翌日、そのまた翌日、三日連続で俺たちはうさぎ小屋に通い詰めた。今度は逃げ出さないように楽弥も無理やり引っ張って。
しかし、俺たちの献身的な努力のかいもなく、卯月うさは一向に喋る気配がなかった。最初と比べれば警戒心も若干薄れた気がしなくもなかったが、それでも、言葉を発するまでは至らない。
如月とも、コミュニケーション自体はとれてるし、もういいんじゃないかと提案してもみたのだが、結果は言うまでもなく続行だった。この調子だと卒業するまでうさぎ小屋に通い詰める羽目になるかもしれない。
如月のいう任務は完全に行き詰っているが、一方、文月イルカとの交流は同じ目標ということもあり、うち解け始めてきていた。
彼の筆談にもいつしか慣れ、 初めは堅苦しい断定口調が多かったイルカにも、砕けた言葉使いが増えてきていた。煩わしかった筆談も、今はメールのような感覚になりつつある。なんだかんだ人間とは
適応する生き物なんだと改めて思った。
四日目の放課後、退屈な授業を消化し楽弥の机を囲んで作戦会議を開くことになった。言い出したのはもちろん如月。このままでは何ら進展のないまま時間だけが経つことから、急遽行われることとなったものだ。
「前置きは省くぞ。卯月うさのことだが、この件について私たちは完全に行き詰っている。お前たちの意見が聞きたい。聖、何かあるか?」
「特にない。喋りはしないが、仲良くはなってきてるし、これもある意味任務成功じゃないのか?」
依頼人は誰か知らないが、学校側からの指令は、「コミュニケーションをとる」ということだけで、喋らせるのは俺たちとイルカからのお願いでしかない。三
日試して成果なしというのは、見込みがないのと同義だと言えなくもないだろう。第一、卯月の声も聞いたことがあるのが俺たちだけというのだから、このまま
通い詰めても無駄な気がする
「それも方法の一つではあるな。でも、諦めるのはまだ早いだろう。イルカとの約束もあるし。楽弥は何か言いたいことあるか?」
楽弥も最初こそ乗り気ではなかったが、一度卯月と会ってからというものの先頭を切ってうさぎ小屋にいくほど、この任務と呼べるのか微妙なものに対して熱心だった。理由は任命感だと本人は言っているが、完全に限りなく不純なものだと長い付き合いから分かっている。
腕を組み、唸っていた楽弥はずれたメガネを直し、口を開く。
「うさちゃんは可愛い過ぎる。家に持って帰りたい。触りたい」
「却下だ。真面目にやれ」
真面目だよとムキになって弁解、もとい卯月の可愛いところも熱心にリストアップする楽弥。傍目にも変態としか見えないが、楽弥なりにこの件に真剣に取り
組んでいるようだった。何より、初日来なかったにも関わらず、一番卯月に話しかけているのが楽弥だった。不純な理由にせよ、他人に無関心な楽弥にしてはよ
くやっていると思う。
「と、まあ冗談は置いといて。僕なりにうさちゃんとイルカの野郎、そして所属している特別クラスについて調べてきたよ」
そう言うと楽弥は四次元カバンを机の上にどさっと置き、中から資料でパンパンになったファイルを取り出す。一見、どれがどれだか分らないくらい雑多におさめられていた資料だったが、楽弥はどこに何があるか正確に把握しているらしく、手際よく三つに分けて机に並べた。
「これがうさちゃんの資料。家庭環境から好きな食べ物までまんべんなく調べた。イルカの野郎は家庭環境と障害について。クラスに関しては潜入調査、ついでに教育委員会のサーバーにクラックして調べた。セキュリティが思ったより硬くて苦労したよ」
どんだけ真剣なんだと突っ込みを入れたくなったが、それ以上に楽弥の情報収集力には度肝を抜かれる。大抵のことに関心を示さない代わり、のめり込むとき
はとことんやるのが楽弥の性格だ。その正確さ、スピードと言えば、一介の学生というよりも某国の諜報機関と比べても引けを取らないと言っても過言ではな
い。ただ、一つ言いたいことがあるとするなら……。
「凄い情報量だが、うさの資料だけ他の三倍はあるのは何故だ? 写真や何かも、あまり関係のないものが多いようだが……」
如月の的確な突っ込みが入り、慌てて一部の資料をかき集める楽弥。その慌て振りといえば、見られるとまずい物をベッドの下に隠す思春期の少年そのものだ。
「いや、これは捜査の一環というか、シャッターチャンスというか、いや別にやましい気持はなくてだね。気づいたら調べていたというか、決してストーカーというわけではなく……」
言い訳をすればするほど墓穴をより深く掘り下げていく楽弥だったが、結局、如月が不要と判断した資料はその場で全て没収された。食い下がり、俺に助けを求めてもきたが、無理な相談だった。楽弥はがっくりと肩を落としていたが、自業自得だとしか言いようがない。
そんな楽弥を無視し、一心不乱に資料に目を通していた如月だったが、ある資料の所で真剣な面持ちになり、見ろと言わんばかりの様子で数枚の資料を俺に手渡す。印字された情報は図表を加え、分かりやすく編集されており、一発で家庭環境の資料だとわかる。
「卯月うさ。十七歳。冬海高校一年一組。家庭構成は両親と当人の三人家族。現在は施設に預けられており、別居中。理由は……両親からの虐待」
俺が読みあげずともわかる、わずかニ文字で示される最低の家庭環境。如月、楽弥ともに表情を曇らせ、唇を噛む。無知であることが必ずしも悪いとは言えな
いという文句が頭の中で再生される。怒りと悲しみが入り混じった感情が頭を支配して、気がつくと拳を固く握りしめていた。
「現在両親は服役中。幼少から小学校低学年まで恒常的な暴力にさらされ、あまり学校にも行けなかったそうだ。うさちゃんはそのことを最後まで誰にも相談せ
ずに隠し通した。全身のアザや火傷の痕に疑問を持った近隣住民が通報し、家宅捜索したところ、虐待の事実を裏付ける証拠がいくつも見つかった。ろくな食事
も与えられず、給食費も払われてなかった。家の中には室内ペット用の檻があったらしい。もちろん動物なんて飼ってない」
目を伏せ、奥歯を噛みしめる楽弥。眉間に刻まれた皺に言いようのない怒りを覚える。人間のすることかよと机を殴り、何枚かの資料が床に散らばった。かくいう俺も同じ気持ちだったのは言うまでもない。
「それで、卯月うさはどうしたんだ?」
普段とまた違う怒りを見せる如月に、楽弥は資料には目もくれず、さらさらと如月の過去を暗唱した。
「逮捕の直前、両親のすぐそばで眠っているところを保護された。当時十歳、体はやせ細り、いつ死んでもおかしくない状態だったらしい。父親はその時、右足
を骨折。顔は本人だと確認できないほど腫れあがっていて意識不明の重体。母親は両足を複雑骨折し、意識はあったものの発狂寸前で三人ともすぐさま病院に搬
送されたそうだ。犯人は不明と警察の調書ではなってるけど、その時うさちゃんは両こぶしを骨折していたらしい。だから多分……」
卯月が両親を撲殺しようとした。わずか十余りの少女が大の大人二人に一方的に攻撃し、重傷を負わせたなんてことは常識的には考えられない……だが、状況証拠がそう物語っている。
「臆病なうさぎも七日嬲れば噛みつく……か。両親に反省の意思は?」
如月は卯月の凄絶な過去に触れてしまったことからか苦悩に顔を伏せつつも、持ち前の指名感で質問を続ける。対する楽弥もどす黒い怒りに身を焼かれながらも冷静さを欠くことなく、的確に事実を踏まえて納得いくような答えを上げていく。
「反省どころか面会すら避けている。しかも服役中にわざと違反を繰り返して、出所を遅らせている。堀の向こうには自分の娘がいるからとうわ言のように口走っているらしい。死んじまえばよかったんだ。そんなやつらが同じ人間だなんて思いたくないね」
そう言うと、これ以上そのことには触れたくないとでも言うように楽弥はそっぽを向いた。如月もそれ以上は何も言わず、次の資料に目を通し始めた。
その時、俺は自分の両親について考えていた。虐待されたことはないが、特別仲が良かったわけでもなかった。むしろ、悪かったと言える。両親は俺が拘置所に放り込まれたときから家にはいないことが多くなった。父親に至ってはあれ行こう一度も会っていない。
母親も週に一度帰ってくるくらいで、今はほとんど独り暮らしのような状態だった。理由は聞いていないが、何となく、その内俺の前から完全に姿を消すよう
な気がする。生活費だけは俺の通帳に毎月必要以上に送られているので、生活には問題ないが、普通の家庭環境ではないということだけは確かだった。
はたして、俺が卯月と同じ状況だったとしたら、どうするだろう。卯月は何年もの間、両親を信じて耐え忍んでいたのだろうか。それとも何もできずに、ただ
毎日を精一杯生きることに必死だったのだろうか。考えても答えは出ない、答えは本人の心の中だけにある。今の卯月を形作るものの一つとして、その非人道的
な経験があるのだけは間違いなさそうだ。
「聖、思ったのだが」
「なんだ」
考え事の途中で如月に話しかけられ、思考を中断する。手渡されたのはイルカの資料。プリントされたタイトルによると家庭環境ではなく障害についての資料のようだ。
「普通、喋ることのできない者は、耳も聞こえないことが大半なんだ。聞こえないから発音の仕方が分からない。だから、結果として言葉を喋ることができないという感じで。しかし、イルカは私の話を聞き、筆談で答えている。これはおかしくないか?」
資料に目を通しながら聞いていたが、確かに違和感はあった。資料には声帯の異常、原因不明の先天的なものと書かれているだけで、何故喋れないのかは書かれていない。卯月が喋らないのとは違い、イルカの家庭環境に関しては特に異常は見当たらなかった。
「わからないとしか言いようがない。専門家でもわからないことが俺に分かるわけがないだろう?」
「そうだな。本人に聞いてみるしかないだろう。筆談とはいえ、イルカは私たちに協力的だ」
卯月のことに関しては確かに協力的だが、自分のことについてはほとんど何も語ってないに等しいイルカだったが、聞いて答えてくれるものかは疑わしかった。
俺はイルカの資料を置き、代わりに特別クラスの資料をとる。名簿もあったが、各クラスニ〜三人しかおらず、その他の生徒はあまり登校していないようだっ
た。十組は脳、もしくは心に問題があり、十一組は身体に問題がある生徒が集められているらしい。俺の目に留まったのは新クラス創設の際に、学校側が受け
取った多額の献金だった。
「この月島製薬って会社は何なんだ? 一億近い金が献金されているが」
これは常識的に考えて、普通の金ではないということは素人の俺に出さえ分かる。卯月の家庭環境のことで口を閉ざしていた楽弥だったが、話題が変わったということで気が紛れたのか、思い出しながら、ゆっくりと謎の献金をした企業について話し始める。
「月島製薬はこの国でも五本の指に入る一流企業だよ。主な事業は製薬や健康食品の販売。研究室は群を抜いて高く、病院もいくつか経営してる。株価も年々上
がってきてる優良株だよ。中でも新薬の開発が優秀で海外でも高く評価されてる。悪い噂もあるけど、真実のほどまでは分からないや」
「悪い噂というのは?」
間髪入れず、如月が食いついて来る。言われて思い出したが、この町にも月島系列の病院があり、俺も何度か世話になっている。だが、高校と製薬会社にあまり接点はないように思われるのが妙だった。
「新薬の開発は実際の人間に使用して効果があるか確かめないと国の認可が得られないんだけど、そのために金を払って試薬する人を集めるんだ。それで、その
内の数人が行方不明になってるんだ。年齢。性別もバラバラで一貫性は見られないんだけど、新薬の失敗で死んじゃった人を隠すために月島製薬が隠蔽したって
説がアングラサイトにあった。企業に直接問い合わせた人もいたらしいんだけど、結局のところ分からずじまいらしい。そもそも、ネットの書き込みって時点で
信憑性のかけらもないんだけどね」
火のない所に煙は立たないというが、実際に自分の目で見てみないことには分からないというのが実情だった。ただの学生が噂の真偽を確かめようにも大企業にやすやすと侵入できるわけもない。確たる証拠があれば、如月の力も及ぶところなのだが。
「サイバー捜査官もいるが、ネットの書き込み程度では警察は動けない。その献金の件も企業内からの密告でもなければ、どういう経緯かもわからないのではな。それと、楽弥。ハッキングはサイバー犯罪として扱われるぞ。」
「え? いや、そうかもしれないけど、僕逮捕されんの? 何の形跡も残してないから、バレないと思うんだけど」
そういう問題じゃないだろうといいたくなるが、楽弥の慌てようからしてほかにも余罪がありそうだ。目の前に警視総監の娘がいることを忘れていたのが仇となった。
「今回は見逃す。悪意もないみたいだしな。ただし、盗撮の件に関して次はないと思え。最低な犯罪だ。そんなことで捕まりたくはないだろう?」
「はい。二度としません……」
流石の楽弥もそんなしょうもない罪でお縄になるのはごめんのようだった。青菜に塩をかけたかのようにしゅんとなった楽弥を尻目に、新たに増えた謎を頭の
中で整理する。それぞれが自分たちには手が届かないものばかりだったが、まずは身近なところから少しずつパズルのピースを埋めていくしかない。
俺は資料を整え、席を立つ。楽弥の資料を読んでいる内に大分時間が経ってしまった。今日も卯月はうさぎ小屋にいるだろうか。先行きに不安はあれど、俺た
ちに出来ることは話を聞くだけだ。如月と楽弥も立ちあがり、荷物をまとめる。悩むよりも行動だと俺たちは誰もいなくなった。自分たちのクラスを後にした。
*
うさぎ小屋に着いたころには日も落ちかけ、部活動をしている生徒も大分少なくなっていた。小屋の前に卯月の姿はなく、イルカだけがドアに寄りかかり、俺たちを待っていた。
「悪い。ちょっと話し合ってて遅れた」
俺がそう言うとイルカは筆ペンをとることもなく、スケッチブックをめくる。待ちくたびれたて、俺たちの悪口でも書いていたのかと思ったが、書かれていたのは別のことだった。
『卯月は検査で早退した。卯月から伝言がある』
俺たちが読み終えるのを待ち、イルカが次のページをめくる。描かれていたのはイルカの文字ではなく、ひらがなで書かれた「あすか」と「らくや」。そして、その下に動物の絵だった。以前俺を描いてくれた絵と同様のもののようだ。
「うさちゃんが僕を!? もしかして脈あり!?」
あまりにお約束なボケには誰も突っ込まず、特徴あるイラストの方に視線が注がれる。「らくや」と書かれた文字の下にはあったのは可愛らしいキツネの絵
だった。卯月には楽弥はキツネに見えるらしい。なるほど、確かに楽弥はキツネかもしれない。続いて如月が自分に宛てて描かれた絵の感想を述べる。
「私のこれは、犬? 何か妙なものを頭にのっけているが」
「警察犬だよ、これは!」
楽弥の言う通り、俺にも警察犬に見えた。頭に載せているのはおそらく警察が付けている帽子だろう。
「警察犬は帽子なんて被らないぞ。大体、これはスピッツではないか。警察犬には向かない」
その後も如月はいろいろと文句を言っていたが、如月以外は警察犬で間違いないということで一致した。犬種がスピッツなのも納得できる。キャンキャン吠える辺りが特に。
イルカは俺たちのやりとりを満足そうに見つめ、筆を取る。スケッチブックにはこう書かれていた。
『今日はわざわざ来てくれてありがとな。明日が卯月も来ると思う。それにしても、三人とも動物が出たことには驚いた』
「え、動物じゃないときもあるの?」
楽弥の発言に対し、イルカは大きく頷き、最後の方のページを一気にめくる。そこに描かれていたのはこの世のものとは思えないような黒い物体だった。闇の塊のような黒からはどのような動物ともにつかない不気味な足が飛び出している。
『卯月の両親を描いてもらった。奴らは人間じゃない。悪魔だ。卯月が人間の心を描くとき、動物だとすぐ分かるものを描くことの方が少ない』
パラパラめくられるたびに現れる地獄絵図に俺たちは言葉を失う。どこの誰の絵なのか想像もしたくなかった。というよりも、俺たちはそのグロテスクな生き物が誰なのか簡単に想像できたのだ。それは、他でもない隣人に違いないということを。