#18 わたしとはくいのてんし

 酷く後味の悪い絵を見た俺たちは二、三、イルカと言葉を交わした後、うさぎ小屋を後にした。帰り道は始終無言。胸中に黒いわだかまりのようなものを抱えながら、それぞれの帰路に就こうとしていた。
 あの悪夢のような者をうちに秘める人間。それは極めて残虐な快楽殺人者のものでもなければ、人を地獄に陥れる詐欺師のものでもなく、普段誰からも気にされることなく存在しているただの人のものだというのだから恐ろしい。
 以前、授業の一環で見せられた戦争犯罪者の裁判を題材にしたドキュメンタリー映画を思い出す。初老の男性のサインによって行われた大量殺人。決して許されるものではないと知りながらも、その凶行に及んだ理由は「命令されたから」という単純なものだった。
 もし、その場で決定を迫られたのが俺だったら、上官の命に逆らってでも指令を拒否することができただろうか。効率化のためと銘打って、複雑に入り組んだ システムの一端に加担することは無意識のうちに行われていることであり、拒否するという選択肢すら思い浮かばないかも知れない。
 例えば、とある場所で一時間くらい時間を潰していてくれと言われ、その見返りに法外な報酬を渡されたとすれば、多くの人は何も言わずに承諾することだろう。その何でもない利己心からの行動が、自分ではない誰かの命運を左右するとしてもだ。
 前に如月に言われた言葉が不意に胸を付く。現代人に忘れられた一つの感情。本来人間に備わっていたはずの他者と協力し、関わり合っていくという失われた意思。関係ないの一言で片づけられるこの国。
 考えれば考えるほどに気が重くなる話だ。金の力で人々は経済的に豊かになり、その代りに心の豊かさを失った。今ではそれが当たり前であり、その逆は異端だと吐き捨てられる。如月が多くの人から疎まれているのを見れば一目瞭然であるように。
「如月」
 俺と彼女の家を分かつT字路で立ち止まり、呼び掛ける。如月はすぐに立ち止まり、俺の方を向いた。
「もし、銃を突き付けられて、核ミサイルのスイッチを押すように言われたら、どうする? 押したら自分の命と一生暮らせるだけの……」
「押さない」
 俺の言葉を遮って告げられる明確な意志。押した際の自分のことなど意にも介さない、如月らしい答えだった。如月も俺と同じようなことを考えていたのか、俺の望むべき答えを迷いなく選ぶ。
「楽弥ならどうする?」
 黙って俺たちのやり取りを聞いていた楽弥にも同じ質問を投げかける。究極の選択に楽弥はどう答えるのか聞いてみたかった。
「僕なら押すよ……事前にミサイルの照準を敵の国に向けてからね」
 無邪気に笑う楽弥。確かにこいつならやりかねない。楽弥らしい冗談に俺は小さく笑う。しかし、如月は笑わずに、俺の目を真っ直ぐ見た。
「聖。お前ならどうするんだ?」
 真剣な面持ちで俺のことを見つめる如月。即座に投げ返された質問に即答できるようであれば、そもそも自分から質問したりしない。多くの人は幼い、くだら ないと言うだろう。それは俺のようなただの高校生が出した、”もしも”の話でしかないからだ。正直に答える必要もない。赤の他人の疑問に真剣に答える人間 などほんの一握り、ごく少数でしかない。
 すっと深呼吸をして、俺なりの答えをまとめ、口にする。
「俺は……わからない」
 俺らしくない曖昧な答えだと思いながらも、真剣に考えた末の答えがこれだった。良い出した俺自身が分からないなんて言うのはお笑い草かもしれないと思い ながらも、正直な感想だった。俺はそれ以上何も言わず歩きだす。理由を待っていた二人もそれ以上は追及せず俺の背を追った。
 押すか押さないか。そんな簡単な動作も条件によっては究極の選択になりうる。もし、これが仮定の話ではなく、実際にその立場に置かれてからでは人の行動 は分からない。銃口を向けられているのが俺だったら、俺は押さないことを選択できる自信がある。だが、もしもその銃口が如月や楽弥に向けられていたとした ら……俺がどう行動するかは想像できない。
 俺の問いかけや、それぞれの思考の中、俺たちはそれぞれの家の方向に分かれる。明確な答えを見いだせないまま、俺は誰も出迎えることのない家のドアを開けた。

*

 土曜の朝。学校定休日で誰も訪れないはずなのにいつもと寸分違わない時間に呼び出しベルが鳴る。眠い目をこすり、ドアを開けると、案の定如月が立っていた。それも珍しいことに楽弥も一緒に。
「如月、今日は休みだぞ」
「知っている。イルカから卯月うさが検査入院したと連絡があったのだ。お見舞いに行くから、さっさと準備しろ」
 相変わらず理不尽な要求だ。陰鬱な気分な俺の気分など気にせずに、喜々として楽弥が俺に話しかけてくる。
「聖ちゃん、うさちゃんのパジャマ姿が見られるチャンスだよ!」
 明らかに一人目的が違うやつがいるが、その前に手にしている菊の花束には突っ込まなくていいのだろうか。
 俺は額に手をやり、小さく頭をふるが、いくら頭痛を訴えようとも如月はさっさと着替えて来いの一点張りに違いない。抵抗する気力もなく、手早く着替えを済ませ、テーブルの上にあった食パンをくわえる。ついに休日にまで、如月が侵食してきたか。
 俺は適当に戸締りをし、家を出る。如月は俺の平穏を阻害していることを詫びることもなく、さも当然のように行き先を告げる。その言葉には案内役もよろしくという意味が含まれていることは間違いない。
「月島総合病院の二○五号室だ。行くぞ」
「俺が先頭なんだろ」
 こくりと頭をふる如月。言われなくともそのつもりだ。如月に先頭を任せるなんてことになれば、十五分もかからない病院に一日がかりで行く羽目になることはすでに経験済みだ。
 いつもなら、真っ向から反対するであろう楽弥も卯月という餌に釣られ、完全に如月側にいるのだから、もはや手の着けようがない。
 大きなため息をつき、仕方なしに歩き始める。こうなってしまった以上、出来るだけ早く、この用事を終わらせるが賢明だと思い、如月が道行く人たちに説教できないほどのスピードで病院へと向かった。

*

 病院にはほどなく到着した。何度か通院したこともあるので、如月のように迷うこともない。受付にて用件を話し、すぐさまニ○五号室へと向かう。途中、松葉杖をついた人や点滴をぶら下げた人とすれ違うが、気にせず通り過ぎた。
 ニ○五号室は一番奥の個室だった。二○一から縁起の悪い四の付く部屋を除いて、三部屋を次々と通り過ぎ、目的の部屋をノックする。
「如月一行が見舞いに来たぞ」
 俺がドア越しにそう呼びかけてみるが、返事はない。一応病室を間違えていないか名札を確認するが、確かに「卯月うさ様」と書かれていた。
「きっと照れてるのさ。さすが、うさちゃん……萌えるぜ」
「楽弥。返事がないのはいつものことだぞ」
  如月が楽弥の冗談を軽く流し、ドアノブに手をかける。鍵はかかっておらず、ドアはすんなり開いた。開いたドアの隙間から見える、一人でいるには少し広い 病室に、備え付けの家具と清潔なベッド。シーツは異様な盛り上がりを見せており、そこに誰かいるのがまる分かりだった。
「うさ、見舞いに来たぞ」
 如月が容赦なくシーツをはぎ取り、ピンク地にの白いうさぎがプリントされたパジャマが露わになる。それを見た楽弥がわけのわからんことを叫んで、卒倒した。なんとも病院のマナーのわかってないやつらだ。これじゃ、見舞いというよりも押しかけに近い。
 如月と初めて会ったときと同じように顔を隠して縮こまってるベッドの空いた部分に許可なく腰掛け、一息つく。話しかけても答えがないとわかっているのなら、いつも通りの自分でいた方がいいと思ったからだ。
「なあ、卯月。検査入院って何の検査なんだよ」
 隠れたつもりの卯月にではなく、わざと宙空に向かって話しかけるようにする。無論答えはないが、その代わりに小さな指先が机の上に置かれた紙を指していた。
「如月、その紙を読んでくれ」
 テーブルに一番近かった如月に頼むと、如月は軽く文面に目を通して小さく唸る。
「教育委員会からの手紙だな。別に病気とかではなくて、定期通院らしい。心のケアが目的だとも」
 心のケアと聞いてまず思い浮かぶのは卯月の過去の書かれた書類。強烈な嫌悪感と卯月の外面からは見えない、心の傷の深さを思う。
「まぁ、生きてりゃいいこともあるさ。そこの楽弥とか見てると深刻に考えるのが馬鹿らしくなるぞ」
「どういう意味さ、聖ちゃん、あ、うさうさ。これ、僕が持ってきた見舞いの花束。ここの花瓶に差しておくね」
 いつの間にか意識が回復していた楽弥の暴走を押さえつけ、ミスチョイスとしか言いようのない花束を取り上げる。そんなやりとりを見て、ずっと隠れていた 卯月が小さく声に出して笑った。喋ったとまではいかないけれど、その可愛らしい息遣いを間近で見ただけで楽弥は懲りもせず失神した。
「な、おかしな奴だろ。ちょっと頭はおかしいけど、悪い奴じゃないんだ」
 目を真ん丸にして楽弥を凝視している卯月。楽弥の馬鹿っぷりを見て、ほんの少しではあったけど、警戒が解けてきているような気がした。
 もしかしたら、このまま一言二言口を利いてくれるかもしれないと、淡い期待を持ったその時に、病室のドアがノックされ、白衣の看護師が入ってくる。
「お薬の時間ですよー……あら、あなたたち。お見舞いの方?」
 見覚えのあるカプセルと水の入ったコップをトレイにもった看護師が、俺たちに微笑みかける。
「はい、同じ高校の者です。そこの無愛想な男と寝ている男も」
 如月の受け答えに看護師はくすりと笑い、トレイを机の上に載せる。
「うさちゃん、今日は四人もお見舞いに来てくれたのね。いつも寂しそうにしているから心配してたんだけど、あなたたちみたいに面白い友達がいるのなら安心したわ」
 そう言われた卯月は急に怯えたような表情をして、ごまかすようにテーブルの薬を二錠飲む。その微妙な変化も気になったが、俺が気になったのは看護師の言った一言だった。
「四人って、俺たちよりも前に誰か来てたんですか?」
 イルカのことかと思い、その特徴を説明するが、看護師は首を振る。
「その子はいつも来てくれてるけど、今日は違う男の子だったわ。同じ学校の子かと思ったんだけど……」
 やはりイルカではなかった。第一、イルカも来るとなれば、俺たちと一緒に来たに違いない。となると、他に誰か別の奴が卯月に会いに来たことになる。
 謎の来訪者に何かが引っかかった俺は看護師にボールペンを貸してくれるように頼み、それを卯月に渡す。
「卯月、描けるか?」
 卯月は小さく顎を引き、教育委員会からの手紙の裏にさらさらと何かの絵を描いていく。イルカのスケッチブックに書かれたようなものではなく、何か明確な意思のもと、謎の来訪者の本性が描き出される。
「傘……?」
 卯月の絵を見て、如月が直感で答える。黒いボールペンで描かれたのはどうやら開かれた傘のようだった。上には黒い点のようなもの、恐らく雨粒が描かれて いる。生物以外の場合もあるのかと疑問に思ったが、何にせよ、卯月は似顔絵を描いているわけではないので、つまるところ何の情報も無いのと変わらなかっ た。
 俺は机に投げ出されたボールペンを看護師に礼を言って返し、頭を悩ませる。俺たち以外に卯月に関わっている人物も、傘にも全く心当たりがなかった。如月にも聞いてみるが、答えはない。
 見かねた看護師が助け舟を出そうとしてくれたが、言いかけたところで止まる。
「ごめんなさい。名簿を見れば名前くらいは分かると思うんだけど、個人情報だから教えられないのよ」
 残念だが、看護師としての義務なのだから仕方がない。看護師は次の仕事があるようで、あまり長居はしないようにとだけ告げて、病室を出て行った。俺たちもこれ以上はなすすべがなく、卯月も話す様子はなかったので、病室を後にすることにした。
「じゃあな、卯月」
 俺はまだ夢心地の楽弥を無造作に背負い、卯月に告げる。卯月はもう隠れることもなく、まっすぐこちらを見ていた。
「うさ。可愛い絵の礼を言うぞ。ありがと」
 如月が帰り際にそう言うと、さっきの微笑ではなく満面の笑みで卯月が手を振っていた。
 病室を出て、ドアが完全に締まったのを確認すると、すぐに如月が喋り始めた。
「別に普通の病院だな。怪しいところもないようだし」
 如月があの不気味な献金について言っているのはすぐに分かった。俺もさっきからうかがっているが、別段気になるところはない。気になることがあったとすれば、卯月の描いた絵くらいだった。
「怪しいところだらけでも嫌だけどな」
 俺の冗談に如月は笑わず、代わりに白衣の医師らしい男を見るように目で言った。こちらに向かって歩いてきているが、病院に医者がいるのは珍しいことではない。しかし、よく見るとそれは医者ではなく、俺も知っている冬海高校の教師だった。
「月読先生」
 如月が教師の名前を口にし、歩み寄る。生物の月読と言えば、校内に知らぬ者はいないほど有名な奇人だ。俺が近付くのを戸惑っていると、何を思ったのか如月が奇人を連れてこちらに歩いて来るではないか。
「やあ、問題児諸君。何か精神病にでもかかったのかね?」
 いきなりこの言い草だ。月読先生は基本的にこんな感じであり、生徒はもちろん、教師からの受けも悪い。逃げるタイミングを逃した俺は仕方なく、この偏屈天才教師の相手をせざるを得なくなる。
「いえ、あなたと違って健康そのものですよ。俺たちは友達の見舞いに来ただけです。先生こそやっと入院する気になったんですか?」
 たっぷりと皮肉を込めて言ってやったが、動じる様子もなく、むしろ病院だというのに他人の目も気にせず、大げさに笑って見せた。
「奇遇だね。私も見舞いに来たのだよ。君たちのような冷やかしではなく、月島の特別顧問としてね。そこを退いてくれないか? 急いでるんだ」
「卯月うさに会いに行くんですか?」
 何か危険なものを感じ、先生の前に立ちはだかるようにして言う俺に、月読は不謹慎なほどに頬を歪ませる。
「だとしたら、君たちはどうするんだ?」
 質問に質問で返してくる月読。やはりこいつは苦手だと、胸の内で弱音を吐く。すべてを見透かしたような騙りや、人を人とも思わない言動。若くして権威あ る職に就けたにもかかわらず、無名校の生物教師なんてものをやっているこの変人は若い教師にありがちな生徒に媚びる様子はまるでなく、誰に対しても態度を 変えない。無論、それは自分より目上であろうと同じだ。その一貫した態度が受けて、一部の人間から人気もあるらしい。
 俺が押し黙っていると、勝ち誇ったように口元だけで月読が笑う。
「安心しろ、霜月生徒。私にロリコン趣味はない。それに私が見舞いに来たのはニ○三号室。わかったら、そこを退いてくれるか。邪魔だ」
 俺は何も言わずに道を譲る。気に喰わない教師ではあったが、俺としてもこいつとこれ以上話していたくなかった。
 月読先生は何の謝意もなく「どうも」と口だけで言うと、さっさと二○三号室のドアノブに手をかけて、何故か一度手を止める。
「ああ、そうだ。霜月生徒。如月生徒。先のことなど何も知らぬ貴様に忠告しておこう。月曜日には雨が降るから、傘を忘れるな。それでは失礼。私のハツカネズミが待っている」
 月読先生はそれだけを一方的にのたまい、返事を待たずにニ○三号室へと消えていった。意味深な一言だったが、さっきの絵のこともあり妙に引っかかりを覚える。今は眠ってしまっている楽弥に、あとで月読先生の情報を集めてもらおう。
「何なんだ、あの教師は」
 誰に言うでもなく口にすると、如月がピクリと反応する。そういえば、あの厄介な教師を最初に見つけたのは如月だった。第一、転校生である如月のことをあの大の生徒嫌いが覚えていることも気になった。
「如月、あいつのことを知っているのか?」
「え。いや、私は何も……授業で会うくらい」
 慌てて眼を逸らす如月。明らかに何かあると思ったが、俺もそれ以上は何も言わず、重たい楽弥を背負い直し、そろって病院を出た。
 その後、如月からは何か言ってくることはなく、一日が過ぎる。事件が起きたのは卯月が登校してくることになっていた月曜日の、放課後の夜のことだった。




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