#23.4 少女VS夜に咲く花
 約束の日、珍しく如月が来たわけでもないのにいつもより早く目が覚めた。部屋の中に俺以外の気配はなく、いつも通りペットボトルだけを朝食に着替えを済ます。
 リビングに人気があるはずも無く、一人暮らし独特の冷たい空気だけがそこにあった。テーブルの上には如月が置いて言った花火大会のチラシ。時間まではだいぶあるし、場所も近くの河川敷だ。
「いくら如月でも、さすがに迷わないだろう」
 一人ごち、玄関で郵便受けを漁る。よくわからないダイレクトメールやスーパーの安売りチラシなんかはそのままに、朝刊だけを手に取ってその場で開く。
「今日もテロの話題はなし、と」
 いつしか新聞の見出しを見るのが習慣になっていた。新聞は自分で取っているわけではなく、父親が取っていたものだ。書かれているのは大抵、政治家の汚職や不況、温暖化など一介の高校生にどうにかできるはずもない話題ばかりなので読み飛ばす。
 どうやら新しい総理も駄目そうだな。どうこうするにも負の遺産が多すぎて本当にやりたいことなど何もできないのだろう。いっそ、テロでも起こってくれた方が何かと良い方向に進むのではないかと思ってしまう。
 俺は新聞を再生紙用の箱に丁寧にしまい、ポケットに入れたままだった携帯を取り出す。サブディスプレイに時計以外の表示がないことを確認し、ソファーに寝転んだ。びっくりするほど何もすることがない。そういう時どうすればよいか。時間を浪費する、最も効率的な方法をひらめく。
「もうひと眠りするか」
 誰もいないリビングに俺の独り言はむなしく響き、冷蔵庫の重い駆動音を聞きながら瞳を閉じた。
*
 目を覚ますとリビングはすでに真っ暗になっていた。慌てて携帯を開くと約束の時間の十分前だと時計が示している。画面の隅には如月からと思しきメールが何通か、不在着信が一件。これもおそらく如月だろう。カーテンを閉め切っていたのが仇になった。
 飛び起きた俺は部屋への階段を駆け上り、小銭入れを引っつかみ、すぐさま家を飛び出す。如月は滅多なことでは電話までしてこない。このままではどやされるに違いなかった。
 家の戸締りの確認もそこそこに、走りながら携帯を操作する。寝ぐせはそのまま、朝から何も食べていないもあって腹も減っているが、今はそれどころではない。河川敷までの最短ルートを過去の経験から反射的に選択し、裏道を全力疾走する。
 走ってる途中で街がいつもとは違うことに気がついた。いつもは薄暗く死んだような雰囲気の夜道が不自然に明るく、活気に満ちていることに。寂れた商店街のアーケードには花火大会を知らせるのぼりが上がり、人々の熱気で灯っているような提灯が吊られている。
 お祭り騒ぎだな。感嘆もそこそこに商店街を駆け抜ける。道行く人の量が増えていることで花火会場が近いのがわかる。どこにこれだけの人がいるんだと思いながら、人波を縫うように走り抜ける。騒音にまぎれて流れる川のせせらぎを感じ、突然画面が切り替わったかのように視界が開けた。
「うわ……」
 普段は趣味でランニングをするか犬の散歩コースでしかない河川敷に、人が溢れていた。土手はもちろん橋の上まで人が見え、交通整備の警察までいる。見渡してもそこに人、人、人。豪華テーマパークでもないのに大した人口密度だが、見知った顔の奴は誰ひとり見当たらない。
「待ち合わせ場所、決めとくべきだったな」
 ひとしきり後悔し、さっき見そびれた携帯を開く。電話はやはり如月から。しかし、メールは携帯会社からの連絡とファーストフードショップからの宣伝だった。
 俺は落胆もそこそこに、如月の電話番号をボタン一つで開き、携帯を耳に当てる。二、三度コールしたところで誰かに背中をポンとたたかれて振り返った。
「聖ちゃん、ギリギリセーフ!」
 後ろに立ってニヤニヤしていたのは見知った顔。眼鏡の似合う悪友、楽弥だった。そのさらに後ろにはスケッチブックを片手に持った男と水風船のヨーヨーを吊ったうさがピンクの甚平を着て、立っていた。
「如月は!?」
 多少切れた息でいうと、楽弥が目を細くして笑う。
「あのウルトラキュートなうさちゃんが眼中にないとは、この愛妻家めー。大丈夫、あすかちゃん怒ってないから」
 そう言って、楽弥はイルカの後ろに視線を送り、小さくウインクする。それが合図だったかのようにイルカの後ろから、赤い鼻緒の下駄が覗いた。
「遅いぞ……待ってたんだからな」
 ゆっくりと姿を現した如月は、淡い水色の浴衣に身を包み、気恥ずかしそうに俺を見ていた。初めて会った頃より少し伸びた髪は片側に結いあげられ、左肩に乗せられている。頬にはわずかに朱がさし、いつもの如月とは違う可憐さを見せていた。
「あんまりじろじろ見るなよ。照れるだろ……」
「ごめん、如月。なんか、いつもと違ったから」
 思わず本音が出てしまう。化粧一つで女は化ける。いつもの如月を知っているからこそ、その違い……というか、えもいわれぬ魅力に驚きを隠せなかった。
 如月は一歩足を出し、その拍子に右手に吊った巾着についた鈴が小さな音を立てる。
「如月じゃなくて、あすか」
「ああ……そうだったな」
 見惚れないように顔を斜め下にそらし、頭を掻く。一度も手の入ってない黒髪が和のテイストに合い過ぎていて、目のやり場に困った。浴衣の裾からのぞく白い足首までもがやけに色っぽく感じる。
「うへへ、こんな聖ちゃんを見るのは初めてだー。あすかちゃん、ここ来て最初になんて言ったと思う?」
「ら、楽弥!」
 如月……じゃなくて、あすかの必死な制止を無視して、楽弥が二の句を次ぐ。
「『聖は!?』ってさ。聖ちゃんの似たもの夫婦ー」
 かぁーっとゆでダコのように赤くなるあすかを見て、胸の奥が跳ねたような感じがした。茶化す楽弥の声も届かない。
 ちりんちりんと音を立てながら楽弥を追いかけまわすあすかを見て、自然と手があすかの右手を掴んでいた。あすかの顔が俺の方を向き、気恥ずかしくなって目線をそらす。
「あすか、行こう」
 口をついた言葉。返事の代わりに鳴ったのは鈴の音。あすかが小さく、でもしっかりとわかるように頷いた音だった。あすかの体温が、鼓動が右手越しに伝わってくるのがわかる。
「あすかちゃん、それ恋人つなぎ!」
 しっかりと絡めた指と指。それに気付いた俺はとっさに離そうとしたが、あすかがさせまいと指を絡めてくる。リンと鳴る鈴の音。それをかき消すように今日初めての花火が、夜空に咲いた。

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