#19 わたしとあめふらし
 帰りのショートホームルームが終わり、用の無い生徒がいなくなった頃、俺と楽弥は用も無いの教室に居座り、内容の無い話をしながら時間を潰していた。ここ数日の習慣と言うか、ほぼ強制的に通わされていたうさぎ小屋にはまだ行っていない。そこに行かなければならない決定的な要素が不足していたのだ。
「今日は訳あって、少し遅くなる」
 転校生でありながら、早くも校内有数の問題児となった如月が残していった言葉。理由も要件も詳しくは聞いていないが、遅くなると言っている以上勝手に帰るわけにも行かず、二人で待ちぼうけを食らっていると言うのが今の状況だった。
「最近なんかあすかちゃんの様子がおかしいよね」
 おかしいのはいつものことだろうと軽く流したが、俺自身にも心当たりというか気にかかることがあった。卯月うさの依頼を受けた辺りから、如月があまり説教をしなくなったり、急にいなくなったりすることが増えた気がする。
「パトロールよりも面白いことを見つけたのかもね。彼氏が出来たとか」
「それはない」
 恐らく楽弥は冗談のつもりで言ったのだろうが、気がつくとそう断言していた。もちろん、確証があっていったわけではないが、心のどこかでそんなことはあって欲しくないと考えていたのかもしれない。
 それもそうかと楽弥は俺の言うことに妙に納得し、何気なく外の景色を眺める。時刻は既に五時をまわり、幾分か日も落ち始めていた。初夏を感じさせる太陽に四十人超もの人間が閉じ込められている教室はつい先ほどまで薄っすらと汗をかくほどに熱されていたが、人気のなくなった今では湿気も少なく、快適な温度に保たれている。
 グラウンドには熱心に部活動に励む学生がまばらに見えるだけで、ここ最近はなりを潜めているテロ騒動のこともあってか、帰り支度を始めている部員も少なくない。
「平和すぎて退屈だなとは思ってたけど、最近物騒になったよね」
 きっと楽弥は今朝のニュースのことを言っているのだろう。テロリストによる犯行声明。大胆にも警察関係者から政治家、マスコミにまで送りつけられた恐喝文はテロリストの思惑と折り新聞の一面を飾り、ネタに飢えているワイドショーの格好のターゲットとなっていた。
 依然、テロリストに誘拐された警視総監の娘としては見過ごせない問題であり、今日の用事と言うのもそれ関連のことなのかもしれないなと自分に言い聞かせる。
「それにしても遅いよな。今日は中止なのか」
 何かあったのかもとは言わず、そのまま飲み込む。楽弥も何か言いたげではあったが、同意も反対もせずに考え込んでいた。
 少し薄暗くなってきた教室に僅かな沈黙。時計の秒針が時を刻む音だけが広い教室に響く。帰るに帰れない状況が時間の流れを遅くしているような気がした。
「なぁ」
 楽弥が気絶していたときに病院でであった不快な教師について聞こうと思ったそのとき、絶好のタイミングで俺の携帯が低く唸る。サブディスプレイに表示されたのはもう二時間以上俺たちを待たせている女の名前だった。
「あすかちゃん?」
 俺は言いかけた言葉を伏せ、短く肯定する。メールの受信を示す画面をボタン一つで飛ばし、肝心の内容に目を通す。一言目に簡単な謝罪と今日は行けないから二人で行ってくれという旨が書かれていた。
「今日は戻ってこないみたいだ。二人で行けだと」
「こんだけ待たせといてそれかよ!」
 楽弥の反応ももっともだ。これだけ待たされた上に結局来れないなんていうのはあまりに酷い、苦情のひとつも言ってやろうかと思ったが、今まで約束を違えたことの無い、真面目を絵に書いたような如月を思い出し、思いとどまる。
「如月のことだ。なんかのっぴきならないことになったんだろう」
「テロリストにさらわれたとか?」
「笑えないジョークだ」
 俺はそう言いながら椅子を引き、机に立てかけておいた傘を手に取る。さらわれていたら、メールなど出来るはずが無い。俺は楽弥にさっさと済ませて返ろうと提案し、自分のロッカーからほとんど何も入っていない鞄を掴みだす。楽弥も慌てて重そうな鞄を持ち上げるが、急に立ち止まり、背中越しに声をかけてきた。
「聖ちゃん、なんで傘なんて持ってきてんの?」
 不思議そうな顔をする楽弥。当然だ。今日の天気予報によると今日の天気は快晴で降水確率はゼロ。用心深い奴が折り畳み傘を持ち歩くのならわかるが、用心深くない俺が本降りの雨にも対応できるでかい傘なんて持っていれば、誰だっておかしいと思うだろう。
「今日は雨が振るって言われたんだ」
 誰にと聞き返されるよりも早く、教室のドアを開ける。馬鹿正直に傘を持ってきたことを言いたくなかったので、早足でうさぎ小屋への最短距離を進んだ。
*
 校舎から出るとすっかり日は落ち、月明かりだけがグラウンドをぼんやり照らし出していた。冬と比べれば随分と日が長くなったなと思っていたが、六時を過ぎればさすがに暗くなる。
 ついさっきまで仲良く汗を流し合っていた部活動も終わり。校庭に人気は無い。人のいない学校は静かで良いものだと思いながら、堂々とグラウンドの真ん中を二人で横切る。
「こんな暗くなってからも、うさちゃん一人でうさぎ小屋にいるのかな?」
「帰っているかもしれないな」
 いなかったらいなかったで帰るまでだ。適当に見回して、如月に報告さえすれば、後々文句を言われることも無いだろう。
 早く済ませて帰ろう。待ちくたびれた疲労感が勝手に俺の歩みを早め、目的地の古びた小屋へと向かわせる。いよいよ、目前に小屋が見えてきた。
「イルカもいないね。こりゃ、早く済みそうだ」
 卯月の世話役もいないのであれば、卯月の不在はほぼ確定だ。オレは無造作に色あせたドアの取っ手を握り、そこで強烈な違和感を覚える。ドアが開かないのだ。鍵をかける習慣も無ければ、元々鍵なんて着いてないはずなのに。
「楽弥、離れてろ」
 ほんの僅かな違和感。誰も気付かない程度の些細なことではあったが、直感的に嫌なものを感じ、楽弥にそう指示する。
 楽弥の行動はすばやかった。何も言わず小屋の裏側に回り、息を潜める。よほど、俺の声が切迫していたのだろう。俺自身も小屋から距離を置き、呼吸を整える。嵐の前の静寂、数秒の間を置いて、ドアに挟まった白いものの存在に気付く。いつもイルカが使っているスケッチブックの切れ端だと気付いたその瞬間に、誰もいないはずの小屋のドアがひとりでに動いた。
 ドアの隙間から覗くぞっとするほど白い腕、心霊的なものではなく、生きた人間のものだ。半開きとなったドアからひらひらと舞い落ちる紙。乱暴に切り取られたページには遠くからでも見えるように大きな文字でこう書かれていた。
『逃げろ』
 筆跡からはイルカの物だと判別できないほど切羽詰った字体を見て、背中に冷たいものが走る。反射的に傘の取っ手を強く握り、邪魔になりそうな鞄を地面に投げ捨てた。ドアがゆっくりと俺を挑発するかのように開き、見知らぬ男がぬっと顔を出した。
「誰だ、お前?」
 傘を手に立ち尽くしている俺に向かって男が言う。それはこっちの台詞だと返す手間をも省き、不審な男を睨み付ける。ぞっとするほど色が白く、線の細い男だった。
 双眸は閉じられたかのように細く、学校指定の制服ではなく紺のボタンシャツにフード付きのパーカーをラフに羽織っている。
「イルカに何をした?」
 その言葉に疑問としての意味はなく、気迫負けしないように事実確認をしただけだ。答えを聞かずともその男が待つ陰気な気配と、開かれたドアから臭ってきた刺激臭で何が起きたかは大概見当が付いていた
「イルカって、七番のこと? あー、彼なら寝てるよ。……すごく、疲れてたみたいだわ」
 男は言い終えると、ぞっとするような笑みを見せる。誰にでもわかるような簡単な嘘。この小屋に寝るような設備もなければ、そんなことをするような人間ではないということも俺たちは知っている。イルカのものと思われる意味のわからない呼び名も気になるが、今は何よりイルカの安否を確かめたかった。
「お前、何者だ。ここの生徒じゃないだろ」
 男はニヤついた口元をさらに歪め、犬歯を剥きだす。まともじゃないと思わせるのに十分な狂気を隠すことなく滲み出させた後、笑いをこらえるように喋り出した。
「まずはさー、君の方から名乗るのが普通ってか、礼儀だよね。でもいいや。俺は皐月零音さつきれいん。好きなものは小動物。嫌いなものは雨。生まれ持っての晴れパワーの持ち主で、絶賛彼女募集中。で、君は?」
 皐月と名乗った男はべらべらと聞いてないことまでしゃべり、うさぎ小屋の入り口に背をもたれる。こいつが喋り始めたぐらいから、空気に何かの匂いが混ざり始めたのを感じた。一つは湿った土の匂い。もう一つは黒く歪んだ嘘の匂い。こいつはわざとわかるように嘘をついている。
 俺はこの不気味な男にさらに警戒を強め、すぐにでも行動に移れるようにそれとなく身構え、言った。
「霜月聖だ。薄っぺらい嘘ばかり吐く口をお持ちのようだな」
 大げさに驚いた顔をする皐月。今まで見破られたことがないというような表情に見え隠れする欺瞞に満ちた表情。
「あ、バレた? 俺が彼女募集中じゃないってこと。あちゃー、自信あったんだけどなー。そうそう、十一番君。噂はよく聞いてるよ。テロリストを単身で倒しちゃったとか、凄いよね。正直初めて聞いたときは感動しちゃったよ、でもさ……」
 一旦言葉を切り、顔を伏せる皐月。ついさっきまで雲ひとつなかった夜空には、この数分の間に暗雲が立ち込めていた。土の匂いが強くなり、雨の匂いに変わるのを感じる。
「俺もテロリストなんだぜ」
 ぽたと俺の方に冷たい水滴が落ち、皐月の口が左右いっぱいに広げられる。その端から赤い舌が覗いたと同時に、パラパラと降り始めた雨を切り裂き、弾丸の如く飛び出して来た。その手にはいつの間にか握られたのか、どこにでも売っていそうなビニール傘。急加速と合わせるように突き出された傘は槍を思わせるように一直線に俺の喉元を狙っている。本来安全用のプラスチックでおおわれていることの多い先端部には剥き出しの金属が覗いており、赤錆びのような何かが付着しているのが目に映った。
 金属と金属がぶつかり合う音が鼓膜を震わせる。俺は凶器と化した傘の先端が俺の喉元を抉る直前に、手にしていた傘を縦に構え、支柱の部分で皐月の初撃を受けた。血に濡れた矛先をすんでのところで回避した俺は、そのまま力任せに傘を押し返し、体勢の崩れた皐月の顔面目がけて思いっきり蹴りあげるが、前髪を掠めただけで俺のつま先は空を切った。
「ははっ、楽しーい。すごい、すごい。さすが十一番じゃん」
「くっ、霜月だッ!」
 威勢良く返すが、現状不利を感じていたのは、他でもない俺だった。皐月の攻撃は無駄口を叩きながらも勢いを増しており、俺の蹴りを状態を逸らして避けた直後、無理な体勢から足払いを繰り出してきたのだ。とっさの判断でクリーンヒットこそ避けるものの、わずかにバランスを崩したところにすかさず傘を突き出してくる。狙いは傘を持っている両手。受け止めようにも点の攻撃を的確にとらえるのにはこの武器は細過ぎる。そして、なによりも、皐月がなぜか好んで傘を使用しているのに対し、俺はあり合わせの武器として傘を使用しているのが大きな差となって現れていた。
 両手をかばうようにしてバックステップした際に、皐月の槍が小指を掠め、その拍子に唯一の武器だった傘を取り落としてしまう。雨にぬれたグラウンドの土に嫌な音を立てて傘が落下した瞬間、俺の劣勢がより確かなものになった。
「十一番もすげえけど、俺様の方が一枚上手だったなー。どうする? 降参する?」
 徐々に強さを増す雨の中、皐月が嫌らしく笑う。いつでも命を取れる絶対優位とまではいかず、ほんのわずかな膠着状態。えぐられた小指が燃えるように熱く、剥がれた爪から流れ出した血液が雨によって舐め尽されていく。奪われていく体温。ぬかるみ始めた地面。あらゆる要素が俺に絶対的な危機を悟らせていた。
 逃げきることは可能か不可能かと問われれば、間違いなく後者の方だろう。
「降参ね……見逃してくれるとは思えないが」
 苦し紛れの一言に皐月は再度ペロっと舌を出し、雨と血に濡れた傘の先端を舐める。
「御名答。聖君は賢いな」
 言い終わるや否や、一足飛びで距離を詰める皐月。脇腹目がけて突き出された一撃を身をよじってかわし、続けて足元に振り払われたニ撃目をわずかに跳躍することで避ける。しかし、反撃しようにも皐月は長いリーチを生かし、フェンシングのように距離を取って戦っているため、手が出せない。
「ほらほらほらほらー当たっちゃうぞー」
 繰り出される突き、突き、突き。攻撃を繰り出す皐月のわずかな予備動作を見て攻撃を何とかしのいでいくが、攻撃の精度は数をこなすごとに向上し、初めは触れることもなかった矛先が、そのうち濡れたワイシャツを掠め、今度は皮一枚の所を矛先が通過し、最終的に何とか掠り傷で済んだほどにまでに洗練されていく。恐らく次の一撃は避け切れない。一旦、距離を取って作戦を練り直そうと後ろ足を下げたその時。
 踵に感じたねばついた感触。いつしか、雨濡れてぬかるみを作っていた地面に、最悪のタイミングで足を取られた。もちろん、皐月はそのチャンスを見過ごすはずもなく、最小限動作で急所を狙ってくる。狙いは胸。傘の威力でどこまで突き刺さるかはわからないが、食らえば即行動不能になることは目に見えていた。
「これでフィニーッシュ!」
 まっすぐに最短距離で命を奪いに来る皐月。足りない威力を補うため、取っ手部分を自らの胴体に合わせ、体重を乗せられるようにするという徹底ぶりだ。今までとは次元の違う重い攻撃に、素手の俺は対抗する手段を持たない。矛先は吸い込まれるように俺の中心を穿ち、瞬く間に絶命させた……かのように思えた。
「それを、待ってた」
 俺はわざと上体を限界以上にそらし、仰向けに転倒する。その際に湿気の含んだ土を思い切り皐月の顔面に蹴り上ゲてやった。水気を含んだ土が散弾のように飛び散り、皐月の青白い顔を殴打する。苦鳴が上がり、無意識のうちに顔についた泥を払おうとする皐月。たった今、待ちに待った距離が手の届くところまで縮まった。
 俺は背中が地面に触れる直前に手を着き、腕と上半身の筋肉をばねのようにしならせながら起き上がり、そのまま皐月の上に倒れ込むようにして渾身の一撃を放つ。奴の頭頂部目がけて振りおろしたチョッピングライトが頭蓋骨から背骨までを真っ直ぐに貫く感触がビリビリと拳に伝わってくるのを感じた。
「……かッ」
 ガチンという上顎と下顎が激しくぶつかり合う音が響き渡り、皐月は悲鳴を上げることもできないまま立ち膝の状態で一瞬だけ止まり、そのまま支えを失ったかのようにうつ伏せに倒れる。それを見た俺は何も言わず、小指から滲んだ血を無造作にズボンに擦りつけ、皐月の無様な姿を見降ろした。
 硬く閉じられた口の角から漏れ出してくる赤い泡のようなもの。かける言葉も勝利の愉悦もなく、俺はただ無感情に皐月の武器である傘を掴んだ。無力化するために武器を奪おうと思ったのだが、皐月は気を失ってなお、傘を手放そうとはしなかった。
 俺は仕方なく、皐月が手に持ったままの傘を全力で踏み抜く。主軸が折れた感触が足に残り、続けて、たった今傘を粉砕した足で無防備に晒されている自称テロリストの首に足をかける。皐月は気絶しているが、また起き上がってくるかもしれない。滅多に見ることのない黒い感情にに晒され続けた結果、俺の意識の底にあった何かが目の前にいる男を殺せと命じていた。
 泥で汚れた足が皐月の首に乗る。まだ生きていることを示す脈動が靴裏に響いて来る気がする。あとほんの少し力を入れるだけで良い。簡単なことだ。
 今まさに皐月の息の根を止めようと思った瞬間、皐月の鼓動とは別の何かが俺の脚を震わせていた。俺は皐月の首から足を離さないようにしながらポケットの携帯を取り出し、通話ボタンを押す。携帯のスピーカーから響いてきたのは鼓膜が破れるんじゃないかと思うほどの大声だった。
「聖!バカっ、何で電話に出ないんだ! 凄く心配したんだぞ!」
 キーンとなる耳に耐えかねて一度携帯を耳から話す。電話の主は予想通り如月だった。どうやら何度もかけていたらしい。
「テロリストに襲われてたんだよ。ちょっと電話に出るから待ってなんて言えないだろ。とりあえず倒したからパトカーと救急車を飛んでくれ。あといるなら保険医も。というか如月はどこにいるんだ?」
「今いる場所は話せない。……だが、その救援はすぐに呼ぶ。こちらの用件もいいか?」
 話せない場所ってなんだよと思いながらも、如月の用件に耳を傾ける。どうせ後で問い正せばいいことだ。もう殺す気もなくなってしまった。この男をお縄にしてイルカを助けるのが先決だろう。
「いいか。卯月うさぎがそちらに向かっている。絶対にうさぎ小屋に入れるな」
「は、なんのことだ? こんな時間に卯月が来るわけないだろ」
 如月は俺の言い分を無視し、絶対にという点を強調し、その上何度も念を押した。そもそも何で如月がそんなことを知っているんだ? 疑問符ばかりが積み重なり、頭がパンクしそうになる。
 一方的に用件だけを説明もなしに突きつけられた俺は足元の男のこともあり、手一杯だと判断し、小屋の後ろに隠れているはずの楽弥を大声で呼んだ。遠く安全な場所からひょこっと顔を出す楽弥。カバンを持っていない方の手でガッツポーズを作っているのが見えた。
「聖ちゃん、全部見てたよ! さすが、冬海をシメた男!」
「そんなことはいいから、縄かなんかないか? あと、あればナイフも」
 楽弥はホイホイとさも当たり前のようにカバンの中から丈夫そうな麻縄とバタフライナイフ、ついでに警察が使うような本格的な手錠まで取り出す。何で平然とこんなものを持っているのか不思議だったが、今はそんなことを考えている場合ではない。
俺と楽弥は協力して皐月を縛り、念のため手錠もはめる。これで逃げることはおろか、身動き一つ取れないはずだ。次はイルカを助けに行かなければ。
「無事でいろよ……!」
 楽弥を急かし、駆け出す。雨は若干弱まったものの、依然振り続けていた。ぬかるむ土に足を取られながらも、急いで小屋の戸をあける。入った瞬間、吐き気のするような鉄の臭いが鼻腔を満たし、左手で鼻を覆った。
「聖ちゃん、これ」
 楽弥が指差したのはうさぎが住む檻の中。匂いの中心がそこにあった。折り重なるように放置されたうさぎの死体。白く可愛らしかった体毛は赤黒く染まり、見るも無残な姿になっている。その原因はうさぎの中心に空いた穴だった。鋭利な針のようなもので一突き、思い当たる節は一つしかなかった。
「あいつは、やっぱり殺せばよかった……!」
 俺は今すぐにでも皐月の元に戻り、ナイフでこのうさぎたちのように血に染めたくなる衝動を押し殺し、小屋内を捜索する。狭い小屋の中、イルカは割と簡単に見つかった。
「大丈夫か!?」
 イルカは掃除用のロッカーに縛られたまま放り込まれていた。全身に細長い殴打の痕。傘で殴られた傷に違いない。
 急いで縄をナイフで切り、慌ててイルカの肩を揺する。返事はないが、胸に耳を当ててみると弱まっているが確かな鼓動が聞こえてきた。幸い、打撲ばかりで血が出るような深い傷も見当たらず、命に別条はないと思う。あとは救急車を待つだけだ。
 俺は胸をなでおろし、応急処置にと医療用の道具は何か無いかと楽弥に尋ねようと思ったその時のことだった。
「……!」
 小屋の前に立ち尽くす人影。小さく頼りない外見からは想像もできないほど、それは威圧感を放っている。その目はうさぎのように赤く血走り、小さな両こぶしは血管が浮き出るほどに硬く握りしめられていた。
「卯月……?」
 口をついた言葉。その答えはその小さな身体から出されたとは思えないほどの絶叫だった。

目次 #20