていたのかは分からない。だが、鈴の鳴る音であすかが一歩引くのがわかった。
「あすか。今すぐに……通報しろ。俺がこいつらを再起不能にする前に」
 その一言で自営業の方々が総毛立つのがわかる。あすかは俺に塞がれたままの口で、大きく頷いた。
「おい、お前。彼女の前でカッコつけようとしてるんじゃねえ! ウチの組にたてついて、タダで済むと思うな!」
 聞き飽きた常套句だ。敵の数は十数人。普通に考えて勝ち目はない。何しろ相手は暴力を行使する本職であり、その手には武器まである。文字通りタダでは済まないに違いない。「うるさいな。俺は腹が減ってるんだ。その臭い口を閉じろ。食欲が失せる」
 図星を突かれたのかアロハシャツの男が怒号をあげる。兄貴分を馬鹿にされたと思った構成員の一人が拳を振るってきたのを避けて、ガラ空きの腹に膝を突き刺してやった。吐きそうになるそいつの顔を無機質に見下ろし、あの店主に食らわせていた何倍もの威力で殴り返す。
「この野郎……!」
 口とは逆に一歩、また一歩と後ずさりする他の構成員たち。俺は悶絶する男を足で退け、ガラの悪い集団へと一歩踏み出す。
「たこ焼き屋。こいつらを片付けたら、たこ焼きをおごってくれ。二人分、紅生姜多めで」
 羽交い絞めにされたまま、首を何度も振る店主。その半面、仲間をやられたリーダーらしきアロハ男はこめかみに青筋を浮かべ、ドスの利いた声で言った。
「殺れ。そいつも、そこの女も生きて帰すな」

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